2015年10月16日

Coffee Break詩編・185 あなたの恵みとまことのために、(詩編116篇1節〜8節、)



 私は主を愛する。
 主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。(詩編116篇1節)
 主は、私に耳を傾けられるので、
 私は生きるかぎり主を呼び求めよう。(2節)
 死の綱が私を取り巻き、
 よみの恐怖が私を襲い、
 私は苦しみと悲しみの中にあった。(3節)
 そのとき、私は主の御名を呼び求めた。
 「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」(4節)

 主は情け深く、正しい。
 まことに、私たちの神はあわれみ深い。(5節)
 主はわきまえのない者を守られる。
 私がおとしめられたとき、私をお救いになった。(6節)
 私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。
 主はおまえに、良くしてくださったからだ。(7節)

 ちょうど、今朝、私はあるクレームのメールを受け取ったのです。相手の立場を明らかにするので、詳しくは書けませんが、私の落度を咎めているメールです。
 問題は、私は相手が指摘していることも、私がその原因だとも認められないので、ちょっと面白くないわけです。すぐにもメールの返事を書きました。わたしが当惑していること、相手が指摘しているような言動に覚えがないこと。
 けっきょく、すぐには返信しませんでした。これは、もしもこじれたら、私と相手の問題だけではなくなりそうなことだったからです。私はある方に相談し、とりあえず返信を見合わせることにしました。

 でも、心は騒ぎます。
 「なんで人のために好意で動いて、クレームをつけられなければならないの。」
 ちょっと相手を非難する気持ちになり、同時に、「私がもう少し行き届いていたら、私がもっと世慣れていたら、私がもっと用心深かったら」と、思うわけです。
 そう。私は、「わきまえのない者」だったわけです。

★★★★★

 まことに、あなたは私のたましいを死から、
 私の目を涙から、
 私の足をつまずきから、救い出されました。(8節)

 この聖句は、奇しくも私の今の状況に適応できそうです。
 どの道、何かクレームをつけられる、相手に誤解を与えるような「つまづき」が、自分にあったわけです。

 そんなわけで、私は祈っています。
 どうか私の足をつまづきから、救い出して下さい。主よ。





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2015年10月17日

Coffee Break詩編・186 あなたは私のかせを解かれました。(詩編116篇9節〜19節、)



 私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。(詩編116篇9節)
 「私は大いに悩んだ。」と言ったときも、
 私は信じた。(10節)

 「信仰がある」と宣言すると、「ほんとうに信仰があるのか」と試される事態に遭遇するように思います。
 秋晴れの好天の時は、青空や紅葉の木々、香しい菊の花を愛で、「神さま感謝します」と、自分が神の御手に包まれていると感じます。氷雨が意地悪く横殴りにふりかかり、全身をぐしょぬれにするときは、「さて、どこに雨宿りしようか」と、焦って回りを見わたします。

 人生における悪天候は、むしろ社会関係――人間関係にあります。自分も不完全であると、頭ではわかっていても、だからといって自分の行く道をふさがれると、「何とかしよう」と焦るのは当然です。でも、まっさきに、問題を神様の御前に持って行くべきだったんだと、後で気づくのです。どんな小さなことでも、「神さま。どうしましょう」「神さま。これでいいでしょうか」と、幼児が、すぐそばにいる母親(父親)を仰ぎ見るようにすることが、また、神様の望んでおられることのはずです。

★★★★★

 私はあわてて
 「すべての人は偽りを言う者だ。」と言った。(11節) 
 主が、ことごとく私に
 良くしてくださったことについて、
 私は主に何をお返ししようか。(12節)

 問題を自分で解決しようとしている時の心理を考えると、やはり、自分も「やましい」のですね。私は、この詩人が言っているように、「あわてて、すべての人は偽りを言う者だ。」と訴えたいのです。同時に、そのように言いいたい自分がやましいのだと思います。
 小心者の人間はすぐにナーバスになり、何とか神様の前に「正しい」ところを見せたいと思うのです。
 ほんとうは、神様がすでに、「ことごとく私に良くしてくださった」と思いを到らせなければならないのでしょう。

 詩人は歌います。

 私は主に何をお返ししようか。(12節)
 私は救いの杯をかかげ、
 主の御名を呼び求めよう。(13節)
 私は、自分の誓いを主に果たそう。
 ああ、御民すべてのいる所で。(14節)
 主の聖徒たちの死は主の目に尊い。(15節)

★★★★★

 ああ、主よ。私はまことにあなたのしもべです。
 私は、あなたのしもべ、あなたのはしための子です。
 あなたは私のかせを解かれました。(16節)
 私はあなたに感謝のいけにえをささげ、
 主の御名を呼び求めます。(17節)

 詩人は、自分を「主のしもべ」と言いますが、だからといって、「主」は専制君主ではありませんね。神様を信じた時から私たちは「神の国の住人」であり、神の国の法――神の支配のもとに置かれているのです。神は、地上の専制君主と違って、奴隷を必要としてはおられないのです。広告やさまざまなイリュージョンで、ご自身を飾る必要もない方です。
 だだ、ものすごい御力をお持ちであるのは、「御前に出れば」わかる!!――と今朝は、改めて神様を見あげました。なぜなら、主は、「私たちのかせを解かれる」方だからです。

 昨日から持っていた問題を御前に差し出し、詩編116篇をあらためて読み返しています。

 私は自分の誓いを主に果たそう。
 ああ、御民すべてのいる所で。(18節)
 主の家の大庭で。エルサレムよ。あなたの真中で。
 ハレルヤ。(19節)







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2015年10月18日

Coffee Break詩篇・187 もっとも短い詩篇(詩篇117篇1節2節、)



 すべての国々よ。主をほめたたえよ。
 すべての民よ。主をほめ歌え。(詩篇117篇1節)
 その恵みは、私たちに大きく、
 主のまことはとこしえに至る。
 ハレルヤ。(2節)


 詩編の中で、もっとも短い詩だということです。すべての国々とその民、つまり全世界の人に、主なる神への賛美をお勧めしています。
 それは、主が、すべての人々に大きな恵みを下さっており、まことをもって接して下さっているからだと、書かれています。

★★★★★

 伝道をするように促されて、「そこまでは出来ない」と思っている信徒は多いのです。礼拝も奉仕も献金も交わりも、要するに教会員としての基本的な役割には参加しているような「良い信徒たち」でも、「伝道」となるとためらいがあるのは事実です。愛餐会やクリスマスに友人知人を同行するくらいは何とかできる。けれども、イエス様の十字架、聖書が語る「救い」を宣べ伝えるとなると、「とうていできない」としり込みするのです。私もその一人かもしれません。

 その理由は、この詩篇の二節を忘れているからではないでしょうか。いえ。主が、自分に恵みとまことを下さっていることは、重々わかっているのです。ところが、まだ、キリスト教を知らない人は、「異邦人」みたいな気がして、宣べ伝えるのが不可能に感じたりするのです。
 ある時、まるで、キリスト教など知らない、聖書という言葉さえ聞いたことがない人に対しても、主が、「恵みとまことを下さっている」ということに思い至ったのです。

 天地はすべて神様のものなのに、ここでは、無神論者はもちろん、「悪人」でも「迫害者」でも「偶像を拝む者たち」でも、生存を許されているわけです。このことに気が付いたのは、聖書を読んだ結果です。
 イエス様は、キリスト教など全く知らない人たちの間で「神の国」宣べ伝え始められたのです。確かに、イエス様の説教を聞いていたほとんどの人たちは、ユダヤ教徒だったでしょう。つまり、天地を創造された唯一の神を信じていたのです。ですが、イエス様は仰せです。

 自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は良い人にの悪い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイの福音書5章44節45節)

 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈入れもしませず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養って下さるのです。あなたがたは鳥よりももっとすぐれたものではありませんか。(同6章26節)

 つまり、神は、悪い人にも良い人と同様に恵みを下さっている、また、人間のように神を知る可能性もない鳥や獣や草木にもめぐみは注がれていると、キリストは仰せなのです。
 
 こうした神の恵みの大きさを思う時、私たちの宣教の言葉は、あらゆるところで芽を出す可能性があるのではないでしょうか。





 
 

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2015年10月19日

Coffee Break詩篇・188 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。(詩篇118篇1節−29節、)



 ある友人に、伝道するつもりで「あなた、神様を信じる?」と尋ねました。割合、気が強くて率直な彼女は、いくらか腹立たしげに「キリスト教の神様でしょう」と切り返してきました。
 こういう問いを返されたら、その後の伝道をどう進めればいいのでしょう。
 その先を思って、私は、瞬間焦るのです。
「ええ、もちろん、キリスト教の神様よ」と言えば、「キリスト教はいやなの」と返されそうです。
「キリスト教とか、とくに言わなくて、神様の存在を信じる?ってことよ」
「ええ、だから、ちゃんと初詣にも行っているし、墓参りにも行っているわ」
 友人は、こちらの心を見越していますから、とつぜん、まじめな伝統宗教の信者になります。
「それって、でも、本当の神様かしら」とでも言おうものなら、「キリスト教だけが本当の神様だって言うんでしょう。だから嫌いなのよ」
 こうなると伝道どころではありません。すでに対立モードに入っているのです。

 ★★★★★

 伝道の糸口はたくさんあると思います。
「この世界を造った方がいると思う? それとも偶然に出来たと思う?」
「あなたは何故生まれて来たんだと思う?」「どうして死ぬんだと思う?」
「死んだらどこへ行くと思う?」「死後の世界があると思う?」
「この世界はどうなって行くんだと思う?」

 あるいは、
「生きているって不思議なことだと思わない?」
「毎日、空気が吸えて、食べ物が食べられて、家族や友人がいて、笑ったり、泣いたり、喧嘩したりしあえるなんて、すばらしいと思わない?」

 でも、あまりに根源的な質問は、かえってはぐらかされてしまいますね。
「そんな面倒なこと、どっちでもいいじゃん」
「神様なんか信じなくても、うまくいっているわ。今のままで幸せよ」

 「あーあ」と思わずため息です。
 さいわい、そんな時こそ、聖書の出番です。
 そんな時に、ぴったりなのが、つぎの聖句ではないでしょうか。

 主に感謝せよ。
 主はまことにいつくしみ深い。
 その恵みはとこしえまで。(詩篇118章1節)

 「良かったわね。神様に感謝できる生活で。お幸せね。あなたには神様がついているのよ」
 と、友人の幸せをともに喜びあうことはできます。神様に栄光をお返しする絶好のチャンスです。

★★★★★

 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。
 その恵みはとこしえまで。(118章29節)

 詩編118篇は、1節と同じ聖句で閉じられています。この詩編は、主のいつくしみと恵みに感謝する喜びを歌ったものでしょう。
 その理由は、主――聖書の神の、救いのわざのお働きのためであるというのが、要旨になっています。

 家を建てる者たちの捨てた石。
 それが礎の石となった。(同22節)

 明日、これについて、見てみたいと思います。 







posted by さとうまさこ at 09:52| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月20日

Coffee Break詩篇・189 喜びと救いの声は、正しい者の幕屋のうちにある(詩篇118篇1節−20節 Tコリント3章16節)



 主に感謝せよ。
 主はまことにいつくしみ深い。
 その恵みはとこしえまで。(詩篇118章1節)
 さあ、イスラエルよ。言え。
 「主の恵みはとこしえまで」と。(2節)
 さあ、アロンの家よ。言え。
 「主の恵みはとこしえまで」と。(3節)
 さあ、主を恐れる者たちよ。言え。
 「主の恵みはとこしえまで」と。(4節)

 詩人が「主に感謝せよ」と歌うのは、主のまことのいつくしみと、恵みの永続性のためです。イスラエル、アロン、主の信徒たちに、主の恵みの永続性について褒めたたえるよう促しています。

 つぎに、詩人がひとりの神の民として、神が彼にしてくださったことを数え上げています。

 苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。
 主は、私に答えて、私を広い所に置かれた。(5節)
 主は私の味方。私は恐れない。
 人は、私に何ができよう。(6節)
 主は、私を助けてくださる私の味方。
 私は、私を憎む者をものともしない。(7節)
 主に身を避けることは、
 人に信頼するよりもよい。(8節)
 主に身を避けることは、
 君主たちに信頼するよりもよい。(9節)

 困難な時、人は力ある者(君主)を頼りたくなります。しかし、どんなに権勢のある人に頼るよりも、主に身を避けなさいというのです。

 すべての国々が私を取り囲んだ。
 確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。(10節)

 困難の中でも、敵軍に囲まれることは最大の危機です。とくに、ダビデは王でしたから、国と民を守る義務がありました。

 彼らは私を取り囲んだ。まことに、私を取り囲んだ。
 確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。(11節)
 彼らは蜂のように、私を取り囲んだ。
 しかし、彼らはいばらの火のように消された。
 確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。(12節)

 王たるものは軍の上に君臨し、国民を動員する権限をもっています。戦時には、軍を動かし、国民を鼓舞して戦わなければなりません。敗戦は亡国を意味します。
 どんなに、備えがあってもたくさんの兵士がいても、神が味方に付いてくださらなければ勝てないのです。主が勝たせて下さったという体験を積んでからこそ、詩人は次のように歌えるのでしょう。
 
 おまえは、私をひどく押して倒そうとしたが、
 主が私を助けられた。(13節)
 主は、私の力であり、ほめ歌である。
 主は、私の救いとなられた。(14節)

★★★★★

 喜びと救いの声は、正しい者の幕屋のうちにある。
 主の右の手は力ある働きをする。(15節)
 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。(16節)
 私は死ぬことなく、かえって生き、
 そして主のみわざを語り告げよう。(17節)
 主は私をきびしく懲らしめられた。
 しかし、私を死に渡されなかった。(18節)

 義の門よ。私のために開け。
 私はそこからはいり、主に感謝しよう。(19節)
 これこそ主の門。正しい者たちはこれより入る。(20節)

 幕屋は、旧約の時代、唯一の正式な礼拝場所でした。キリストのように仲保者の役割をして、神と人とを取り持っているのは大祭司でした。大祭司は幕屋の至聖所で神とお会いできる唯一の「資格者」でした。大祭司に祈ってもらうのは、律法に則った手続きが必要でした。はるばる旅をして神殿にやってきて、定められたささげ物を正式な手続きで奉納し、祭司やレビ人にそれ相応の礼もしなければなりません。
 今日ように、イエス様のお名前を唱え、賛美と感謝のささげ物だけで、いつでもどこでも主にお会いできるわけではなかったのです。なにしろ、イエス様がキリストとなって地上に来られた後は、私たちは一人ひとり「神の神殿」を持っているのですから、その恵みは格段に大きいのです。(Tコリント3章16節)

 つぎの、22節は、神様の大きな犠牲である新約の救いについて書かれています。

 明日こそ、「家を建てる者たちの捨てた石」の意味を見てみたいと思います。






posted by さとうまさこ at 09:01| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする