2015年10月06日

Coffee Break詩編・176 死刑を宣告する者たちから救って下さる神(詩編109篇21節〜31節)



 神に、敵への報復を訴えながら、同時にダビデは、自分へのあわれみを乞います。

 しかし、私の主、神よ。
 どうかあなたは、御名のために
 私に優しくしてください。
 あなたの恵みは、まことに深いのですから、
 私を救い出してください。(詩編109篇21節)
 私は悩み、そして貧しく、
 私の心は、私のうちで傷ついています。(22節)
 私は、伸びていく夕日の影のように去り行き、
 いなごのように振り払われます。(23節)
 私のひざは、断食のためによろけ、
 私の肉は脂肪がなく、やせ衰えています。(24節)
 私はまた、彼らのそしりとなり、
 彼らは私を見て、その頭を振ります。(25節)

 人生においてこのような経験をしないで済めばさいわいです。けれども、一度も「傷ついています」と言えないで済む人などいるでしょうか。「夕日の影」は、やがて闇に呑み込まれて消え去ります。草原でたくさんのイナゴに飛びつかれた人は、思わず振り払います。
 このように、人はときに、自分が空しく消え、邪険にふり払われる経験をするのです。

 ヨブは、最悪の不幸が訪れた時、神を呪う代わりに荒布を着て灰の中にすわり、断食しました。しかし、彼を励ましに来た友人たちは、その痩せ衰えた姿を見て、かえって彼を詰り、攻撃する有様でした。
 ヨブの物語は、ヨブだけの固有の物語ではなく、普遍的な人間世界の不条理を語っているのです。

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 わが神、主よ。私を助けてください。
 あなたの恵みによって、私を救ってください。(26節)
 こうして、これがあなたの手であること、
 主よ、あなたがそれをなされたことを
 彼らが知りますように。(27節)

 神を信じる者は、たんに助け出されれば満足というのではありませんね。不幸に代えて祝福が来たとき、それがどこから来たのかは大切です。良い報いが神さまから来たのだと、敵が認める時、私たちに、「本当の勝利」があるのではないでしょうか。
 たとえ、ジャンボ宝くじに当たったとしても、それがサタンから来ているかもしれないのです。

 彼らはのろいましょう。
 しかし、あなたは祝福してくださいます。
 彼らは立ち上がると、恥を見ます。
 しかしあなたのしもべは喜びます。(28節)
 私をなじる者が侮辱をこうむり、
 おのれの恥を上着として着ますように。(29節)

 敵への厳しい報復を願っていた祈りは、やわらいできています。彼らは恥を見、侮辱をこうむるのですが、6節から15節に述べられたような具体的に悲惨な状態は、もう詩人の念頭を去っています。
 おそらく、ダビデはここで主からのお答をいただいたのでしょう。
 たしかに、主が答えて下さったのです。

 私は、この口をもって、大いに主に感謝します。
 私は多くの人々の真中で、賛美します。(30節)

 信仰者の祈りは、賛美と感謝で始まり、賛美と感謝で終わります。
 不確かな神・偶像を礼拝している者は、お金や良縁や豊作などの結果だけを願い、それが聞き届けられるか否かが祈りの焦点です。しかし、聖書の神を知っている者は、神との関係が何よりも大切です。神との交わりを喜ぶのです。
 最後に、詩人は確信しているのです。

 主は貧しい者の右に立ち、
 死刑を宣告する者たちから、
 彼を救われるからです。(31節)

 新約の信徒には、このあとに、もう一つみことばが思い浮かんでくる気がします。

 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じるものは死んでも生きるのです。
 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネの福音書11章25節26節)







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2015年10月07日

Coffee Break詩編・177 主は、わたしの主に言われた。(詩編110篇1節2節、マタイの福音書22章41節〜46節)



 これは、メシヤ詩編だと、解説書にあります。詩編2篇と72篇が同様のカテゴリーに入れられています。(新実用聖書注解・いのちのことば社)
 つまり、メシヤ預言の詩なのです。
 そのためでしょうか。短い詩ですが、のっけからかなり難解です。

ダビデの賛歌

主は、私の主に仰せられる。(詩編110篇1節a)

 「主が、私の主――」以下が、読者(私)にとって難しいのは当然ですね。
 この箇所は、マタイの福音書22章41節〜46節に引用されています。イエス様とパリサイ人たちとの問答です。

 イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、
 『主はわたしの主に言われた。
 「わたしがあなたの敵を
 あなたの足の下に従わせるまでは、
 わたしの右の座に着いていなさい。」』
と言っているのですか。
 ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。
 それで、だれもイエスに一言も答えることができなかった。また、その日以来、もはやだれも、イエスにあえて質問する者はなかった。

 旧約聖書に精通している専門家パリサイ人でさえ、答えることができなかった個所なのです。

★★★★★

 最初の[主]については、創世記から登場している聖書の神だとわかります。しかし、ダビデはもう一人、「主」と呼んでいるのです。これがメシヤ――キリストであるという認識は、パリサイ人にもあったのです。そして、メシヤは、ダビデの家系から生まれてくるとの預言が、旧約聖書中にあるのも、パリサイ人には周知の事実だったのです。ただ、ダビデの子孫であるなら、ダビデがなぜ、自分の子孫を「主」と呼ぶのかというのが、この質問の要点です。

 今の時代でさえ、子や孫のことを目上であるなどとは思いません。尊敬されるべきは、先に生まれた人間です。
 これは、たんに聖書知識があるだけでは、答えられない難問だったのでしょう。パリサイ人は沈黙してしまったというのです。

「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
わたしの右の座に着いていよ。」(詩編110篇1節b)

 あとの方の「主」も、もちろん、三位一体のおひとりの神であるイエスと考えられるのです。
 問題は、ダビデがこの詩を詠んだとき、彼の念頭に、将来現れる救い主へのはっきりしたイメージはなかったのでは、ということです。むしろ、ダビデは、聖霊に導かれて、思いを超えた「預言」をしたと考えるべきとの解釈があり、さとうもそう思います。

 牧師の書斎
  http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E7%9E%91%E6%83%B3Ps110%2FA







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2015年10月08日

Coffee Break詩編・178 主は道のほとりの流れから水を飲まれよう。(詩編110篇2節〜7節)



 詩編110篇がメシヤ預言であったとして、ダビデにはっきりとその自覚がなかったとしたら、ダビデが、「わたしの主」と呼んでいるのはだれでしょうか。これに対し新実用聖書注解は、「主なる神が私の子、神によって新しく王とされたソロモンについて、私に告げられた約束という意味であろう」と解説しています。

 主は、あなたの力強い杖をシオンから伸ばされる。
 「あなたの敵の真中で治めよ。」(詩編110篇2節)
 あなたの民は、あなたの戦いの日に、
 聖なる飾り物を着けて、夜明け前から喜んで仕える。
 あなたの若者は、あなたにとっては、朝露のようだ。(3節)

 とうぜん、ここで「あなた」と呼びかけられているのも、ソロモンということになります。上の「右の座」は権威と名誉の場所であり、それを保証して下さるのは天の神・主なのですから、民も喜んで地上の王に仕えるのです。

 主は誓い、そしてみこころを変えない。
 「あなたは、メルキゼデクの例にならい、
 とこしえに祭司である。」(4節)
 あなたの右にいます主は
 御怒りの日に、王たちを打ち砕かれる。(5節)

 メルキセデクは、創世記14章18節に登場する、ある意味「ナゾ」の祭司です。アブラハムがソドムの王とゴモラの王と戦って凱旋したとき、彼を祝福するのです。シャルムはエルサレムのことであり、メルセデクは、詩編110篇ではメシヤの予表として用いられているとの見解が、新実用聖書注解に出ている。(同P141)
 解説書の引き写しばかりで申し訳ないのですが、詩編は聖書のメッセージの中で、そのメッセージの一部として掲載されているのですから、現代の自由詩を読むようにはいかないようです。

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 主は国々の間をさばき、
 それらをしかばねで満たし、
 広い国を治めるかしらを打ち砕かれる。(6節)
 主は道のほとりの流れから水を飲まれよう。
 それゆえ、その頭を高く上げられる。(7節)

 6節7節は、ソロモンの事績について讃美していると思われますが、同時にそれが、救い主キリストの預言になっているようです。

 キリスト教が、ユダヤ教から独立して、キリストがユニバーサルな神として全世界を治められたのは、歴史的事実として実現しています。もとより、父なる神は、地の基が定まる前から、全世界全宇宙に君臨しておられたのです。







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2015年10月09日

Coffee Break詩編・178 私は心を尽くして主に感謝しよう。(詩編111篇1節〜5節)



 ハレルヤ。
 私は心を尽くして主に感謝しよう。
 直ぐな人のつどいと集会において。(詩編111篇1節)

 神様と自分との関係は、だんだん濃密になってきています。
 神様と親密になりたいという「自分の欲目」かもしれませんが、でも、信仰の始めの頃は、「そうではなかった」と思うのです。
 「救われた」のは、神様の救いの「みわざ」を体験したからです。ここでそれを詳しく語ることはできませんが、聖書教室で聖書を学びながらも、それは「学び」であり、知識であり、それ以上のかかわりは自分にはあり得ないと思っていたのです。それが、ある時、一瞬にして、「神さまがおられるんだ!」と、目が開かれたのです。

 神様がおられるなら大丈夫、神様が共にいて下さるなら大丈夫と、大いに平安になったのですが、それでもそのころ、自分にとって神様は「みわざを見せて下さる」お方でした。
 感謝はするのですが、「神さまのみわざを数え上げているような」感謝です。
 数えられないみわざ、自分には見えないみわざ。自分が得たと思っているよりはるかに大きなみわざを含んでまで、感謝していたでしょうか。
 
 「心を尽くして」主に感謝しているつもりでした。
 でも、「数えることができるもの」「見えるもの」への祈りは、心を尽くすより、頭を使っている祈りだとは気が付きませんでした。

★★★★★
 
 主のみわざは偉大で、
 みわざを喜ぶすべての人々に尋ね求められる。(2節)
 そのみわざは尊厳と威光。
 その義は永遠に堅く立つ。(3節)

 主のみわざは結果として「見える」ようなものだけではないと、いつの頃か気が付いたのです。主が、主として天と地にいて下さるゆえに、尋ね求めれば「尽きない」みわざが存在し、それらは、「尊厳と威光」という言葉で括られ、神様の正しさは永遠に真実だとわかるとき、ようやく、「心を尽くして」祈ることの深みを覗いたと思えたのです。

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 主は、その奇しいわざを記念とされた。
 主は情け深く、あわれみ深く、(4節)
 主を恐れる者に食べ物を与え、
 その契約をとこしえに覚えておられる。(5節)

 これは、イスラエルの民にとっては、出エジプトの道程で神が与えて下さったマナのことでしょう。契約は、出エジプト記6章5節です。(新実用聖書注解・いのちのことば社)

 今私は、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。(出エジプト記6章5節)

 この言葉が示しているのは、アブラハムへの契約(創世記12章3節b)であることは明白です。アブラハム契約は、アブラハムを通して地上のすべての民族は祝福されると明言されているのですから、
 その結果、私(たち)は、今、祝福を受けることができています。
 これこそ目先のみわざを超えた神のみわざだと、気づかせてくれるこの詩句。ここで、また「心からの」感謝を新たにするものです。








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2015年10月10日

Coffee Break詩編・179 主を恐れることは、知恵の初め。(詩編111篇6節〜10節)


 異邦の民のゆずりの地を、ご自分の民に与え、
 彼らに、そのみわざの力を告げ知らせられた。(6節)
 御手のわざは真実、公正、
 そのすべての戒めは確かである。(7節)
 それらは世々限りなく保たれ、
 まことと正しさをもって行なわれる。(8節)

 イスラエルの民にとって、歴史を振りかえれば、主が誠実に契約を行なって下さったことがわかるのです。出エジプトの時同様、カナンに入るにも主のみわざが必要でした。ヨルダン川を渡るとき、川が上流で堰き止められたように流が止まったこと、カナンでの数々の戦いに勝ったことは、主がイスラエルのためにしてくださったことでした。

 神がお与えにになる戒めは、人間が作る法とは違います。聖絶の物を盗んだアカンに対する罰を、神は、人間が気付く前に見ておられ、怒りを発せられ、違反者を裁かれたのです。(ヨシュア記7章)
 
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 主は、御民に贖いを送り、
 ご自分の契約をとこしえに定められた。
 主の御名は聖であり、おそれおおい。(9節)
 主を恐れることは、知恵の初め。
 これを行なう人はみな、良い明察を得る。
 主の誉れは永遠に堅く立つ。(10節)

 贖いと聞けば、クリスチャンはイエス様の犠牲を思い浮かべます。しかし、贖いは旧約の時代から何度もあったと、聖書は記すのです。
 出エジプトとカナンの取得、バビロンからの帰還、イエス様の贖いは三度目であると、新実用聖書注解(いのちのことば社)(p816)は解釈しています。

「主を恐れることは、知恵の初め」(箴言1章7節)

 主を恐れるとは、主を信じることです。
 イエスは、トマスに、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネの福音書20章29節)と仰せになりました。

 信仰が先ですね。信じた時、初めて見えるものもあるのではないでしょうか。聖書はその例話に満ちていると思います。





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