2015年10月22日

Coffee Break詩篇・191 家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。2(詩篇118篇22節)



 家を建てる者たちの捨てた石。
 それが礎の石になった。(詩篇118篇22節)

 この言葉は、聖書全体を通じて考えれば、救い主イエスのことです。けれども、詩篇118で神を賛美していたとき、ユダヤ人たちは、自分たち「神の選びの民・イスラエル」こそ、礎の石だと思っていたのではないでしょうか。

 イスラエルの人たちは、エジプトで四百年に亘って、「奴隷民」だったのです。主権をもたない奴隷の苦しさを神に訴えて叫んだところ、アブラハム、イサク、ヤコブの神は、彼らに答えて下さって、アブラハムへの約束を思い出して下さって、モーセを召し出してイスラエルの民をエジプトから連れ出されたのです。
 シナイの山で、神と契約を結び、イスラエルは「神聖政治国家」を立てました。「支配者は神である国――神の国」の国民となったのです。その時に、神から律法をいただきました。国には、国民と法と領土が必要ですが、領土もまた、神が下さるのです。
 カナンへの道は紆余曲折がありました。ですが、最終的には、イスラエルはカナンを相続地としました。
 神は、民族としても弱く小さいイスラエルを守って下さって、イスラエルは、王国として周辺国に知られる国家になりました。ダビデ、ソロモンの時代は古代イスラエルがもっとも、「国家らしく」輝いていた時でした。同時に、神聖政治国家が、神を忘れて堕落を始めた時代でした。

★★★★★

 ソロモンの死後は、国は南北に分裂し、北王国は神殿礼拝を避けるために金の小牛を作り、みずから自分たちを立てて下さった神を裏切って行きました。
 南王国には、神殿があるはずでしたが、神殿の中に偶像が持ち込まれるような大きな間違いを何度も犯しています。
「わたし以外に神があってはならない。ほかの神々を拝んではならない」と十戒の最初に戒めを置かれた神が、この状況をお怒りにならないはずがありません。
 やがて、まず、北王国が、続いて南王国も滅亡の憂き目に遭うのです。捕囚生活の中で、ようやく、神に立ち返る者たちが目覚めました。神様も今一度あわれみをかけられ、ペルシャ王キュロスに働かれたので、キュロスは、ユダヤ人を帰国させ、神殿再建をさせるのです。

★★★★★

 神殿の再建がなり、神殿礼拝を再開したとき、民は思ったでしょう。
 自分たちイスラエルは神の民であり、神の国の住人であった。それだけでなく、神の国の礎の石であったと。
 少なくとも、この「神の民」が諸国に散らされた時、「神の国」イスラエルも消滅していたのです。
 
 もちろん、この時、この場合、自分こそ神の国の礎の石だと、言いきれる者はいなかったでしょう。エズレであれ、ゼルバベルであれ、ネヘミヤであっても、人間はひとりで要石になることは不可能でした。
 彼らの思いは、このみ言葉の半分に当てはまったのです。それは、「家を建てる者たちの捨てた石」です。
 たしかに、彼らユダヤ人たちは、強い「国々」によって、一度は捨てられたのです。しかし、捨てられてこそ、彼らは自分たちが担っていた役割に気が付いたのではないでしょうか。
 自分たちは神の一方的な選びによって、神の国の住民になったのだと「胡坐をかいていた」過ちを思ったのではないでしょうか。神の国の恵みをいただくためには、みずからが神の国の礎であるべきだと。

 もちろん、人ひとりは、本当の意味で「神の国」の要石になることはできないかもしれませんが、その自覚は大きかったように思います。
 壮大で堅固な建物に要石が必要なように、神の国にも礎の石が必要だと、イスラエルの人たちの目を開かれたのは、神様だったのでしょう。
 やがて、ホンモノのいすずえの石(要石)、救い主イエスをお送りくださるのですから。






posted by さとうまさこ at 11:19| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする