2015年10月07日

Coffee Break詩編・177 主は、わたしの主に言われた。(詩編110篇1節2節、マタイの福音書22章41節〜46節)



 これは、メシヤ詩編だと、解説書にあります。詩編2篇と72篇が同様のカテゴリーに入れられています。(新実用聖書注解・いのちのことば社)
 つまり、メシヤ預言の詩なのです。
 そのためでしょうか。短い詩ですが、のっけからかなり難解です。

ダビデの賛歌

主は、私の主に仰せられる。(詩編110篇1節a)

 「主が、私の主――」以下が、読者(私)にとって難しいのは当然ですね。
 この箇所は、マタイの福音書22章41節〜46節に引用されています。イエス様とパリサイ人たちとの問答です。

 イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、
 『主はわたしの主に言われた。
 「わたしがあなたの敵を
 あなたの足の下に従わせるまでは、
 わたしの右の座に着いていなさい。」』
と言っているのですか。
 ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。
 それで、だれもイエスに一言も答えることができなかった。また、その日以来、もはやだれも、イエスにあえて質問する者はなかった。

 旧約聖書に精通している専門家パリサイ人でさえ、答えることができなかった個所なのです。

★★★★★

 最初の[主]については、創世記から登場している聖書の神だとわかります。しかし、ダビデはもう一人、「主」と呼んでいるのです。これがメシヤ――キリストであるという認識は、パリサイ人にもあったのです。そして、メシヤは、ダビデの家系から生まれてくるとの預言が、旧約聖書中にあるのも、パリサイ人には周知の事実だったのです。ただ、ダビデの子孫であるなら、ダビデがなぜ、自分の子孫を「主」と呼ぶのかというのが、この質問の要点です。

 今の時代でさえ、子や孫のことを目上であるなどとは思いません。尊敬されるべきは、先に生まれた人間です。
 これは、たんに聖書知識があるだけでは、答えられない難問だったのでしょう。パリサイ人は沈黙してしまったというのです。

「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
わたしの右の座に着いていよ。」(詩編110篇1節b)

 あとの方の「主」も、もちろん、三位一体のおひとりの神であるイエスと考えられるのです。
 問題は、ダビデがこの詩を詠んだとき、彼の念頭に、将来現れる救い主へのはっきりしたイメージはなかったのでは、ということです。むしろ、ダビデは、聖霊に導かれて、思いを超えた「預言」をしたと考えるべきとの解釈があり、さとうもそう思います。

 牧師の書斎
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posted by さとうまさこ at 09:16| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする