2015年09月17日

Coffee Break詩編・157 私は、恵みとさばきを歌いましょう。主よ。あなたに、ほめ歌を歌いましょう。(詩編101編1節〜8節)



 この詩は、ダビデ王が主の箱を迎える準備をしたときの歌と考えられるが、その喜びの状況が捕囚からの帰還と神殿礼拝の回復という現実の中で再現されて用いられている。(新実用聖書注解・いのちのことば社)
 つまり、ダビデ王の口を通して、捕囚後の共同体指導者の自覚を促している(同)、というのです。
 1節から4節は私的生活の覚悟、5節から8節は対人関係の心得の表明、です。

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 ダビデの賛歌
 私は、恵みとさばきを歌いましょう。
 主よ。あなたに、ほめ歌を歌いましょう。(詩編101篇1節)

 王は神の地上的代行者ですから、神と同じように、恵みを与え、さばきを公正におこなわなければなりません。そのような権威を王にお与えになっている、神(主)を、見上げてほめ歌を歌う王でなければなりません。
 信賞必罰ということばがありますが、この「賞」と「罰」は、王に都合のよい行いを基準に与えられるべきものではないからです。あくまで、神の御前に正しい者への賞であり、神に背く者への罰でなければ、ならないのです。その意味でも、いつも王みずからが、神を見上げていなければならないということではないでしょうか。

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 私は、全き道に心を留めます。
 いつ、あなたは私のところに来てくださいますか。
 私は、正しい心で、自分の家の中を歩みます。(2節)
 私の目の前に卑しいことを置きません。
 私は曲がったわざを憎みます。
 それは私にまといつきません。(3節)
 曲がった心は私から離れて行きます。
 私は悪を知ろうともしません。(4節)

 ダビデが、私的生活において数々の間違いを犯したことは聖書にも記されています。代表的なのは、バテ・シェバ事件です。姦淫の罪を犯し、さらに相手の女性の夫を殺すという殺人の罪まで犯しました。
 また、娘タマルが異母兄アムノンに凌辱された時にも、何の手を打つこともありませんでした。それが、アブシャロム事件の引き金となったのは事実です。また、ダビデ軍の将軍で、ダビデの甥であるヨアブは、かなり私利私欲で動く策謀家でしたが、ダビデは彼の悪をしばしば見過ごしています。これも、後に、ソロモンに対するアドニヤの反乱の遠因になっています。

 王といえども、「家庭を治める」のは難しいことなのでしょうが、結局、家族にたいして,また自分にたいして、正しい「信賞必罰」を行なえなかったのです。

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 それでも、イスラエルの王としてのダビデが、優秀で誠実な神の権威の代行者だったことは否定できないでしょう。
 神にたいする真実な信仰。王国が安定するまでの果敢な戦いぶり。敵となって自分のいのちを付け狙うサウル王にたいしても、「神から油を注がれた者にたいする敬意と愛」を失いませんでした。
 預言者に忠告された時には、真摯に耳を傾けて、自分の態度を改めました。

 ですから、彼には、いざとなると真実を尽くしてくれる友が大ぜい現れ、彼は天寿をまっとうしました。また、イスラエル王国を不動のものとして確立し、つぎのソロモンに渡すことができました。

 王としてのダビデの生涯は、つぎの詩と整合性を持つものだと考えられます。

 陰で自分の隣人をそしる者を、
 私は滅ぼします。
 高ぶる目と誇る心の者に、
 私は耐えられません。(5節)
 私の目は、国の中の真実な人たちに注がれます。
 彼らが私とともに住むために。
 全き道を歩む者は、私に仕えます。(6節)
 欺く者は、私の家の中には住みえず、
 偽りを語る者は、
 私の目の前に堅く立つことができません。(7節)
 朝ごとに、私は国の中の悪者を
 ことごとく滅ぼします。
 それは主の都から、不法を行なう者を
 ことごとく断ち切るためです。(8節)






posted by さとうまさこ at 09:56| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする