2015年09月29日

Coffee Break詩編・169 過去を振り返る(詩編106篇1節〜43節)



 ハレルヤ。主に感謝せよ。
 主はまことにいつくしみ深い。
 その恵みはとこしえまで。(詩編106篇1節)

 祈りが、神さまへの賛美と感謝から始まるのは、聖書の神と人間との関係を考えると当然のことです。
 自分の存在、自分を取り囲む「環境」の存在。うれしいことだけではなく時には痛みや悲しみをもたらす「環境」ですが、それでも、それなくしては私たちの存在はありえないし、私たちは「環境」に支えられているのだなと思うのです。
 言い換えれば、この世の存在物をすべて、有らしめておられる神様に支えられていることに気が付くのです。
 神様の壮大なみわざと御力を思うと、褒めたたえずにはいられませんし、その中で産みだされ生かされていることに、感謝しないではいられません。

 しかも、イスラエルは「神の選びの民」です。ほかの誰にもできないほど、神の御力を知り、恵みを受けて来たのです。その栄誉(ほまれ)を、すべてふれ知らせたいと願うのは当然です。

 だれが主の大能のわざを語り、
 そのすべての誉れをふれ知らせることができよう。(2節)
 幸いなことよ。
 さばきを守り、正義を常に行う人々は。(3節)

 主よ。あなたが御民を愛されるとき、私を心に留め、
 あなたの御救いのとき、私を顧みてください。(4節)
 そうすれば、私は
 あなたに選ばれた者たちのしあわせを見、
 あなたの国民の喜びを喜びとし、
 あなたのものである民とともに、
 誇ることができるでしょう。(5節)

 ここでは、神と民として、神の戒めを守り正義を行なわなければならないことが、確認されています。そして、もちろん、そのような自覚は、「痛みを伴う」のです。

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 詩編106篇では、過去イスラエルの民が神に叛いた出来事が振りかえられています。
 国が亡び、民が捕囚生活を余儀なくされたのは、まさに、彼らが神にたいして犯した罪のためでした。

 私たちは先祖と同じように罪を犯し、
 不義をなし、悪を行なった。(6節)
 私たちの先祖はエジプトにおいて、
 あなたの奇しいわざを悟らず、
 あなたの豊かな恵みを思い出さず、
 かえって、海のほとり、葦の海で、逆らった。(7節)
 しかし主は、御名のために彼らを救われた。
 それは、ご自分の力を知らせるためだった。(8節)
 主が葦の海を叱ると、海は干上がった。
 主は、彼らを行かせた。深みの底を。
 さながら荒野を行くように。(9節)
 主は、憎む者の手から彼らを救い、
 敵の手から彼らを贖われた。(10節)
 水は彼らの仇をおおい、
 そのひとりさえも残らなかった。(11節)
 そこで、彼らはみことばを信じ、
 主への賛美を歌った。(12節)

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 悔いることは、やり方を間違うと、ひどく空しい「非生産的な行為」となります。いわゆる「死んだ子の年を数える」に等しいのです。
 つまづきの後の痛みや損失が長く後を引くとき、私たちも後悔のために、かえって立ち上がれなくなったりするのです。

 失敗を自分だけで抱え込んでしまうと「救い」がありません。「自分が悪かったのだ」「自分が無能だったんだ」と、どんどん落ち込んで、戻れないほどの心の傷になる人も少なくなさそうです。逃げ込むための心の殻を築くこともできない人は、怒りを他者に向けるかもしれません。自分を躓かせたもの、失敗の原因、苦しみの原因を、親や友人や社会に向けて怒りと復讐の炎を燃やすかもしれません。
 毎日のようにメディアを賑わす「ありふれた殺人事件」の多くは、その人が自覚するしないに関わらず、自分の罪の恐ろしさから目を逸らそうと、人を傷つけるものなのでしょう。

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 幸い、神の民は神様に向かうことができます。神様に向かう時、後悔は、「悔い改め」になります。「改めればいいよ。許されるのだから」と言って下さる方がいるのです。間違いを悔改めれば許していただけて、またまっさらの気持ちでやり直せる。神様を見あげて感謝すれば、やり直せると言うのは、神を信じる者の幸いです。アブラハムの時代から、神様はそのようにして、私たちを恵みと祝福で満たして下さったと聖書に記されています。
 
 彼らは自分たちの罪を、じゅんじゅんと振り返って行きます。
 出エジプト記から、民数記までの荒野の40年が振りかえられています。

 しかし、彼らはすぐに、みわざを忘れ、
 そのさとしを待ち望まなかった。(13節)
 彼らは、荒野で激しい欲望にかられ、
 荒れ地で神を試みた。(14節)
 そこで、主は彼らにその願うところを与え、
 また彼らに病を送ってやせ衰えさせた。(15節)

 彼らが宿営でモーセをねたみ、
 主の聖徒、アロンをねたんだとき、(16節)
 地は開き、ダタンをのみこみ、
 アビラムの仲間を包んでしまった。(17節)
 その仲間の間で火が燃え上がり、
 炎が悪者どもを焼き尽くした。(18節)
 彼らはホレブで子牛を造り、
 鋳物の像を拝んだ。(19節)
 こうして彼らは彼らの栄光を、草を食らう雄牛の像に取り替えた。(20節)
 彼らは自分たちの救い主である神を忘れた。
 エジプトで大いなることをなさった方を。(21節)
 ハムの地では奇しいわざを、
 葦の海のほとりでは恐ろしいわざを、
 行なわれた方を。(22節)
 それゆえ、神は、
 「彼らを滅ぼす。」と言われた。
 もし、神に選ばれた人モーセが、
 滅ぼそうとする激しい憤りを避けるために、
 御前の破れに立たなかったなら、
 どうなっていたことか。(23節)

 しかも彼らは麗しい地をさげすみ、
 神のみことばを信ぜず、(24節)
 自分たちの天幕でつぶやき、
 主の御声を聞かなかった。(25節)
 それゆえ、主は彼らにこう誓われた。
 彼らを荒野で打ち倒し、(26節)
 その子孫を国々の中に投げ散らし、
 彼らをもろもろの地にまき散らそうと。(27節)

 彼らはまた、バアル・ペオルにつき従い、
 死者へのいけにえを食べた。(28節)
 こうして、その行ないによって御怒りを引き起こし、
 彼らの間に神罰が下った。(29節)
 そのとき、ピネハスが立ち、
 なかだちのわざをしたので、その神罰はやんだ。(30節)
 このことは、代々永遠に、
 彼の義と認められた。(31節)

 彼らはさらにメリバの水のほとりで主を怒らせた。
 それで、モーセは彼らのために
 わざわいをこうむった。(32節)
 彼らが主の心に逆らったとき、
 彼が軽率なことを口にしたからである。(33節)

 彼らは、主が命じたのに、国々の民を滅ぼさず、(34節)
 かえって、異邦の民と交わり、
 そのならわしにならい、(35節)
 その偶像に仕えた。
 それが彼らに、わなであった。(36節)
 彼らは自分たちの息子、娘を
 悪霊のいけにえとしてささげ、(37節)
 罪のない血を流した。
 カナンの偶像のいけにえにした
 彼らの息子、娘の血。
 こうしてその国土は血で汚された。(38節)
 このように彼らは、
 その行ないによっておのれを汚し、
 その行ないによって姦淫を犯した。(39節)

 それゆえ、主の怒りは御民に向かって燃え上がり、
 ご自分のものである民を忌みきらわれた。(40節)
 それで彼らを国々の手に渡し、
 彼らを憎む者たちが彼らを支配した。(41節)
 敵どもは彼らをしいたげ、
 その力のもとに彼らは征服された。(42節)
 主は幾たびとなく彼らを救い出されたが、
 彼らは相計って、逆らい、
 自分たちの不義の中におぼれた。(43節)








posted by さとうまさこ at 10:21| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする