2015年10月27日

Coffee Break詩篇・196 このとおり、私は、あなたの戒めを慕っています。(詩篇119篇33節〜40節)



 主よ。あなたのおきての道を
 私に教えてください。
 そうすれば、私はそれを終わりまで守りましょう。(詩篇119篇33節)
 私に悟りを与えてください。
 私はあなたのみおしえを守り、
 心を尽くしてそれを守ります。(34節)
 私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。
 私はその道を喜んでいますから。(35節)
 私の心をあなたのさとしに傾かせ、
 不正な利得に傾かないようにしてください。(36節)
 むなしいものを見ないように私の目をそらせ、
 あなたの道に私を生かしてください。(37節)
 あなたのことばを、あなたのしもべに果たし、
 あなたを恐れるようにしてください。(38節)

 この部分の〈教えて〉〈悟り与えて〉〈踏みゆかせて〉〈傾かせ〉〈目を逸らせ〉〈果たし〉〈取り去って〉等の表現は使役形である。信仰生活における主の主導権を認識し,教えと導きを求める祈りである。(新実用聖書注解・いのちのことば社P822)

 注解書の解説と併せて読むと、ここにある「道」に深い含蓄を見ることができます。
 信仰は道にたとえることができるでしょうが、それは自分の引いたではないということのようです。「そのようなことはわかっている」と言いそうになります。人はそもそも自分で自分を救うことはできないのであって、私が救われたことも主の恵みであった。
 わかっているけれども、つい、自分で道を引いていて、自分の道を持っていて、自分がその道を、自力で極めるのだといった意識が身についていたような気がします。自分で全部やらなきゃならないので、道探し、もっと言えば自分探しでウロウロ迷っている人が大ぜいいます。(さとうもその一人です)

 たしかに、「聖書の神信仰」では、主導権はすべて神さまにありますね。宇宙の始まりからして、神がお造りになり、私たちのいのちも与えて下さったのです。罪を犯して御許を追放された時も、神は「これからは一人で生きていきなさい。自分で道を切り開きなさい」などとは、仰せになっていないのです。ただ、楽園にあったあらゆる特典が失われて、人は「顔に汗を流して」食を得なければならず、女は「苦しんで子を産む」と宣告されているだけです。

 道とは、人が神さまから離れてしまった苦しみを知った瞬間から、人が求めていたもの、神が人のためにご用意されていたものですよね。
 そこを歩くことが自力でなくて、神様に「させて下さい」と使役形で願うのは、共感できますね。

★★★★★

 私が恐れているそしりを取り去ってください。
 あなたのさばきはすぐれて良いからです。(39節)
 このとおり、私は、あなたの戒めを慕っています。
 どうかあなたの義によって、私を生かしてください。(40節)

 この「そしり」は、サタンからのものでしょうか。じっさいは、サタンのそしりは、人を使って、人の言葉で届くのです。対策は一つです。神がご用意して下さっている道を踏み外さず、仰せのとおり歩み、不正な利得やむなしいものに引き寄せられないことです。
 とはいえ、この道をゆくのは、薄氷を踏む注意ぶかさが必要かもしれません。

 神殿礼拝で歌う詩人でさえ、自分の踏む足もとがふらついていることを知っているのです。
 申命記にもあります。

 あなたがたの神、主が命じられたすべての道を歩まなければならない。あなたがたが生き、幸せになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである。(申命記5章33節)




    聖書は、新改訳聖書を使っています。




posted by さとうまさこ at 09:42| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする