2015年10月11日

Coffee Break詩編・180 主は直ぐな人たちの報酬(詩編112篇1節〜10節)



 主を恐れるとは、主を信じるの旧約的表現です。
牧師の書斎
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E7%9E%91%E6%83%B3Ps112%2FA

 じっさい、「主を恐れる」という言葉は、旧約聖書の中、至る所にあります。
 現代では、「信仰は信頼である。神に信頼して甘え、ゆだねること」とやさしい神様のイメージが強調されていますが、たしかにそれだけでは、足りない気がします。すべての人のすべてをご存知であり、すべてを引き受けて愛で包んで下さるような大きな方を、恐れなしに近づくことはあり得ないはずです。

 偶像の神様は、守備範囲が小さいので(たとえば豊作とか)、その祭りは、結局人間の楽しみ(享楽)の時間になってしまうようです。食べたり飲んだりし、歌い踊り、無礼講になってしまうのです。これは今では、より顕著に見えます。
 現代日本人は信仰心がないと言われていますが、宗教行事に由来する「祭り」は、年中、日本中いたるところで行なわれていて、テレビなどのニュースになっています。しかし、神事そのものより、人を集め楽しむイベントの側面が強調されています。もともとはどのような神さまのどのような働きに対して、人間がなにをささげているのか、まるでわからないのです。

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 ハレルヤ。
 幸いなことよ。
 主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。(詩編112篇1節)

 しかしながら、「主を恐れる」ことは、たしかに容易でないと感じさせられます。

 その人の子孫は地上で力ある者となり、
 直ぐな人たちの世代は祝福されよう。(2節)

 まず、「直ぐな人」でなければなりません。まっすぐ生きるなんてこの地上では、「至難のわざ」だと思えないでしょうか。
 でも、神を恐れて「直ぐであるよう」にと勧められています。

 繁栄と富とはその家にあり、
 彼の義は永遠に堅く立つ。(3節)
 主は直ぐな人たちのために、光をやみの中に輝かす。
 主は情け深く、あわれみ深く、正しくあられる。(4節)

 直ぐであることに対して、主は報いて下さるのです。繁栄と富、やみの中にあっても(神からの)光が輝き、主の情けとあわれみを受けることができるのです。

 しあわせなことよ。
 情け深く、人には貸し、
 自分のことを公正に取り行なう人は。(5節)
 彼は決してゆるがされない。
 正しい者はとこしえに覚えられる。(6節)

 自分を公正にとり行うのも至難ですが、そうすることによって、「決してゆるがされない」というのです。そのような人を神様はとこしえに覚えて下さるのです。

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 その人は悪い知らせを恐れず、
 主に信頼して、その心はゆるがない。(7節)
 その心は堅固で、恐れることなく、
 自分の敵をものともしないまでになる。(8節)

 私たちにとって、究極の幸せは、何事にも心をゆるがされない「平安」ではないでしょうか。たしかに、苦しみと悩みは「揺るがされる」ところにあると思います。
 家族の絆,仕事、友人関係、経済状態、健康などに私たちは、いつも揺るがされています。心配の種、不安の種が尽きないのです。
 ですから、私たちは防衛的になります。最たるものが経済的防衛です。集め、蓄え、倉を立て、何とか、一生遊んで暮らせるほどのもので自分を防衛しようとします。(ルカの福音書12章16節〜21節)高い富で人より上位に立ち、防衛しようとします。
 貧しい人に惜しみなく与えるのは、「特別な勇気」がいるようになるのです。でも、神を恐れ、平安を得ている人は、それができるのかもしれません。

 彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。
 彼の義は永遠に堅く立つ。
 その角は栄光のうちに高く上げられる。(29節)
 悪者はそれを見ていらだち、
 歯ぎしりして溶け去る。
 悪者の願いは滅びうせる。(10節)

 悪者は、強欲な人というより、彼らを動かしている「サタン」ではないでしょうか。悪者は人が苦しむのを見て喜ぶのです。神に信頼できず、「不安の中にいる」人を見て手を打つのです。ぎゃくに、直ぐな人には、歯ぎしりするのです。






posted by さとうまさこ at 08:58| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月12日

Coffee Break詩編・181 ハレルヤ。主のしもべたちよ。ほめたたえよ。(詩編113篇1節〜9節)



 ハレルヤ。
 主のしもべたちよ。ほめたたえよ。
 主の御名をほめたたえよ。(詩編113篇1節)
 今よりとこしえまで、
 主の御名はほめられよ。(2節)
 日の上る所から沈む所まで、
 主の御名がほめたたえられるように。(3節)
 主はすべての国々の上に高くいまし、
 その栄光は天の上にある。(4節)

 昨日は、ある大学のオーケストラの演奏会に行ってきました。シベリウスの「フィンランディア」、ラフマニノフの交響曲第2番ホ短調、途中、元東京交響楽団の首席チェロ奏者だったベアンテ・ボーマンさんによるシューベルト「アルベッジョーネ協奏曲・イ短調」の演奏もあり、ずっしりと聴きごたえのある内容でした。

 さとうはオーケストラ音楽を評価するような耳をもたない者です。ですから、音楽の鑑賞の仕方としてはずれているかもしれないのですが、神様のことを考えていました。人間に音楽をお与えになった神、また、一つの楽器でもものすごい技能なのに、たくさんの楽器を使ってさらに深い音楽を創ることができる人間――その人間を創造された神のみわざに感心していました。

 私たち人間が、角笛やタンバリンで神を褒めたたえていたのは、出エジプト記にも記されています。しかし、せいぜい四千年ほど昔のことです。
 考古学資料は、一万年以上昔の遺跡から出た素朴な楽器の存在を語っていますが、いずれにしても、複雑な楽曲とその演奏を証明するものではありません。
  古代の音楽
   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD

 人類の音楽文明は、わずか数千年の間に飛躍的に発展したのでしょう。そうして、現代では、あのような複雑で美しい音楽を多数の楽器で演奏し、多くの観客がその音楽に共鳴してたましいをゆすぶられる時間をもつことができるのです。
 まことに、主のお名前を褒めたたえます!と思わずにはいられません。

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 詩編113篇は、「ハレルヤ」で始まり、「ハレルヤ」で終わっています。
 ハレルヤはほめたたえるの意味ですから、まさに、賛美の歌ですね。

 詩編113篇〜118篇や、「エジプトのハレルヤ詩編」と呼ばれている。捕囚期期間後に作られ、礼拝用に用いられたと考えられる。ユダヤ教では過ぎ越しの祭りの食前・食後に歌われた。意味は、天におられる主なる神が地上の弱い者、貧しい者の世話をして下さることに対する感謝。(新実用聖書注解・いのちのことば社による)

 だれが、われらの神、主のようであろうか。
 主は高い御位に座し、(5節)
 身を低くして天と地をご覧になる。(6節)
 主は、弱い者をちりから起こし、
 貧しい人をあくたから引き上げ、(7節)
 彼らを、君主たちとともに、
 御民の君主たちとともに、王座に着かせられる。(8節)
 主は子を産まない女を、
 子をもって喜ぶ母として家に住まわせる。ハレルヤ。(9節) 

 これはイスラエルの民がエジプトで奴隷であったことを考えれば、納得できるところですね。イスラエルは弱い者、ある意味では悪い者であったにもかかわらず、「神の選びの民」としていただいたのです。彼らを選んだあとは、神様は、イスラエルをあくたから引き揚げるようにして、導きつづけられたのです。
 「子を産まない女」は、シオンが敵に攻撃されて崩壊した後は、荒廃したシオンの姿を言い表していると考えられています。





 
 

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2015年10月13日

Coffee Break詩編・182 地よ。主の御前におののけ。ヤコブの神の御前に。(詩編114篇1節〜8節)



 さて、詩編114編です。詩編113編から詩編118篇までは、「エジプトのハレルヤ詩編」と呼ばれています。(新実用聖書注解・いのちのことば社)
 113篇のように、イスラエルの祭り――過越の祭り、五旬節、仮庵の祭りで歌われたと考えらえています。

 イスラエルがエジプトから、
 ヤコブの家が異なることばの民のうちから、
 出て来たとき、(詩編114編1節)
 ユダは神の聖所となり、
 イスラエルはその領地となった。(2節)

 聖書読者には、これが出エジプトだとわかるように書かれています。神様が、ヤコブ(アブラハム)の子孫をエジプトから導き出されたのは、彼らが苦しんでいて叫んだからだけではないと思います。神様は、アブラハムに約束されたように、イスラエルを選びの民とし、祝福の民とするために、エジプトから連れ出し、ご自分の民(領地)とされたのです。

 海は見て逃げ去り、
 ヨルダン川はさかさに流れた。(3節)
 山々は雄羊のように、丘は子羊のように、はねた。(4節)
 海よ。なぜ、おまえは逃げ去るのか。
 ヨルダン川よ。なぜ、さかさに流れるのか。(5節)
 山々よ。おまえはなぜ雄羊のようにはねるのか。
 丘よ。なぜ子羊のようにはねるのか。(6節)

 葦の海の奇蹟やヨルダン川が堰き止められる奇蹟は、自然をも支配される神の権威と威力を顕しています。自然界の物理的法則をお造りになったのも神なら、ときに、その法則に逆らうような「現象」を起こすことができるのも神です。つまり、神が「介入される」とき、物理的法則、理論的結論も変更されうるのです。

 神が人となって来られ、十字架上で罪のささげ物となって、私たちを贖うという出来事は、神の介入の最大のものだと言われています。

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 地よ。主の御前におののけ。
 ヤコブの神の御前に。(7節)
 神は、岩を水のある沢に変えられた。
 堅い石を水の出る泉に。(8節)

 自分の小さな人生にさえ、思いがけない出来事に救われることがあります。ある意味で、毎日、息をし、食べ、生きているのは奇蹟です。
 自然には「人格」がないように見えますが、しかし、「自然」も神の被造物です。地震などの自然現象を見ると、自然も「生きている」のがわかります。神が命じられれば、水の逆流もあり、石の中から水が流れ出ることもあると、聖書は記しています。
 







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2015年10月14日

Coffee Break詩編・183 あなたの恵みとまことのために、(詩編115篇1節〜8節、イザヤ書44章10節〜13節)



 私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、
 あなたの恵みとまことのために、
 栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。(詩編115篇1節)

 天と地を造られた方を礼拝できるのは、私たちキリスト者の最大の「うまみ」だと思います。もし、戯画化させていただけるなら、例えば、「宗教食堂」というようなレストランがあり、そこにあるメニューから料理を注文できるなら、間違いなく「キリスト教――天地を造られた神」を注文した人が一番おいしい思いをするでしょう――食べ方さえ間違わなければ。――

 人間には、真実を味わいたいと願う舌があり、真実が盛られている皿を、目の前に見たいという願望があります。そしてもし、そのようなごちそうを見て、味わったら、それを造って出してくれたシェフをほめるでしょう。彼には彼だけのメダルが備わっているからです。

 もちろん、人間のシェフには、どんなに技能の高い才能のある人でも限界があります。彼には、彼にふさわしいりっぱな調理場が必要ですし、なにより、彼の計画を実現する多くの最高の「材料」が必要です。忠実な助手も、また、彼の料理を味わってくれる舌の肥えた顧客もいなければなりません。

 でも、天地を造られた神は、すべてをご自分ひとりで賄うことができるのです。

 さんざんおいしさを堪能させてもらっても、レシートは「ただ」です。
 返礼は、「ほめる」ことです。「こんな素晴らしい物を提供して下さるなんて!感激」と、賛嘆をあらわすことだけです。
 といって、お世辞を望んでおられるのではないのです。お世辞なんか、口先だけの褒め言葉など、たちどころに「見分ける」お方です。

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 なぜ、国々は言うのか。
 「彼らの神は、いったいどこにいるのか。」と。(2節)
 私たちの神は、天におられ、
 その望むところをことごとく行なわれる。(3節)

 残念ながら、宗教食堂には、きらきら光る大きな字で書かれたメニューや派手な歌声や人形を使って招くうるさいセクションがたくさんあります。
 メニューには、いかにもおいしそうな写真に、即効のありそうな効能が並べられ、数々の「うまみ」が人間の想像力に訴えてくるのです。

 彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。(4節)
 口があっても語れず、目があっても見えない。(5節)
 耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。(6節)
 手があってもさわれず、足があっても歩けない。
 のどがあっても声をたてることもできない。(7節)
 これを造る者も、
 これに信頼する者もみな、これと同じである。(8節)

 私たちは、見えるものに騙されやすいのです。私たち自身、「見えるもの」だからです。語るためには口が必要、見るためには目が必要、耳や鼻がないと、聞こえないし嗅げない。葦があるから歩けるし、手があるから抱擁も出来ることを、経験しているのです。
 そうして、自分の拝む神さまにも、同じものを造ってしまう人たちがいるのです。

 偶像を鋳るのは、そこにある目や耳、口や鼻、手や足が「生きて働いている」と思うからです。
詩編115篇が、神殿で歌われる200年以上も前に、イザヤは預言しています。

 だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、
 偶像を鋳たのだろうか。
 見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間に過ぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。
 鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。
 木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭を取り、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。(イザヤ書44章10章〜13章)







posted by さとうまさこ at 09:23| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月15日

Coffee Break詩編・184 あなたの恵みとまことのために2、(詩編115篇9 節〜18節、イザヤ書44章10節〜13節)



 イスラエルよ。主に信頼せよ。
 この方こそ、彼らの助け、また盾である。(詩編115篇9節)
 アロンの家よ。主に信頼せよ。
 この方こそ、彼らの助け、また盾である。(10節)
 主を恐れる者たちよ。主に信頼せよ。
 この方こそ、彼らの助け、また盾である。(11節)

 イスラエルは、主の救いのご計画のために選ばれた「神の民」です。今日では、キリスト者が、神に救われ、さらに、「神の救いのご計画」のために召されたと、考えられます。アロンの家は、神から祭司として召されたのです。モーセの兄だったとはいえ、「なぜ、アロンが?」などという問いは意味がないでしょう。アロンも弱いところのある不完全な人でしたが、祭司職はアロンだけでなく、彼の家(子孫)にゆだねられたのです。新約の時代では、私たちはみな「祭司」であると言われています。ただし大祭司はイエスさまです。大祭司をもり立てて、礼拝を行なった旧約の民に倣って私たちはイエス様の後に従って父なる神にお会いします。

 「主を恐れる者」は、「主を信じる者」です。私たちの助けは、主(しゅ=神)から来るのです。主はまた、私たちの盾になってくださるのです。

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 主はわれらを御心に留められた。
 主は祝福してくださる。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福し、(12節)
 主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も、大いなる者も。(13節)

 主は信頼するに値する方です。この方は、私たちを心に留められ、祝福して下さるのだと、捕囚からの帰還を果たしたイスラエルの民は、とくに骨身にしみて「知っていた」のです。

 主があなたがたをふやしてくださるように。
 あなたがたと、あなたがたの子孫とを。(14節)
 あなたがたが主によって祝福されるように。
 主は、天と地を造られた方である。(15節)

 主が、祝福して下さり、子孫を増やして下さるという確信は、イスラエル人がもともと、カナンの一遊牧民の家族だったことを考えれば頷けます。主はアブラハムへの約束を果たされたのです。
 天と地をお造りになった神様にとって、自分の選びの民をふやすことなどたやすいことです。

 天は、主の天である。
 しかし、地は、人の子らに与えられた。(16節)

 私たちは罪を犯して楽園を追放された者ですが、しかし、主は住む場所(地)を与えて下さったのです。
 このことを、感謝し、ほめたたえることを知った者は幸いですね。

 死人は主をほめたたえることがない。
 沈黙へ下る者もそうだ。(17節)
 しかし、私たちは、今よりとこしえまで、
 主をほめたたえよう。ハレルヤ。(18節)




posted by さとうまさこ at 10:17| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする