2015年09月15日

Coffee Break詩編・155 主は聖である。王の力は、さばきを愛する。(詩編99編1節〜9節)



 主は王である。
 国々の民は恐れおののけ。
 主は、ケルビムの上の御座に着いておられる。
 地よ、震えよ。(詩編99篇1節)
 主はシオンにおいて、大いなる方。
 主はすべての国々の民の上に高くいます。(2節)

 聖書がわかりにくいことのひとつに、神様がどういうお方かわかりにくいということがあると思います。
 みんな知っていることばなので、かえってわかりにくいのです。昨日も、テレビであるタレントさんが自分の経験として「神様に騙された」「神様ごっこは止めた」みたいな発言をしていました。この言葉でも現れているように、同じ「神様」という言葉を使っても、全く別物を語っている人は多いですね。たぶん、彼女の信仰には、その宗教の名前があるでしょうから、はっきり言ってくれるとまだわかりやすいのです。「○○教」「教祖は▼▲さんとかです。
 
 聖書の神様は、一言で言えば、「天地万物を創造された全知全能の方」ですが、もちろん、固有名詞はお持ちでありません。神ご自身の自己紹介を借りると「あってある者」となります。この世界をすべて有らしめておられる方なのです。
 同時に、ここで呼びかけられているように、神は「王」ですし、それも、すべての国々の民の上に君臨しておられる王です。
 今は王制は少なくなり、仮に存在する国でも、王は「君臨すれど統治せず」の制度がほとんどです。親しみは敬愛を覚えても、王を「おそれ」「ほめたたえる」「ひれ伏す」べき方であると思う人は少ないのです。しかし、もともと、ほとんどの国は王制でした。

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 国々の民よ。
 大いなる、おそれおおい御名をほめたたえよ。
 主は聖である。(5節)
 王の力は、さばきを愛する。
 あなたは公正を堅く立てられた。
 あなたは、ヤコブの中で、
 さばきと正義を行なわれた。(4節)
 われらの神、主をあがめよ。
 その足台のもとにひれ伏せ。
 主は聖である。(5節)

 王は、強大な権力を一手に握っている人でした。とりわけ、王の仕事は、人間社会に、かならず生まれる人と人の争いを調停することです。つまり、「さばき」です。さばきがうまくできなくては、王は務まりません。王は戦争の決断もしなければなりません。戦うべき時に、「戦え」と号令ができなくては民に侮られるでしょう。本来、外国との紛争を調停してくれるさらに上の王がいればよいのですが、これは、今日の国連でもうまく機能していません。
 国内を裁くにしても、外国と戦うにしても,そのような判断は、大変むずかしいのではないでしょうか。正義や公正という「義」が必要になります。王自身が、間違いのない判断ができるような「聖さ」を維持していなければなりません。
 とはいえ、人間の王にとって、大義も公正も、聖さも多分に、「掛け声」です。じっさいは、人間が、完全に正しい判断を下すなんてできないのですから。

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 モーセとアロンは主の祭司の中に、
 サムエルは御名を呼ぶ者の中にいた。
 彼らは主を呼び、主は彼らに答えられた。(6節)
 主は、雲の柱から、彼らに語られた。
 彼らは、主のさとしと、
 彼らに賜わったおきてとを守った。(7節)

 神聖政治国家イスラエルでは、王は神なのです。モーセもアロンもサムエルも、神の御心を聞いて行った人たちです。
 完全に聖なる方、どのような間違いもなさらない、ほんとうの神が王ですから、このような賛美を、歌うことができるのです。

 われらの神、主。あなたは、彼らに答えられた。
 あなたは、彼らにとって赦しの神であられた。
 しかし、彼らのしわざに対しては
 それに報いる方であった。(8節)
 われらの神、主をあがめよ。
 その聖なる山に向かって、ひれ伏せ。
 われらの神、主は聖である。(9節)








posted by さとうまさこ at 10:25| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする