2015年10月01日

Coffee Break詩編・171 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、(詩編107篇1節〜32節)



 詩編107篇からは、詩編第5巻として括られています。詩編がこのように分類されていることについては、第4巻の最初の詩編90篇の時に、注解書から引用、解説しています。
http://joshuacanan.seesaa.net/article/424871645.html?1443658790

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  詩編・第五巻 

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。
 その恵みはとこしえまで。」(詩編7篇1節)
 主に贖われた者はこのように言え。
 主は彼らを敵の手から贖い、(2節)
 彼らを国々から、
 東から、西から、北から、南から、集められた。(3節)

 主に感謝せよ。――のフレーズは、詩編の中で、基本と言っても良いほど繰り返されています。
 主に贖われた者・イスラエルの民としては当然の命令ですね。
 「主がいつくしみ深く、恵みに満ちておられる」のは、イスラエルの民が、ほとんど絶望的な捕囚の状態から贖われ、帰国を果たしたことになによりも現れています。イスラエルはもともと、神聖政治国家として成立したのです。エルサレムに戻ることができ、神殿の再建ができたことは、もう一度「神の国・イスラエル」が再建されたのと同じ意味です。
 
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 この詩は読みやすく、心に入りやすいと思います。なぜなら、詩の構成が、4つの繰り返しになっていて、いずれも、同じ意味を歌っているのです。
 最初に苦しみが提示されます。

 彼らは荒野や荒れ地をさまよい、
 住むべき町へ行く道を見つけなかった。(4節)
 飢えと渇きに彼らのたましいは衰え果てた。(5節)

 苦しみに対して、主が彼らの叫びに答えて下さったことが述べられるのです。

 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、
 主は彼らを苦悩から救い出された。(6節)
 また彼らをまっすぐな道に導き、
 住むべき町へ行かせられた。(7節)

 捕囚時代の詩人たちの苦しみに較べるべくもないかもしれませんが、私も、しばしば荒野で迷ってしまったと思うことがあります。十分食べて飲んでいるのに、飢えと渇きで衰え果てた気分だと感じる時があるのです。そんなときは、この詩編を思い起こし、「主に向かって叫ぶ」しかありません。声を上げ、こぶしを振り上げて、ときを忘れて「助けて下さい!!」と叫ぶのです。
 すると、低く垂れこめた雲が消えていき、たしかに地上に道が見える気がします。それが正しい道かどうか、それを判断することは自分ではできませんが、祈りのあとに見える道なら、しぜんに一歩を踏み出すことができるのも事実です。

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 彼らは、主の恵みと、
 人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。(8節)
 まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、
 飢えたたましいを良いもので満たされた。(9節)

 次のフレーズは二度目の繰り返しです。これこそ、捕囚の民の象徴的な姿とそこからの開放でしょう。

 やみと死の陰に座す者、
 悩みと鉄のかせとに縛られている者、(10節)
 彼らは、神のことばに逆らい、
 いと高き方のさとしを侮ったのである。(11節)
 それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。
 彼らはよろけたが、だれも助けなかった。(12節)
 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、
 主は彼らを苦悩から救われた。(13節)
 主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、
 彼らのかせを打ち砕かれた。(14節)
 彼らは、主の恵みと、
 人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。(15節)
 まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、
 鉄のかんぬきを粉々に砕かれた。(16節)

 そして、三回目の繰り返しです。

 愚か者は、自分のそむきの道のため、
 また、その咎のために悩んだ。(17節)
 彼らのたましいは、あらゆる食物を忌みきらい、
 彼らは死の門にまで着いていた。(18節)
 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、
 主は彼らを苦悩から救われた。(19節)
 主はみことばを送って彼らをいやし、
 その滅びの穴から彼らを助け出された。(20節)
 彼らは、主の恵みと、
 人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。(21節)
 彼らは、感謝のいけにえをささげ、
 喜び叫びながら主のみわざを語れ。(22節) 

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 四回目の繰り返しは、自分の能力に頼って大きな事業に乗り出した者のつまづきです。

 船に乗って海に出る者、大海であきないする者、
 彼らは主のみわざを見、
 深い海でその奇しいわざを見た。(24節)
 主が命じてあらしを起こすと、
 風が波を高くした。(25節)
 彼らは天に上り、深みに下り、
 そのたましいはみじめにも、溶け去った(26節)。
 彼らは酔った人のようによろめき、
 ふらついて分別が乱れた。(27節) 

 事情が何であれ、主が救って下さることが力強く歌われています。
 つぎの繰り返しは、痛んだ私たちの心に快く響いてくるようです。

 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、
 主は彼らを苦悩から連れ出された。(28節)
 主があらしを静めると、波はないだ。(29節)
 波がないだので彼らは喜んだ。
 そして主は、彼らをその望む港に導かれた。(30節)
 彼らは、主の恵みと、
 人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。(31節)
 また、主を民の集会であがめ、
 長老たちの座で、主を賛美せよ。(32節)









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2015年10月02日

Coffee Break詩編・172 苦悩――祝福の世界に飛び込むための踏切台(詩編107篇33節〜43節)



 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、
 主は彼らを苦悩から連れ出された。(詩編107篇28節)


 詩編107篇のキーフレーズは、詩編全体を流れる「思想的現実」だと思います。これは、イスラエルの民にとって人の頭で考える思想ではなく、体験してきたことだからです。

 「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(詩編50篇15節)

 私たちが神を賛美し、神に感謝するのは、神が神だからです。平たく言えば、神様が最高の地位にあるとわかるのは、私たちの「救い出された(る)体験」のためです。

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 聖書は、イスラエルの民が苦難を経て救い出される歴史を、具体的に記録しています。大きく出エジプトと捕囚からの帰還の二件を挙げることができるでしょう。しかし、綿密に読んでいけば、数えきれない苦難と救出が繰り返されているのがわかります。
 出エジプト直後から、たびたび持ち上がる水騒動。前途への恐れから来る内輪もめ。(民数記13章14章) 異教徒の仕掛ける偶像礼拝に揺れる民と悔い改め。(民数記25章) カナン進攻の時の、アカンの事件による敗北。(ヨシュア記7章)
 ヒゼキヤの時代には、エルサレムを取り囲んだアッシリヤ軍を、主が一晩で壊滅させました。(U列王記18章18章)
 
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 救い出された体験をした者には、詩編107篇の賛美は、裏付けのある歴史そのものだったのではないでしょうか。自分たち個人の体験でもあるのです。

 主は川を荒野に、
 水のわき上がる所を潤いのない地に、(詩編107篇33節)
 肥沃な地を不毛の地に変えられる。
 その住民の悪のために。(34節)
 主は荒野を水のある沢に、
 砂漠の地を水のわき上がる所に変え、(35節)
 そこに飢えた者を住まわせる。
 彼らは住むべき町を堅く建て、(36節)
 畑に種を蒔き、ぶどう畑を作り、
 豊かな実りを得る。(37節)
 主が祝福されると、彼らは大いにふえ、
 主はその家畜を減らされない。(38節)

 私が注意しなければいけないのは、「悪を行なう住民は自分自身でもある」と知る自覚かなと思います。悪いのは自分以外の誰かで、その地は災害が起こる。他方、神の祝福がある地では、飢えた者(自分)でさえ、豊かな実りを得る。なぜなら、自分は神の御目に叶っているからと思いかねないのが、私なのです。
 祝福や繁栄と言った結果から物事を見ると、祝福されているから、「正しい」といった応報思想になってしまいます。
 じっさい、このように物事を逆に見ると大きな過ちを犯してしまいます。例えば災害が起こったとき、「神が(彼らを)罰している」と平気で、被害者たちを糾弾する者がいるのです。様々な不幸を「神の裁定」の結果だと見るなら、神の恵みや愛はわからなくなってしまいます。

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 彼らが、しいたげとわざわいと悲しみによって、
 数が減り、またうなだれるとき、(39節)
 主は君主たちをさげすみ、
 道なき荒れ地に彼らをさまよわせる。(40節)
 しかし、貧しい者を悩みから高く上げ、
 その一族を羊の群れのようにされる。(41節)
 直ぐな人はそれを見て喜び、
 不正な者はすべてその口を閉じる。(42節)
 知恵のある者はだれか。
 その者はこれらのことに心を留め、主の恵みを悟れ。(43節)

 繰り返し唱えられているのは、「しいたげやわざわいがあった時にうなだれた」結果として、神は「貧しい者を悩みから高く上げ」て下さるということではないでしょうか。

 苦しみは祝福から見放されたいわば「死刑宣告」ではなくて、むしろ、祝福の世界に飛び込むための踏切台のような気がします。踏切台に足を乗せて、「神さま、助けて下さい」と呼び求めれば、私たちは「苦悩の中から救い出され(28節)」「その望む港に導かれた。(30節)」と歌われているのですから。








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2015年10月03日

Coffee Break詩編・173 ダビデの信仰にことよせて(詩編108篇1節〜13節)



 詩編108篇は、ダビデの賛歌・詩編57篇7節〜11節の復誦で始まります。

 歌。ダビデの賛歌

 神よ。私の心はゆるぎません。
 私は歌い、
 私のたましいもまた、ほめ歌を歌いましょう。(詩編108篇1節)
 十弦の琴よ、立琴よ。目をさませ。
 私は暁を呼びさましたい。(2節)
 主よ。私は、国々の民の中にあって、あなたに感謝し、
 国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう。(3節)
 あなたの恵みは大きく、天の上にまで及び、
 あなたのまことは雲にまで及ぶからです。(4節)
 神よ。あなたが天であがめられ、
 あなたの栄光が全世界であがめられますように。(5節)

 6節から13節までは、詩編60篇の後半を復誦しています。この箇所ゆえに、この詩のタイトルが「ダビデの賛歌」となっていますが、賛歌自体は、捕囚から帰還後の民の平安と神の守りを願うものです。

 あなたの愛する者が助け出されるために、
 あなたの右の手で救ってください。
 そして私に答えてください。(6節)
 神は聖所から告げられた。
 「わたしは、喜び勇んで、シェケムを分割し、
 スコテの谷を配分しよう。(7節)
 ギルアデはわたしのもの。マナセもわたしのもの。
 エフライムもまた、わたしの頭のかぶと。
 ユダはわたしの杖。(8節)
 モアブはわたしの足を洗うたらい。
 エドムの上に、わたしのはきものを投げつけよう。
 ペリシテの上で、わたしは大声で叫ぼう。」(9節)

 だれが私を要塞の町に連れて行くでしょう。
 だれが私をエドムまで導くでしょう。(10節)
 神よ。あなたは
 私たちを拒まれたのではありませんか。
 神よ。あなたは、もはや
 私たちの軍勢とともに、出陣なさらないのですか。(11節)
 どうか敵から私たちを助けてください。
 まことに、人の救いはむなしいものです。(12節)
 神によって、私たちは力ある働きをします。
 神が私たちの敵を踏みつけられます。(13節)

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 ダビデは、サムエルからイスラエルの王として「油を注がれた」時から、苦難の道を歩み始めます。イスラエル人にとって、王とはもともと「戦争を先導してくれる指導者」でした。ですから、第一代の王サウルもその生涯を戦いに費やしました。ダビデを娘ミカルの婿としたのちは、ダビデを将軍にしてペリシテ人と戦わせます。(Tサムエル記18章12節〜16節、同19章8節)
 当時、地中海の方から起った新興勢力のペリシテ人はとても強く、サウルがダビデを将軍にしたのは、「イスラエルの英雄で人気者」のダビデを、ペリシテ人と戦わせて殺したいとの意図もありました。
 けれども、ダビデには、神がついておられたのです。

 サウルから逃げ回っていた十年ほどの期間、ダビデは一見神の御思いと外れた行動を取ることがありました。たとえば、ペリシテ人の王アキシュのところに逃れています。自分が王に忠誠な者と見せるため、異邦人の町々を襲って殲滅し、アキシュにはユダの町を襲ったと報告していました。(Tサムエル記27章8節〜12節)
 このような行動は、いまの私たちにから見ると釈然としません。いくら助かりたい一心だといっても、卑怯な奸計です。けれども、このような「汚れた」手段もまた、神は許されたのでしょう。
 同時に、自分のいのちを付け狙うサウルを、簡単に殺すチャンスがあったのに、ダビデは「神に油注がれた者」に剣を向けることはしなかったのです。
 
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 捕囚時代、捕囚から帰還するイスラエルの民、迫害の中で生きのびることは、ときには「手を汚す」ような出来事も甘んじなければいけなかったのではないでしょうか。
 戦いの中を生きる時、「きれいごと」だけを選べるはずがありません。
 家族の中の大切な息子であり、父親であり、夫であり、近隣に必要な愛すべき人間に向かって、銃口を突き付けるのが戦争です。
 捕囚後の民にとっても、ダビデの賛美、ダビデの戦いの苦悩は、振り返るに値する「歴史」で、その讃美は、神への愛の深い実感を呼び覚ますものだったのでしょう。

 神よ。私の心はゆるぎません。
 私は歌い、
 私のたましいもまた、ほめ歌を歌いましょう。(詩編108篇1節)









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2015年10月04日

Coffee Break詩編・174 どうか、悪者を彼に遣わしてください。(詩編109篇1節〜7節)



 指揮者のために。ダビデの賛歌

 私の賛美する神よ。
 黙っていないでください。(詩編109篇1節)

 この詩編は、少々重い後味を残すのです。ダビデの賛歌とタイトルがついていますが、内容は、「神に敵への報復を訴える歌」だからです。
 たしかに、私(たち)は、他人に腹を立てていることが多いのです。「クリスチャンだからもう大丈夫、人を赦し、何事も笑顔でやり過ごせます」とはいきません。人との摩擦があると、自分が摩擦を起こす片方の当事者であるとしても、怒りがわいてくることがあります。
 ただ、新約の民は、イエス様の直接の教えを「知っています」から、「敵を許さなければならないと、思っています。ですから、これほどはっきりと、敵への報復を神に願っている歌に同調するのが苦しいのです。

 けれども、小市民の現代人とは違って、ダビデは、神から(預言者サムエルから)王として立てられた政治家でした。ペリシテの勇士ゴリヤテを倒してからはイスラエルの英雄、ホープとして絶大な人気があったのです。すぐに、サウルの宮廷に抱えられたことは、幸運であると同時に大変な争いに入って行くことでした。
政争や戦争の中では、敵は敵であるのが当然のように振る舞います。

 以下の祈りが必要なほどの苦難のなかにあったと推測できるのです。
 
 彼らは邪悪な口と、欺きの口を、私に向けて開き、
 偽りの舌をもって、私に語ったからです。(2節)
 彼らはまた、憎しみのことばで私を取り囲み、
 ゆえもなく私と戦いました。(3節)
 彼らは、私の愛への報いとして私をなじります。
 私は祈るばかりです。(4節)
 彼らは、善にかえて悪を、
 私の愛にかえて憎しみを、私に報いました。(5節)

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 それにしても、この詩編のダビデの祈りは、ナイーブすぎるほど露骨です。
 はっきりと、敵に「不幸」がありますようにと願っているのです。

 どうか、悪者を彼に遣わしてください。
 なじる者が彼の右に立つようにしてください。(6節)

 「悪者」とは悪魔です。、悪魔は「告発する者」ですから、彼はさばきの場で告発されるようにと神に願っているのです。もちろん、「告発する者」は彼に有罪をもたらすのです。

 彼がさばかれるとき、彼は罪ある者とされ、
 その祈りが罪となりますように。(7節)







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2015年10月05日

Coffee Break詩編・175 復讐は神のもの。(詩編109篇8節〜20節)

 

 聖書には「復讐は神のもの。神の怒りにまかせなさい」(新約聖書・ローマ信徒への手紙12章19節)とあります。ですから、クリスチャンになると、ほどなく、「人を呪う」ことを後ろめたく感じるようになります。
 とはいえ、怒りの感情が消えるわけではありません。世の不正から、個人的な利害関係まで、他人だけではなく自分自身に対してまで、ときに怒りの感情を覚えるのがにんげんではないでしょうか。
 神様は、そのような人間の足りなさをよく御存じである、理解して下さる、受け入れてさえ下さるのだと思います。
 どうしても憤懣やるかたないとき、むしろ、戒めのために自分を押し殺して偽善者を装うよりは、神様に叫ぶ方が正しいのだと、この詩編は教えてくれているように思います。

 彼の日はわずかとなり、彼の仕事は他人が取り、(詩編109篇8節)
 その子らはみなしごとなり、
 彼の妻はやもめとなりますように。(9節)
 彼の子らは、さまよい歩いて、
 物ごいをしますように。
 その荒れ果てた家から離れて、
 物ごいをしますように。(10節)

 これらは、神の罰――呪いの結果として、申命記などにも見ることができます。古代社会では、仕事がない状態、みなしごややもめ、物乞いなどが、神から見放された状態と見なされていたのでしょう。

 債権者が、彼のすべての持ち物を没収し、
 見知らぬ者が、その勤労の実をかすめますように。(11節)
 彼には恵みを注ぐ者もなく、
 そのみなしごをあわれむ者もいませんように。(12節)
 その子孫は断ち切られ、
 次の世代には彼らの名が消し去られますように。(13節)
 彼の父たちの咎が、主に覚えられ、
 その母の罪が消し去られませんように。(14節)

 搾取され、働いても働いても飢えている状態、後ろ楯になる者もいない孤児、さらに、死んだ後にその名さえ覚えられない家、それが父や母の罪のためであると笑いものになることが、恥であったのでしょう。

 それらがいつも主の御前にあり、
 主が彼らの記憶を地から消されますように。(15節)
 それは、彼が愛のわざを行なうことに心を留めず、
 むしろ、悩む者、貧しい人、
 心ひしがれた者を追いつめ、殺そうとしたからです。(16節)

 彼はまたのろうことを愛したので、
 それが自分に返って来ました。
 祝福することを喜ばなかったので、
 それは彼から遠く離れました。(17節)
 彼はおのれの衣のようにのろいを身にまといました。
 それは水のように彼の内臓へ、
 油のように、その骨々にしみ込みました。(18節)

 今でも、一般的にそうですが、繁栄は祝福のしるしであり、没落や貧窮は神の呪いであるという因果応報思想が、いつの時代にも人間の感情に近いのです。
 神から油注がれた王ダビデ――その末に、救い主がお生まれになると神さまから選ばれた家の祖・ダビデにして、ここまで願うのかと、問いたいほどの箇所です。

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 それが彼の着る着物となり、
 いつも、締めている帯となりますように。(19節)
 このことが、私をなじる者
 や私のたましいについて悪口を言う者への、
 主からの刑罰でありますように。(20節)

 けれども、本当に苦しい時、本当にやり切れないほど敵が憎い時は、このような訴えも、神様は理解して下さるのかなと思います。
 私たちと神さまの関係では、「良い子」を演じることではなく、何でもお話しできることこそ大切なのではないでしょうか。隠したところで、神様は先刻私たちの心の中はご存知のはずです。
 ダビデは神様に対しては、甘え上手な人だったようです。






posted by さとうまさこ at 10:11| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする