2015年10月02日

Coffee Break詩編・172 苦悩――祝福の世界に飛び込むための踏切台(詩編107篇33節〜43節)



 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、
 主は彼らを苦悩から連れ出された。(詩編107篇28節)


 詩編107篇のキーフレーズは、詩編全体を流れる「思想的現実」だと思います。これは、イスラエルの民にとって人の頭で考える思想ではなく、体験してきたことだからです。

 「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(詩編50篇15節)

 私たちが神を賛美し、神に感謝するのは、神が神だからです。平たく言えば、神様が最高の地位にあるとわかるのは、私たちの「救い出された(る)体験」のためです。

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 聖書は、イスラエルの民が苦難を経て救い出される歴史を、具体的に記録しています。大きく出エジプトと捕囚からの帰還の二件を挙げることができるでしょう。しかし、綿密に読んでいけば、数えきれない苦難と救出が繰り返されているのがわかります。
 出エジプト直後から、たびたび持ち上がる水騒動。前途への恐れから来る内輪もめ。(民数記13章14章) 異教徒の仕掛ける偶像礼拝に揺れる民と悔い改め。(民数記25章) カナン進攻の時の、アカンの事件による敗北。(ヨシュア記7章)
 ヒゼキヤの時代には、エルサレムを取り囲んだアッシリヤ軍を、主が一晩で壊滅させました。(U列王記18章18章)
 
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 救い出された体験をした者には、詩編107篇の賛美は、裏付けのある歴史そのものだったのではないでしょうか。自分たち個人の体験でもあるのです。

 主は川を荒野に、
 水のわき上がる所を潤いのない地に、(詩編107篇33節)
 肥沃な地を不毛の地に変えられる。
 その住民の悪のために。(34節)
 主は荒野を水のある沢に、
 砂漠の地を水のわき上がる所に変え、(35節)
 そこに飢えた者を住まわせる。
 彼らは住むべき町を堅く建て、(36節)
 畑に種を蒔き、ぶどう畑を作り、
 豊かな実りを得る。(37節)
 主が祝福されると、彼らは大いにふえ、
 主はその家畜を減らされない。(38節)

 私が注意しなければいけないのは、「悪を行なう住民は自分自身でもある」と知る自覚かなと思います。悪いのは自分以外の誰かで、その地は災害が起こる。他方、神の祝福がある地では、飢えた者(自分)でさえ、豊かな実りを得る。なぜなら、自分は神の御目に叶っているからと思いかねないのが、私なのです。
 祝福や繁栄と言った結果から物事を見ると、祝福されているから、「正しい」といった応報思想になってしまいます。
 じっさい、このように物事を逆に見ると大きな過ちを犯してしまいます。例えば災害が起こったとき、「神が(彼らを)罰している」と平気で、被害者たちを糾弾する者がいるのです。様々な不幸を「神の裁定」の結果だと見るなら、神の恵みや愛はわからなくなってしまいます。

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 彼らが、しいたげとわざわいと悲しみによって、
 数が減り、またうなだれるとき、(39節)
 主は君主たちをさげすみ、
 道なき荒れ地に彼らをさまよわせる。(40節)
 しかし、貧しい者を悩みから高く上げ、
 その一族を羊の群れのようにされる。(41節)
 直ぐな人はそれを見て喜び、
 不正な者はすべてその口を閉じる。(42節)
 知恵のある者はだれか。
 その者はこれらのことに心を留め、主の恵みを悟れ。(43節)

 繰り返し唱えられているのは、「しいたげやわざわいがあった時にうなだれた」結果として、神は「貧しい者を悩みから高く上げ」て下さるということではないでしょうか。

 苦しみは祝福から見放されたいわば「死刑宣告」ではなくて、むしろ、祝福の世界に飛び込むための踏切台のような気がします。踏切台に足を乗せて、「神さま、助けて下さい」と呼び求めれば、私たちは「苦悩の中から救い出され(28節)」「その望む港に導かれた。(30節)」と歌われているのですから。








posted by さとうまさこ at 10:20| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする