2015年10月25日

Coffee Break詩篇・194 まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。(詩篇119篇17節〜24節)



 あなたのしもべを豊かにあしらい、私を生かし、
 私があなたのことばを守るようにしてください。(詩篇119篇17節)

 「幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々」で始まる詩篇119の祈りは、第三番目のパラグラフで、自分自身を御言葉に照らし合わせています。
 信仰を公式的見解ではなく、自分の問題として顧みているのです。
 神のことばに従うことは、人をではなく、なにより自分にとって、切迫した課題ですね。

 私の目を開いてください。
 私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに
 目を留めるようにしてください。(18節)
 私は地では旅人です。
 あなたの仰せを私に隠さないでください。(19節)

 みおしえのうちにある奇しいこととはなんでしょう。「人の目を開く」力ではないでしょうか。

★★★★★

 儒教が人の道の指針だった時代の名残でしょうか。一昔前までは、「論語読みの論語知らず」ということわざがありました。論語の言葉はよく知っているけれど、その行いがかけ離れている人です。聖書の御言葉にも当てはまらないわけではありません。みことばを繰り返し読んでも、その奇しい力に気が付かなければ、目が開かれなければ、みおしえを聞いたとは言えない、と自分のことでもしばしば思わされるのです。

 私のたましいは、いつもあなたのさばきを慕い、
 砕かれています。(20節)
 あなたは、あなたの仰せから迷い出る高ぶる者、
 のろわるべき者をお叱りになります。(21節)
 どうか、私から、そしりとさげすみとを
 取り去ってください。
 私はあなたのさとしを守っているからです。(22節)

 詩人は、他者からそしりとさげすみを浴びている人なのでしょうか。それとも、彼自身、他者をそしり、さげすむことがあり、そのような自分に苛立っているのでしょうか。
 彼は、さばきを願っているのですから、彼自身にも神の目に正しくないことがあるのを「知っている」と思います。同時に、自分を苦しめる者の攻撃を取り去って下さいと願っています。
 彼は、「みことばを知っているが、それを聞いても行なわない」人ではないようです。(ヤコブの手紙1章22節23節)

 しかし、「みことばに目が開かれ、さとしに、生かされる」のは、容易なことではありませんね。

 たとい君主たちが座して、
 私に敵対して語り合っても
 あなたのしもべは
 あなたのおきてに思いを潜めます。(23節)

 自分よりはるかに世俗の力をもった君主たちが自分に敵対している時でも、泰然と神様と向き合い、そのおきてを心に刻む、そのような人こそ、神のことばに生かされているのでしょう。

 まことに、あなたのさとしは私の喜び、
 私の相談相手です。(24節)

 私も、こういうふうに変えられていきたいと、切望する者です。アーメン。



posted by さとうまさこ at 08:24| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする