2015年10月17日

Coffee Break詩編・186 あなたは私のかせを解かれました。(詩編116篇9節〜19節、)



 私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。(詩編116篇9節)
 「私は大いに悩んだ。」と言ったときも、
 私は信じた。(10節)

 「信仰がある」と宣言すると、「ほんとうに信仰があるのか」と試される事態に遭遇するように思います。
 秋晴れの好天の時は、青空や紅葉の木々、香しい菊の花を愛で、「神さま感謝します」と、自分が神の御手に包まれていると感じます。氷雨が意地悪く横殴りにふりかかり、全身をぐしょぬれにするときは、「さて、どこに雨宿りしようか」と、焦って回りを見わたします。

 人生における悪天候は、むしろ社会関係――人間関係にあります。自分も不完全であると、頭ではわかっていても、だからといって自分の行く道をふさがれると、「何とかしよう」と焦るのは当然です。でも、まっさきに、問題を神様の御前に持って行くべきだったんだと、後で気づくのです。どんな小さなことでも、「神さま。どうしましょう」「神さま。これでいいでしょうか」と、幼児が、すぐそばにいる母親(父親)を仰ぎ見るようにすることが、また、神様の望んでおられることのはずです。

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 私はあわてて
 「すべての人は偽りを言う者だ。」と言った。(11節) 
 主が、ことごとく私に
 良くしてくださったことについて、
 私は主に何をお返ししようか。(12節)

 問題を自分で解決しようとしている時の心理を考えると、やはり、自分も「やましい」のですね。私は、この詩人が言っているように、「あわてて、すべての人は偽りを言う者だ。」と訴えたいのです。同時に、そのように言いいたい自分がやましいのだと思います。
 小心者の人間はすぐにナーバスになり、何とか神様の前に「正しい」ところを見せたいと思うのです。
 ほんとうは、神様がすでに、「ことごとく私に良くしてくださった」と思いを到らせなければならないのでしょう。

 詩人は歌います。

 私は主に何をお返ししようか。(12節)
 私は救いの杯をかかげ、
 主の御名を呼び求めよう。(13節)
 私は、自分の誓いを主に果たそう。
 ああ、御民すべてのいる所で。(14節)
 主の聖徒たちの死は主の目に尊い。(15節)

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 ああ、主よ。私はまことにあなたのしもべです。
 私は、あなたのしもべ、あなたのはしための子です。
 あなたは私のかせを解かれました。(16節)
 私はあなたに感謝のいけにえをささげ、
 主の御名を呼び求めます。(17節)

 詩人は、自分を「主のしもべ」と言いますが、だからといって、「主」は専制君主ではありませんね。神様を信じた時から私たちは「神の国の住人」であり、神の国の法――神の支配のもとに置かれているのです。神は、地上の専制君主と違って、奴隷を必要としてはおられないのです。広告やさまざまなイリュージョンで、ご自身を飾る必要もない方です。
 だだ、ものすごい御力をお持ちであるのは、「御前に出れば」わかる!!――と今朝は、改めて神様を見あげました。なぜなら、主は、「私たちのかせを解かれる」方だからです。

 昨日から持っていた問題を御前に差し出し、詩編116篇をあらためて読み返しています。

 私は自分の誓いを主に果たそう。
 ああ、御民すべてのいる所で。(18節)
 主の家の大庭で。エルサレムよ。あなたの真中で。
 ハレルヤ。(19節)







posted by さとうまさこ at 09:34| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする