2015年10月14日

Coffee Break詩編・183 あなたの恵みとまことのために、(詩編115篇1節〜8節、イザヤ書44章10節〜13節)



 私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、
 あなたの恵みとまことのために、
 栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。(詩編115篇1節)

 天と地を造られた方を礼拝できるのは、私たちキリスト者の最大の「うまみ」だと思います。もし、戯画化させていただけるなら、例えば、「宗教食堂」というようなレストランがあり、そこにあるメニューから料理を注文できるなら、間違いなく「キリスト教――天地を造られた神」を注文した人が一番おいしい思いをするでしょう――食べ方さえ間違わなければ。――

 人間には、真実を味わいたいと願う舌があり、真実が盛られている皿を、目の前に見たいという願望があります。そしてもし、そのようなごちそうを見て、味わったら、それを造って出してくれたシェフをほめるでしょう。彼には彼だけのメダルが備わっているからです。

 もちろん、人間のシェフには、どんなに技能の高い才能のある人でも限界があります。彼には、彼にふさわしいりっぱな調理場が必要ですし、なにより、彼の計画を実現する多くの最高の「材料」が必要です。忠実な助手も、また、彼の料理を味わってくれる舌の肥えた顧客もいなければなりません。

 でも、天地を造られた神は、すべてをご自分ひとりで賄うことができるのです。

 さんざんおいしさを堪能させてもらっても、レシートは「ただ」です。
 返礼は、「ほめる」ことです。「こんな素晴らしい物を提供して下さるなんて!感激」と、賛嘆をあらわすことだけです。
 といって、お世辞を望んでおられるのではないのです。お世辞なんか、口先だけの褒め言葉など、たちどころに「見分ける」お方です。

★★★★★

 なぜ、国々は言うのか。
 「彼らの神は、いったいどこにいるのか。」と。(2節)
 私たちの神は、天におられ、
 その望むところをことごとく行なわれる。(3節)

 残念ながら、宗教食堂には、きらきら光る大きな字で書かれたメニューや派手な歌声や人形を使って招くうるさいセクションがたくさんあります。
 メニューには、いかにもおいしそうな写真に、即効のありそうな効能が並べられ、数々の「うまみ」が人間の想像力に訴えてくるのです。

 彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。(4節)
 口があっても語れず、目があっても見えない。(5節)
 耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。(6節)
 手があってもさわれず、足があっても歩けない。
 のどがあっても声をたてることもできない。(7節)
 これを造る者も、
 これに信頼する者もみな、これと同じである。(8節)

 私たちは、見えるものに騙されやすいのです。私たち自身、「見えるもの」だからです。語るためには口が必要、見るためには目が必要、耳や鼻がないと、聞こえないし嗅げない。葦があるから歩けるし、手があるから抱擁も出来ることを、経験しているのです。
 そうして、自分の拝む神さまにも、同じものを造ってしまう人たちがいるのです。

 偶像を鋳るのは、そこにある目や耳、口や鼻、手や足が「生きて働いている」と思うからです。
詩編115篇が、神殿で歌われる200年以上も前に、イザヤは預言しています。

 だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、
 偶像を鋳たのだろうか。
 見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間に過ぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。
 鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。
 木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭を取り、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。(イザヤ書44章10章〜13章)







posted by さとうまさこ at 09:23| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする