2015年09月28日

Coffee Break詩編・168 救い出される理由(詩編105篇37節〜45節)



 出エジプト記に見る神の救いのみわざは、ほんとうに素晴らしいのです。奴隷であったイスラエルの民を開放し、アブラハムに約束されたカナンをお与えになるために、決然としるしとふしぎの数々を顕しておられます。
 十の奇蹟や葦の海の奇蹟などは壮大過ぎて、クリスチャンでさえ、何度読んでもなかなか納得できません。科学的に見てそんなことがあり得るのか、などと言う観点から、いろいろ解釈している人もいます。
 いわく。葦の海の奇蹟は、ちょうど引き潮であったのだと。
 しかし、科学的な分析や解釈はあまり意味がないように思うのです。聖書の神は、この世界の物質をすべて創造されたのです。物質世界の法則は、神の被造物の中にあらわれた法則に過ぎません。神様なら、時に、その法則から例外を顕すこともおできになるはずです。
 
 開けることのできない門を開けることも、閉じてはならない戸を閉じることも、神の御心次第です。神に不可能はないと言われるとおりです。(マルコの福音書10章27節)

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 主は銀と金とを持たせて御民を連れ出された。
 その部族の中でよろける者はひとりもなかった。(詩編105篇37節)

 エジプトは彼らが出たときに喜んだ。
 エジプトに彼らへの恐れが生じたからだ。(38節)
 主は、雲を広げて仕切りの幕とし、
 夜には火を与えて照らされた。(39節)
 民が願い求めると、主はうずらをもたらし、
 また、天からのパンで彼らを満ち足らわせた。(40節)
 主が岩を開かれると、水がほとばしり出た。
 水は砂漠を川となって流れた。(41節)
 これは主が、そのしもべアブラハムへの
 聖なることばを、覚えておられたからである。(42節)
 主は御民を喜びのうちに連れ出された。
 その選ばれた民を喜びの叫びのうちに。(43節)
 主は、彼らに国々の地を与えられた。
 彼らが国々の民の労苦の実を
 自分の所有とするために。(44節)

 詩編104編から続く、出エジプトの記憶は捕囚時代の民に、かなり美しいものとして思い出されています。なにしろ、全能の神の後ろ楯があったのです。住むべき地もなく、エジプトの寄留民であったイスラエルにとって、神が全面的にバックアップして下さって救い出されたと言う記憶は、民族のアイデンティティだったに違いありません。
 神様の目からご覧になったら、(もちろん、神様の書物では)出エジプトから、カナンに至る道中にしばしば神を疑い、神につぶやいた事実があるのです。およそ神様からご覧になって理想的な民でないゆえ、イスラエルの民は、どんなときも自分たちの神がイスラエルをふたたび、解放して下さると信じることができたはずです。

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 これは、彼らが主の掟を守り、
 そのみおしえを守るためである。
 ハレルヤ。(45節)

 この最期の節は、含蓄がありますね。イスラエルの民は、自分たちが救い出された記憶に対し、自分たちの側になにか「功績があったからではない」ことを認めているようです。
 イスラエルを救われた神の意図するところは、ただ、「彼らが主の掟を守り、そのみおしえを守るためである」と断言しているのです。
 まさに、神の側からすれば、「主の選びの民」を形成されるためであるということでしょう。
 
 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。(エペソ人への手紙2章8節)
 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(9節)

 新約聖書のこのみ言葉と同じ意味のことが、詩編にも歌われているのを見て、身が引き締まります。恵みや賜物をいただくだけの功績は、私にはまったくなかったのですね。けれども、いただいた恵みの結果として、自分にも何かができるだろうかと考えるようになったのは事実です。
 ハレルヤ!







posted by さとうまさこ at 10:56| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする