2015年10月09日

Coffee Break詩編・178 私は心を尽くして主に感謝しよう。(詩編111篇1節〜5節)



 ハレルヤ。
 私は心を尽くして主に感謝しよう。
 直ぐな人のつどいと集会において。(詩編111篇1節)

 神様と自分との関係は、だんだん濃密になってきています。
 神様と親密になりたいという「自分の欲目」かもしれませんが、でも、信仰の始めの頃は、「そうではなかった」と思うのです。
 「救われた」のは、神様の救いの「みわざ」を体験したからです。ここでそれを詳しく語ることはできませんが、聖書教室で聖書を学びながらも、それは「学び」であり、知識であり、それ以上のかかわりは自分にはあり得ないと思っていたのです。それが、ある時、一瞬にして、「神さまがおられるんだ!」と、目が開かれたのです。

 神様がおられるなら大丈夫、神様が共にいて下さるなら大丈夫と、大いに平安になったのですが、それでもそのころ、自分にとって神様は「みわざを見せて下さる」お方でした。
 感謝はするのですが、「神さまのみわざを数え上げているような」感謝です。
 数えられないみわざ、自分には見えないみわざ。自分が得たと思っているよりはるかに大きなみわざを含んでまで、感謝していたでしょうか。
 
 「心を尽くして」主に感謝しているつもりでした。
 でも、「数えることができるもの」「見えるもの」への祈りは、心を尽くすより、頭を使っている祈りだとは気が付きませんでした。

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 主のみわざは偉大で、
 みわざを喜ぶすべての人々に尋ね求められる。(2節)
 そのみわざは尊厳と威光。
 その義は永遠に堅く立つ。(3節)

 主のみわざは結果として「見える」ようなものだけではないと、いつの頃か気が付いたのです。主が、主として天と地にいて下さるゆえに、尋ね求めれば「尽きない」みわざが存在し、それらは、「尊厳と威光」という言葉で括られ、神様の正しさは永遠に真実だとわかるとき、ようやく、「心を尽くして」祈ることの深みを覗いたと思えたのです。

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 主は、その奇しいわざを記念とされた。
 主は情け深く、あわれみ深く、(4節)
 主を恐れる者に食べ物を与え、
 その契約をとこしえに覚えておられる。(5節)

 これは、イスラエルの民にとっては、出エジプトの道程で神が与えて下さったマナのことでしょう。契約は、出エジプト記6章5節です。(新実用聖書注解・いのちのことば社)

 今私は、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。(出エジプト記6章5節)

 この言葉が示しているのは、アブラハムへの契約(創世記12章3節b)であることは明白です。アブラハム契約は、アブラハムを通して地上のすべての民族は祝福されると明言されているのですから、
 その結果、私(たち)は、今、祝福を受けることができています。
 これこそ目先のみわざを超えた神のみわざだと、気づかせてくれるこの詩句。ここで、また「心からの」感謝を新たにするものです。








posted by さとうまさこ at 09:56| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする