2015年09月23日

Coffee Break詩編・163 あなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。(詩編104編1節〜18節)



 わがたましいよ。主をほめたたえよ。
 わが神、主よ。あなたはまことに偉大な方。
 あなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。(詩編104編1節)
 あなたは光を衣のように着、
 天を、幕のように広げておられます。(2節)
 水の中にご自分の高殿の梁を置き、
 雲をご自分の車とし、
 風の翼に乗って歩かれます。(3節)
 風をご自分の使いとし、
 焼き尽くす火をご自分の召使とされます。(4節)

 詩編104編は、103篇と同様、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。」で始まります。103篇は、主が、「私に良くして下さった」ゆえにほめたたえるのですが、104編は主の在りようそのもの――威厳と威光をまとっている姿――の故に、褒めたたえようと歌うのです。
 光、天、水、雲、風などで表徴されるレトリックは、壮大で美しいですね。
 つぎに、そのような美しい主の御業が語られます。

 相変わらず、詩的な言葉が続きますが、聖書読者には、ひどく変わった出来事は、無いように思います。すべて神の御業は、一貫しているのです。

 また地をその基の上に据えられました。
 地はそれゆえ、とこしえにゆるぎません。(5節)
 あなたは、深い水を衣のようにして、
 地をおおわれました。
 水は、山々の上にとどまっていました。(6節)

★★★★★

 創世記の天地創造が、少し言葉と表現を変えて述べられます。

 水は、あなたに叱られて逃げ、
 あなたの雷の声で急ぎ去りました。(7節)
 山は上がり、谷は沈みました。
 あなたが定めたその場所へと。(8節)
 あなたは境を定め、
 水がそれを越えないようにされました。
 水が再び地をおおうことのないようにされました。(9節)
 主は泉を谷に送り、山々の間を流れさせ、(10節)

 水は、聖書を通じて一つのキーワードであると気が付きます。「聖書における水の意味」とでも題して、たくさんのエッセイが書けそうです。創世記の、冒頭から存在する物質なのです。

 初めに、神が天と地を創造した。(創世記1章1節)
 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。(2節)
 神は仰せられた。「光があれ」すると光があった。(3節)

 光でさえ、水の後に、創造されるのです。
 
 水が生命を育む媒体であったことは、生命学にうとい私のような者でも、聞き及んでいます。
 私たちの体の60パーセントは水分だと言われています。水の補給を絶たれたら、たちまち生命の危機に瀕します。聖書では、水争いの話が頻繁に登場します。
 乾燥地帯のシナイ半島やアラビヤ半島では、井戸を見つけることは富と権力を見つけることでした。

★★★★★

 野のすべての獣に飲ませられます。
 野ろばも渇きをいやします。(11節)
 そのかたわらには空の鳥が住み、
 枝の間でさえずっています。(12節)
 主はその高殿から山々に水を注ぎ、
 地はあなたのみわざの実によって満ち足りています。(13節)

 主は家畜のために草を、
 また、人に役立つ植物を生えさせられます。
 人が地から食物を得るために。(14節)
 また、人の心を喜ばせるぶどう酒をも。
 油によるよりも顔をつややかにするために。
 また、人の心をささえる食物をも。(15節)

 平和な光景が語られます。アフリカからのフィルムなどでも、野性動物が水辺で水を飲む姿には、ほっとさせられるものがありますね。
 水があれば、草が生え、ぶどうの木も順調に実を実らせ、人にぶどう酒や食物をもたらすのです。

 主の木々は満ち足りています。
 主の植えたレバノンの杉の木も。(16節)
 そこに、鳥は巣をかけ、
 こうのとりは、もみの木をその宿としています。(17節)
 高い山は野やぎのため、
 岩は岩だぬきの隠れ場。(18節)

 水があれば、レバノン杉のような大木も枝を張ることができ、鳥がその中に巣を懸けるのです。木はまた、いろいろの動物に巣を与え、逃げ場を与えます。
 食べて満ち足りた動物たちのいのちは、美しく繁栄して行くのです。





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2015年09月24日

Coffee Break詩編・164 主は季節のために月を造られました。太陽はその沈む所を知っています。(詩編104編19節〜35節)



 水のもたらす恵みをたたえた後、詩人は、主の創造のみわざを数え上げていきます。

 主は季節のために月を造られました。
 太陽はその沈む所を知っています。(詩編104編19節)
 あなたがやみを定められると、夜になります。
 夜には、あらゆる森の獣が動きます。(20節)
 若い獅子はおのれのえじきのためにほえたけり、
 神におのれの食物を求めます。(21節)
 日が上ると、彼らは退いて、
 自分のねぐらに横になります。(22節)
 人はおのれの仕事に出て行き、
 夕暮れまでその働きにつきます。(23節)

 月と太陽の創造については、創世記14章〜18章にしるされています。

 神は仰せられた。「光るものが天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。(創世記1章14節)
 神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また、星を造られた。(16節)
 神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、(17節)
 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見てよしとされた。(18節)

 昼と夜のサイクルが繰り返されてひと月となります。ひと月が重なって一年となり、太陽の出る位置で季節が定まることは、私たちの生活の基本です。夜と昼は、共に、その時間に活動する動物たちのための環境を作ります。
 生命の営みのための、基本的な時計が寸分の狂いもなく動かされていることに、科学万能の時代の私たちも、神様を思うのではないでしょうか。

★★★★★

 主よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。
 あなたは、それらをみな、
 知恵をもって造っておられます。
 地はあなたの造られたもので満ちています。(24節)

 天体の運動の法則に驚く目は、海を見つめる時、また驚嘆します。

 そこには大きく、広く広がる海があり、
 その中で、はうものは数知れず、
 大小の生き物もいます。(25節)
 そこを船が通い、
 あなたが造られたレビヤタンも、
 そこで戯れます。(26節)
 彼らはみな、あなたを待ち望んでいます。
 あなたが時にしたがって
 食物をお与えになることを。(27節)
 あなたがお与えになると、彼らは集め、
 あなたが御手を開かれると、
 彼らは良いもので満ち足ります。(28節)
 あなたが御顔を隠されると、彼らはおじ惑い、
 彼らの息を取り去られると、
 彼らは死に、おのれのちりに帰ります。(29節)
 あなたが御霊を送られると、彼らは造られます。
 また、あなたは地の面を新しくされます。(30節)

 今はさんまの季節ですが、テレビなどで、漁船が大きな網にあふれるほどさんまを釣り上げているのを見ます。カツオの季節にはカツオが。イカの時季にはイカが漁船を傾かせるほど獲れるのです。毎日、毎月、毎年、これほどの海の幸が、海の中で生まれ養われているのです。これもまた、私たちに神の恵みを、恐れをもって覚えさせます。このような幸が自分のいのちを繋いでくれているのですから、その恐れは当然です。

 主の栄光が、とこしえにありますように。
 主がそのみわざを喜ばれますように。(31節)
 主が地に目を注がれると、地は震え、
 山々に触れられると、山々は煙を上げます。(32節)

 山が震え、煙を上げる様子を、火山国の私たちはよく知っています。自然は単なる背景ではなく、自然そのものが活発に活動しているのです。
 地震や火山の噴火は、ときに私たちを脅かすのです。同時に、私たちは、それらをお造りになった神のみわざの「すごさ」に打たれ、恐れるのではないでしょうか。

 私は生きているかぎり、主に歌い、
 いのちのあるかぎり、
 私の神にほめ歌を歌いましょう。(33節)
  私の心の思いが神のみこころにかないますように。
 私自身は、主を喜びましょう。(34節)

 神の御業は、人間の意志やわざをはるかに超えていることを知ると、いよいよ主をほめたたえる気持ちになります。
 すべての主権をお持ちの大きな神様に信頼する時、悪者の悪も必ず終わらせて下さるとわかるのです。

 罪人らが地から絶え果て、
 悪者どもが、もはやいなくなりますように。
 わがたましいよ。主をほめたたえよ。
 ハレルヤ。(35節)








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2015年09月25日

Coffee Break詩編・165 主が行なわれた奇しいみわざを思い起こせ。その奇蹟と御口のさばきとを。(詩編105編1節〜15節)


 礼拝の時は、まず、主をほめたたえること。感謝することをの二点を最初に教えて下さったのがだれなのか、私自身もう忘れています。
 まだ、イエスさまを信じていなかったときにも何度か教会へ行って礼拝に参加していましたから、その時に、形として覚えたのかもしれません。
 けれども、今では、神様の御前で、賛美と感謝がしぜんに最初に口を突いて出ます。意識してすることか、無意識で口に上ることかを考えることさえありません。
 詩編は、これら祈りの形は、もう古代から続いている「神の民」のスタイルなのだと気づかせてくれるのです。

 主に感謝して、御名を呼び求めよ。
 そのみわざを国々の民の中に知らせよ。(詩編105篇1節)
 主に歌え。主にほめ歌を歌え。
 そのすべての奇しいみわざに思いを潜めよ。(2節)
 主の聖なる名を誇りとせよ。
 主を慕い求める者の心を喜ばせよ。(3節)
 主とその御力を尋ね求めよ。
 絶えず御顔を慕い求めよ。(4節)

 ほめたたえる理由は、主が尋常ならざる方だからです。天地を創造された方。どのような奇蹟でも、おできになる方だからです。また、主は、「聖なる方」です。どんな悪をも楽しむような「魔法使い」ではなく、絶対的に義(ただ)しい方なのです。
 あまりにも、有限な私たちは、これほどの御力をお持ちになる神に造られたと思うだけで胸に感謝が迫ってきます。私たちの声や叫びを聞いてくださるそのような方を、尋ね求め、慕い求めないではいられません。その御顔も御力も、思い起こすまでもなく、私たちの心を喜びで満たすのです。

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 主が行なわれた奇しいみわざを思い起こせ。
 その奇蹟と御口のさばきとを。(5節)
 主のしもべアブラハムのすえよ。
 主に選ばれた者、ヤコブの子らよ。(6節)
 この方こそ、われらの神、主。
 そのさばきは全地にわたる。(7節)

 主の、尋常ならざる御力と絶対的な主権は、最初、アブラハムとその子孫に知らされました。ヤコブ(イスラエル)の子らが、神の選びの民とされることは、全人類が「聖書の神」を知る源でした。

 主は、ご自分の契約をとこしえに覚えておられる。
 お命じになったみことばは千代にも及ぶ。(8節)
 その契約はアブラハムと結んだもの、
 イサクへの誓い。(9節)
 主はヤコブのためにそれをおきてとして立て、
 イスラエルに対する永遠の契約とされた。(10節)
 そのとき主は仰せられた。
 「わたしはあなたがたの相続地として
 あなたに、カナンの地を与える。」(11節)

 主がアブラハムに約束されたのは、アブラハムの子孫が地のちりのように増えること。
カナン(相続地)をお与えになること。彼らの子孫から全人類が祝福に入ることの、三点でした。
 神様の壮大な「救いのご計画」のために、神様は、実際、イスラエルに特別なご配慮をなさったのだなあと、聖書読者は思いを新たにするです。

 そのころ彼らの数は少なかった。
 まことにわずかで、そのうえそこでは、
 寄留の他国人であった。(12節)
 彼らは、国から国へ、
 一つの王国から他の民へと渡り歩いた。(13節)
 しかし主は、だれにも彼らをしいたげさせず、
 かえって、彼らのために王たちを責められた。(14節)
 「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。
 わたしの預言者たちに危害を加えるな。」(15節)








posted by さとうまさこ at 11:19| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月26日

Coffee Break詩編・166 主は、そのしもべモーセと、主が選んだアロンを遣わされた。(詩編105編16節〜36節)



 詩編105篇は、主をほめたたえ、感謝するその根拠として、イスラエルの歴史を振り返っています。
 主の良くして下さったことを何一つ忘れるな。(詩編103篇2節)とある通りです。

 アブラハムに始まるイスラエル民族は、ヤコブの子らがエジプトに渡ることで、民族と呼ばれるほど増え、強くなっていくのです。
 そのきっかけは、ヤコブの子ヨセフが兄弟たちに憎まれて砂漠の商人に売られ、さらにエジプトで奴隷として売られることです。ヨセフが先にエジプトに入るのは「神様のご計画」でしたから、その地でヨセフは出世し、王の権限の多くをゆだねられるのです。
 そこから先、出エジプトを果たすまでが、次のように思い起こされています。

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 こうして主はききんを地の上に招き、
 パンのための棒をことごとく折られた。(16節)
 主はひとりの人を彼らにさきがけて送られた。
 ヨセフが奴隷に売られたのだ。(19節)
 彼らは足かせで、ヨセフの足を悩まし、
 ヨセフは鉄のかせの中にはいった。(18節)
 彼のことばがそのとおりになる時まで、
 主のことばは彼をためした。(19節)
 王は人をやってヨセフを解放し、
 国々の民の支配者が、彼を自由にした。(20節)
 王はヨセフを自分の家のかしらとし、
 自分の全財産の支配者とした。(21節)
 これはヨセフが意のままに王の高官を縛り、
 王の長老たちに知恵を与えるためだった。(22節)
 イスラエルもエジプトに行き、
 ヤコブはハムの地に寄留した。(23節)

 ヨセフがエジプトで出世して行くプロセスはもちろん、主が共にいてこそありえたのです。彼が、神様によってしだいに整えられていき、出世して行く様子は、感動的です。(創世記39章〜41章)
 ハムは、ノアの息子、セム・ハム・ヤベデの内、ハムから増えた民族です。エジプトはハムの子孫だったのです。
 
 主はその民を大いにふやし、
 彼らの敵よりも強くされた。(24節)
 主は人々の心を変えて、御民を憎ませ、
 彼らに主のしもべたちを、ずるくあしらわせた。(25節)

 最初は、宰相ヨセフの一族としてエジプトに入国したイスラエル一族も、時代が下り、エジプトの王朝が変わる中で、いつしか奴隷となってしまいました。しかし、そうさせたのもまた、「主のご計画」であったという認識が歌われています。

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 次の段落は、モーセとアロンの召命と、彼らがイスラエルの民をエジプトから連れ出すにあたって、神が起された奇跡の数々が、述べられています。

 主は、そのしもべモーセと、
 主が選んだアロンを遣わされた。(26節)
 彼らは人々の間で、主の数々のしるしを行ない、
 ハムの地で、もろもろの奇蹟を行なった。(27節)
 主はやみを送って、暗くされた。
 彼らは主のことばに逆らわなかった。(28節)
 主は人々の水を血に変わらせ、
 彼らの魚を死なせた。(29節)
 彼らの地に、かえるが群がった。
 王族たちの奥の間にまで。(30節)
 主が命じられると、あぶの群れが来た。
 ぶよが彼らの国中にはいった。(31節)
 主は雨にかえて雹を彼らに降らせ、
 燃える火を彼らの地に下された。(32節)
 主は彼らのぶどうの木と、いちじくの木を打ち、
 彼らの国の木を砕かれた。(33節)
 主が命じられると、いなごが来た。
 若いいなごで、数知れず、(34節)
 それが彼らの国の青物を食い尽くし、
 彼らの地の果実を食い尽くした。(35節)
 主は彼らの国の初子をことごとく打たれた。
 彼らのすべての力の初めを。(36節)

 出エジプト記8章〜12章にある十の奇蹟は、まことに壮大な「ふしぎ」の連続です。
 神様でなければできない御業ばかりです。
 けれども、以降、神様がこのような御業を顕されないと言うことではなかったのです。

 捕囚の民は、捕囚から帰還し、神殿を再建できたとき、彼らの体験を出エジプトの一連の出来事と重ね合わせているのです。
 バビロン捕囚からの解放は、それほど大きな出来事だったということでしょう。






posted by さとうまさこ at 10:38| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月27日

Coffee Break詩編・167 安保法案問題によせて



 最近の世論の課題は、安保法案でした。さとうは政治にはうといので、これに対して説得力のある意見を言うことはできません。自分でも反対か賛成かよくわからないのです。

 国防ということなら、どの国も戦うときは戦わなければならないでしょう。過去、人間の歴史において戦争がなかった時代などありません。国境が今日のように「固定したもの」となったのは、まさに「こんにち」のことです。
 日本は大海で国境が守られている世界でもまれに見る幸運な国ですから、私たちはつい、この国境線は不動のものと思いがちです。さらに人類が戦ってきたのは、食物のためだったと思われます。飢饉や干ばつで食べ物がなければ、近隣の豊かな地域に押し入って略奪するか、貿易など交渉によって手に入れるしかありません。あるいは、「民族の大移動」です。平和的交渉以外は、戦いが起ります。

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 出エジプトを果たした「神の民・イスラエル」も、戦いを避けることはできませんでした。
 カナンに入るために、その地の民を滅ぼしては入れと言うのが、神の御命令でした。カナンの七部族は罪に満ちていて、アブラハムの時代から四百年以上の猶予が与えられていましたが、彼らが変わることはなかったのかもしれません。彼らへの罰は変わっていなかったのです。
 神はイスラエルに対してカナンの地を約束して下さったのですが、イスラエルの民は,口を開けてカナンが入るのを待っていたわけではありません。マナやウズラを降らせて下さった神、どのような奇蹟でもおできになる神なのですから、何らの災害を送ってカナンの民をすべて滅ぼし、更地にしてからイスラエル人を入れて下されば、じつに「平和的だった」と思うのです。
 けれども、カナンを取るのは、そのような「楽」な道ではなかったのです。神の民には、神の民としての義務があったと言うべきでしょうか。

 ヨシュア記に見られるような激しい戦いがあって、カナンはイスラエルの相続地となりました。ヨシュア記の勇ましい記録にもかかわらず、イスラエルはカナンの民を滅ぼしつくすことはできませんでした。いわば、混在状態のまま相続地の分配を行ない、完全占領ができていない場所は、未来に亘って取ることが義務付けられたのです。

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 「剣を取る者は、剣で滅びる」と警告されるイエスさま(神様)ですが、その啓示は、新約の時代に、与えられたものです。「右の頬を打たれたら左の方も差し出せ」「一里行くように強いられたら二里行くように」というのも同じです。

 こんなことは、もともと人間にできるでしょうか。人間は、何気なく人の体がぶつかったでけでも、虫の居所によっては激怒するのです。相手の目つきが気に入らないと思って、恨みを抱いたりするほど自己防衛意識が強いのです。そうしていざ衝突すると、強く狡猾なほうが勝つのです。
 神様が自分のささげ物より弟のささげ物に(好意的に)目を止められたと思った時のカイン。そのとき、罪(悪魔)は入り口で待ち伏せしていたのです。カインは、弟を野に誘って殺してしまいます.
この結果に満足したのは、悪魔だけでしょう。(創世記4章)

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 政治的な理由はいろいろあるでしょう。安保条約(他国との同盟)で国を守るのがいやなら、悪魔の支配するこの世で、私たちが選ぶ道は二つしかないのかなと思うのです。ひとつは、自衛するだけの装備(軍隊と国民的コンセンサス)をもつこと。もうひとつは、完全な無抵抗主義です。

 永世中立を表明しているスイスは、国民皆兵の国です。スイス人の友人の家で、いざ戦いが起った時のために武器と装備一式を見せてもらったことがあります。りっぱな小銃を実際に手に持たされて、私はほんとうに震えてしまいました。こんなものをどの市民ももっているとして、よく事件が起こらないものだと思いました。夜道を歩いている時、あの二階の窓から弾が飛んでくるかもしれないと、当時、ミステリーマニアだったさとうは思ったのです。
 もちろん、彼らの武器に対する自覚はアメリカ人とは違うのでしょう。私の質問に友人は、「自分たちはアメリカ人とは違う」と笑いました。「時たま、国の銃で自殺をする人間がいるくらいだ」と。
 永世中立、独立した防衛には、国防意識などの責任と、それなりの「経費」が伴うと思います。
 絶対に戦いたくないと言うのも、もちろん、正しい選択かと思います。
 しかし、それだけの覚悟があるかどうかです。
「右の頬をたたかれたら、左の頬を差し出せますか」
 
 もちろん、そうできれば、クリスチャンだけでもそうすれば、麗しいでしょう。
 「平和をつくる者は幸いです」(マタイの福音書5章9節)
 とイエスさまは仰せなのです。






 

posted by さとうまさこ at 09:25| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする