2015年10月21日

Coffee Break詩篇・190 家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。(詩篇118篇21節〜29節、マタイの福音書21章41節)


 私はあなたに感謝します。あなたが私に答えられ、
 私の救いとなられたからです。(詩篇118篇21節)

 家を建てる者たちの捨てた石。
 それが礎の石になった。(22節)
 これは主のなさったことだ。
 私たちの目には不思議なことである。(23節)

 私は建築のことはまるでわかりません。今問題の「傾いたマンション」の話で一番驚いたのは、私が目で見ている固い地面の中にさらに固い地層があって、建築者は土台の柱をその地層に届くように埋めなければいけなかったということです。しかも、その地層はリンゴの皮のように平になっているのではなく、凸凹があるので、柱を埋める前にその深さをきちんと調査しなければならない。固い地層に届いていない柱があるのは、深さのデータを偽造したのではないかと言った疑惑が浮かんでいるのです。

 昔の建築ならわかるというのでもないので、礎(いしずえ)の石もまるでわかりませんでした。さいわい参考書や多くの説教者の解説を、書物やネットを通じて接することができました。

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 旧約時代の建物は石造であったのですが、全部の柱や天井の組み立ての要になっている石があったというのです。建物の構造はその石によって支えられ、その石を捨てると建物は崩れてしまう大切な石です。
 聖書の中では、この石はイエス・キリストです。ですから、この箇所がマタイ21章42節で詩篇118篇22節のなかで、イエス自身によって引用されているのです。

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 もちろん、捕囚帰還後の礼拝の中で、詩篇118篇が歌われた時、人びとはまだ救い主の到来をはっきりと自覚してはいませんでした。ここでは、「礎の石」、自分たちユダヤ人であるという思いだったでしょう。自分たち「神の選びの民」が、「神の国」の礎の石だという自覚です。
 神の選びの民として、神の救いのご計画に用いられているユダヤ人。しかし、その重大な使命にもかかわらず、ユダヤ人は、多くの国々の中で敗北し、国を失い、捕囚の憂き目にあっていたのです。しかし、神は彼らをエルサレムに戻され、神殿を再建させられたのです。
 神殿で、再び礼拝する日を迎えて、ユダヤ人たちは今更のように自分たちの役割りを覚えたのではないでしょうか。

 家を建てる者たちの捨てた石。
 それが礎の石となった。
 これは主のなさったことだ。
 私たちの目には不思議なことである。

 専門家である大工でも、間違って(あるいは、故意に)礎の石を捨ててしまうことがある。また、捨てられて、ただの石くれにしか見えないものでも、礎の石であることもある。神様がなさることは不思議であると詩人は歌うのです。人にはわからないけれども、神様はご自分の建物を建てる時の「必要」をお忘れになっていない。
 ユダヤ人たちは、そのことに気が付き、喜びました。

 これは、主が設けられた日である。
 この日を楽しみ喜ぼう。(24節)

 ああ、主よ。どうぞ救ってください。
 ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。(25節)
 主の御名によって来る人に、祝福があるように。
 私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。(26節)
 主は神であられ、私たちに光を与えられた。
 枝をもって、祭りの行列を組め。
 祭壇の角のところまで。(27節) 

 あなたは、私の神。私はあなたに感謝します。
 あなたは私の神、私はあなたをあがめます。(28節)

 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。
 その恵みはとこしえまで。(29節)








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2015年10月22日

Coffee Break詩篇・191 家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。2(詩篇118篇22節)



 家を建てる者たちの捨てた石。
 それが礎の石になった。(詩篇118篇22節)

 この言葉は、聖書全体を通じて考えれば、救い主イエスのことです。けれども、詩篇118で神を賛美していたとき、ユダヤ人たちは、自分たち「神の選びの民・イスラエル」こそ、礎の石だと思っていたのではないでしょうか。

 イスラエルの人たちは、エジプトで四百年に亘って、「奴隷民」だったのです。主権をもたない奴隷の苦しさを神に訴えて叫んだところ、アブラハム、イサク、ヤコブの神は、彼らに答えて下さって、アブラハムへの約束を思い出して下さって、モーセを召し出してイスラエルの民をエジプトから連れ出されたのです。
 シナイの山で、神と契約を結び、イスラエルは「神聖政治国家」を立てました。「支配者は神である国――神の国」の国民となったのです。その時に、神から律法をいただきました。国には、国民と法と領土が必要ですが、領土もまた、神が下さるのです。
 カナンへの道は紆余曲折がありました。ですが、最終的には、イスラエルはカナンを相続地としました。
 神は、民族としても弱く小さいイスラエルを守って下さって、イスラエルは、王国として周辺国に知られる国家になりました。ダビデ、ソロモンの時代は古代イスラエルがもっとも、「国家らしく」輝いていた時でした。同時に、神聖政治国家が、神を忘れて堕落を始めた時代でした。

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 ソロモンの死後は、国は南北に分裂し、北王国は神殿礼拝を避けるために金の小牛を作り、みずから自分たちを立てて下さった神を裏切って行きました。
 南王国には、神殿があるはずでしたが、神殿の中に偶像が持ち込まれるような大きな間違いを何度も犯しています。
「わたし以外に神があってはならない。ほかの神々を拝んではならない」と十戒の最初に戒めを置かれた神が、この状況をお怒りにならないはずがありません。
 やがて、まず、北王国が、続いて南王国も滅亡の憂き目に遭うのです。捕囚生活の中で、ようやく、神に立ち返る者たちが目覚めました。神様も今一度あわれみをかけられ、ペルシャ王キュロスに働かれたので、キュロスは、ユダヤ人を帰国させ、神殿再建をさせるのです。

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 神殿の再建がなり、神殿礼拝を再開したとき、民は思ったでしょう。
 自分たちイスラエルは神の民であり、神の国の住人であった。それだけでなく、神の国の礎の石であったと。
 少なくとも、この「神の民」が諸国に散らされた時、「神の国」イスラエルも消滅していたのです。
 
 もちろん、この時、この場合、自分こそ神の国の礎の石だと、言いきれる者はいなかったでしょう。エズレであれ、ゼルバベルであれ、ネヘミヤであっても、人間はひとりで要石になることは不可能でした。
 彼らの思いは、このみ言葉の半分に当てはまったのです。それは、「家を建てる者たちの捨てた石」です。
 たしかに、彼らユダヤ人たちは、強い「国々」によって、一度は捨てられたのです。しかし、捨てられてこそ、彼らは自分たちが担っていた役割に気が付いたのではないでしょうか。
 自分たちは神の一方的な選びによって、神の国の住民になったのだと「胡坐をかいていた」過ちを思ったのではないでしょうか。神の国の恵みをいただくためには、みずからが神の国の礎であるべきだと。

 もちろん、人ひとりは、本当の意味で「神の国」の要石になることはできないかもしれませんが、その自覚は大きかったように思います。
 壮大で堅固な建物に要石が必要なように、神の国にも礎の石が必要だと、イスラエルの人たちの目を開かれたのは、神様だったのでしょう。
 やがて、ホンモノのいすずえの石(要石)、救い主イエスをお送りくださるのですから。






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2015年10月23日

Coffee Break詩篇・192 幸いなことよ。全き道を行く人々、(詩篇119篇1節〜8節)



 詩篇119篇です。これは全詩篇中、一番長い詩篇です。きわめて様式的にも整っているとのことです。というのも、ヘブル語のアルファベッドに則って、8節ずつが書かれていて、全部で22ある頭文字のとおり、176節で完結しているからです。
 日本にも、「いろはがるた」がありますが、たしかに最初の一文字を示されれば暗記は容易かもしれません。
 ただし、私のように、英語のアルファベット以外は、わからない人には、やはり、ひるむほどの量です。
 その場合、8節ずつのまとまりとして、テーマを捜していくのが良いのかなと思います。

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 幸いなことよ。
 全き道を行く人々、
 主のみおしえによって歩む人々。(詩篇119篇1節)
 幸いなことよ。
 主のさとしを守り、
 心を尽くして主を尋ね求める人々。(2節)

 最初の節は、アレフと呼ばれるアルファベッドの属すると説明されています。(新実用聖書注解・いのちのことば社) けれどもヘブル語の素養がない私は、日本語訳のどの言葉を指しているのかさえわからないのを、はじめにお断りしておきます。

 「幸いなことよ」で始まる、このパラグラフは、信仰者としての折り目正しいあり方を、信仰者自身が心に刻もうとしているのが見て取れます。
 この詩自体は、ユダヤ人が共有する詩だったでしょうが、一人びとりがその言葉を心に
迎えてたましいの奥へ深化させていくことができる、神の光が感じ取れます。

 私たちは、だれしも強烈な「肉」を抱えて生きています。食欲や健康に関係のあることなど、たんに肉体の保存に関わることだけでなく、一見、心の領域に見える問題でも、結局は「肉であるおのれ」を守ろうとする働きであることは多いのです。
 そうして、目に見える肉体の不備や病気より、この心の歪みともいうべき病気の方がさらに深刻なのではないでしょうか。

 なぜなら、神は霊ですから、霊の言葉で私たちに働きかけ、その働きで私たちを覆い、作り変えて下さろうしているのです。しかし、私たちを神から遠ざけたいサテンは、ここに頑健なとりでを築いて、神の霊がはたらき邪魔をしようとしているのでしょう。

 単に、神を信じない人たちや反キリストの人たちではなく、すでに、キリストに従おうと決心している者(私自身を含めて)たちでさえ、しばしば心にサタンのとりでが築かれていることに、気づかないでしょうか。
ここには、サタンの砦を砕く方法が書かれています。ただ、まっすぐ、「主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める」こと。

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「心を尽くして主を尋ね求めること」は、さらに具体的な態度として示されています。

 まことに、彼らは不正を行なわず、
 主の道を歩む。(3節)
 あなたは堅く守るべき戒めを仰せつけられた。(4節)
 どうか、私の道を堅くしてください。
 あなたのおきてを守るように。(5節)
 そうすれば、私はあなたのすべての仰せを見ても
 恥じることがないでしょう。(6節)

 主の掟を守ることは、「ヤワな心」では到達できないことのようです。主が、守るべき教えを堅く示されたのだから、私たちもそれを堅く守る決意がなければならないと、詩人は語っています。さらにそれは、直ぐな心で感謝を持って行わなければいけないと、さとされています。

 あなたの義のさばきを学ぶとき、
 私は直ぐな心であなたに感謝します。(7節)
 私は、あなたのおきてを守ります。
 どうか私を、見捨てないでください。(8節)

 それでも、心を覆うサタンの砦が神のことばを妨げるのを、だれしも感じるのではないでしょうか。ですから、詩人は、「私を見捨てないでください」と懇願しているのです。






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2015年10月24日

Coffee Break詩篇・193 私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます。(詩篇119篇9節〜16節)

 

 詩編9節〜16節(アルファベット。ベース)。この部分は御言葉に従う人生のあり方が示されている (新実用聖書注解・いのちのことば社)

 どのようにして若い人は自分の道を
 きよく保てるでしょうか。
 あなたのことばに従ってそれを守ることです。(詩篇119篇9節)
 私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。
 どうか私が、あなたの仰せから
 迷い出ないようにしてください。(10節)

 「どのようにしたら、自分の道をきよく保てるか。」
 これは若い人だけでなく、年を重ねても、信仰者なら自分に問い続けていることばですね。むしろ、日を重ねるごとに、自分の道がきよく保てないことを知って行くのですから、生涯の課題ですね。
 詩編の作者は、それを単純明快に答えています。
 神様のことばに従って、それを守れ。
 心を尽くして、神様を尋ね求めよ。

 あなたに罪を犯さないため、
 私は、あなたのことばを心にたくわえました。(11節)

 「心を尽くして、神を尋ね求める」とは、天に向かって「神様、神様」と叫び続けるような行動を意味しているのではなく、神様のことばを聞いて(読んで)、それを心に刻みつけ、心を耕していくことなのでしょう。
 詩篇の作者が思い浮かべているのは、モーセ五書(律法の書)にある様々なおきてや戒めのことかと思います。また、モーセ五書から歴史書に至る文脈(神の救いのご計画)を理解し、神の大きさ、豊かさ、愛、恵みなどを褒めたたえ、感謝することではないでしょうか。とくに、当時のスラエルの人々は、自分たちは神様から特別に選ばれた民族だという誇りを持って――それゆえ、感謝や喜びも大きく――、御言葉を味わったのではないでしょうか。

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 主よ。あなたは、ほむべき方。
 あなたのおきてを私に教えてください。(12節)
 私は、このくちびるで、あなたの御口の決めたことを
 ことごとく語り告げます。(13節)

 さいわい、詩篇の内容は、そのまま今日の神の民・キリスト者のものでもあります。
 私たちは、私たちの罪を贖って、神との断絶を回復してくださったイエスの愛に浸りながらも、それを、ほかの人たちに語りつげようと心を新たにするのです。

 私は、あなたのさとしの道を、
 どんな宝よりも、楽しんでいます。(14節)

 神のさとしの道は、厳しく不自由なものでしょうか。
 「そうではない!」と、キリスト者は断言できますね。
 それは「すばらしい宝」で、だからこそ、今日、私たちは、次のように歌う詩人と肩を組んで賛美ができる、さとうは、そう思うのです。

 私は、あなたの戒めに思いを潜め、
 あなたの道に私の目を留めます。(15節)
 私は、あなたのおきてを喜びとし、
 あなたのことばを忘れません。(16節)








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2015年10月25日

Coffee Break詩篇・194 まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。(詩篇119篇17節〜24節)



 あなたのしもべを豊かにあしらい、私を生かし、
 私があなたのことばを守るようにしてください。(詩篇119篇17節)

 「幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々」で始まる詩篇119の祈りは、第三番目のパラグラフで、自分自身を御言葉に照らし合わせています。
 信仰を公式的見解ではなく、自分の問題として顧みているのです。
 神のことばに従うことは、人をではなく、なにより自分にとって、切迫した課題ですね。

 私の目を開いてください。
 私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに
 目を留めるようにしてください。(18節)
 私は地では旅人です。
 あなたの仰せを私に隠さないでください。(19節)

 みおしえのうちにある奇しいこととはなんでしょう。「人の目を開く」力ではないでしょうか。

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 儒教が人の道の指針だった時代の名残でしょうか。一昔前までは、「論語読みの論語知らず」ということわざがありました。論語の言葉はよく知っているけれど、その行いがかけ離れている人です。聖書の御言葉にも当てはまらないわけではありません。みことばを繰り返し読んでも、その奇しい力に気が付かなければ、目が開かれなければ、みおしえを聞いたとは言えない、と自分のことでもしばしば思わされるのです。

 私のたましいは、いつもあなたのさばきを慕い、
 砕かれています。(20節)
 あなたは、あなたの仰せから迷い出る高ぶる者、
 のろわるべき者をお叱りになります。(21節)
 どうか、私から、そしりとさげすみとを
 取り去ってください。
 私はあなたのさとしを守っているからです。(22節)

 詩人は、他者からそしりとさげすみを浴びている人なのでしょうか。それとも、彼自身、他者をそしり、さげすむことがあり、そのような自分に苛立っているのでしょうか。
 彼は、さばきを願っているのですから、彼自身にも神の目に正しくないことがあるのを「知っている」と思います。同時に、自分を苦しめる者の攻撃を取り去って下さいと願っています。
 彼は、「みことばを知っているが、それを聞いても行なわない」人ではないようです。(ヤコブの手紙1章22節23節)

 しかし、「みことばに目が開かれ、さとしに、生かされる」のは、容易なことではありませんね。

 たとい君主たちが座して、
 私に敵対して語り合っても
 あなたのしもべは
 あなたのおきてに思いを潜めます。(23節)

 自分よりはるかに世俗の力をもった君主たちが自分に敵対している時でも、泰然と神様と向き合い、そのおきてを心に刻む、そのような人こそ、神のことばに生かされているのでしょう。

 まことに、あなたのさとしは私の喜び、
 私の相談相手です。(24節)

 私も、こういうふうに変えられていきたいと、切望する者です。アーメン。



posted by さとうまさこ at 08:24| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする