2015年09月16日

Coffee Break詩編・156 知れ。主こそ神。感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ(詩編100編1節〜5節)




 詩編100篇は、詩編95篇から続く一連の賛歌の締めくくりです(新実用聖書注解・いのちのことば社)
 その背景は、神によるバビロンからの解放と神殿の再建という事実の中に神の王国の世界的な性格を意識し、諸国に対して礼拝への招きを行なう。(同注解書P804)とあります。

 感謝の賛歌

 全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。(詩編100篇1節)
 喜びをもって主に仕えよ。
 喜び歌いつつ御前に来たれ。(2節)

 こんにちの教会では日曜日ごとに礼拝をもつのですが、多くのクリスチャンが何にも優先して礼拝に参加するのは、それが「喜び」だからですね。奉仕をしたり、献金をしたりするのも、喜びだからです。喜び歌いつつ主の前に出て行くことができるのは、本来の姿ですね。
 礼拝の喜びは、心理学でいう「笑えば嬉しくなる」つまり、「動作が感情を誘発する」といったトリックのためではないと思います。

 歓びの理由があるのです。
「主こそ(わが)神」です。「イワシの頭も信心から」と言いますが、「イワシの頭を信仰する」ような信仰は、「ただ信じ込むだけ」です。私たちの神は、イワシの頭も含めて万物をお造りになった方です。何よりも、私(たち)に命を与えて下さった方です。

 知れ。主こそ神。
 主が、私たちを造られた。
 私たちは主のもの、主の民、
 その牧場の羊である。(3節)

 造られたものはすべてお造りになった方の所有物です。「彼」が信じる信じないにかかわらず、すべての人は、創造者がお造りになった被造物です。彼の両親がDIYで材料を買ってきて人型を作り、そこに「いのちの息を吹き込んで」彼を生んだのでないかぎり、創造者はべつにおられるのです。それが「主」です。

★★★★★

 感謝しつつ、主の門に、
 賛美しつつ、その大庭に、はいれ。
 主に感謝し、御名をほめたたえよ。(4節)
 主はいつくしみ深く
 その恵みはとこしえまで、
 その真実は代々に至る。(5節)

 神が私にして下さったことを考えると、感謝と賛美が湧きあがってきますね。「主の門」や「その大庭」は、神様にお会いできる場所――神殿に入る大切な場所です。その先に聖所と至聖所があるとパウロも言っています。(Tコリント人への手紙3章16節)から、門も大庭も自分の心の中に存在しているのです。しかも、父なる神に取り次いでくださるのは、ほんとうの大祭司キリストです。

 この詩が成立したころの民(前516年頃)から見ると、一人ひとりの心の中に、至聖所があって、一人ひとりのために大祭司が、先だって父なる神に取りついてくださる状況は、きっと羨ましがられるような恵みですね。
 
 今では、ケイタイはすっかり普及して、誰でもその家族や受付を通さず、目的の人とすぐに電話で会話ができる仕組みが実現しています。
 でも、神様は、2千年も前に、神様と私たち個人個人が、主の聖所には行って礼拝することができる仕組みを、(何の功績もない)人類に与えて下さったのです。
 感謝!!!




 

posted by さとうまさこ at 09:33| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする