2015年10月29日

Coffee Break詩篇・198 あなたのおきては、私の旅の家では、私の歌となりました。(詩篇119篇49節〜56節)



 信仰の真贋(しんがん)の話になると、ときに人は、ひどく過激になります。
 自己実現や富、ときには家族ですら、信仰と対極にあるものとして説教する伝道者がいます。しかし、この世を生きている人は、家族や自己実現の問題、経済的側面に目を留めないでは生きていけません。これは、空気や水、食物、愛情、安全を求める生身の人間として、当然のことです。いわゆる清廉な生活、ストイックで倫理的な生き方と人間の生存本能からくる、このような欲求をどう折り合わせるか、これは古くから人間の課題だったのではないでしょうか。さいわい、その答えは用意されているのです。
 どんなに問答しても、結論が出ない問題を抱えた時、人間は本能的に、どんな問いにも答えて下さるお方に訊ねてきたのです。
 
 どうか、あなたのしもべへのみことばを
 思い出してください。
 あなたは私がそれを待ち望むように
 なさいました。(詩篇119篇49節)
 これこそ悩みのときの私の慰め。
 まことに、みことばは私を生かします。(50節)

 これは、聖書の中の詩ですし、原語はヘブル語で書かれ、それも二千五百年以上も昔のヘブル語で書かれたもの(らしい)のです。それを、たくさんの真摯な聖書学者や神学者、翻訳家の汗と血の結晶として、私たちは、現代のことばで受け取ることができるのです。
 これを読みながら、私は、古代のユダヤ人と私達現代人との間の「神にたいする態度」は、基本的には同じなのだと思わされるのです。
 悩みの時、神様に祈り、神様から答えをいただくことで、生き返る人は今日でも多いでしょう。

★★★★★

 高ぶる者どもは、ひどく私をあざけりました。
 しかし私は、あなたのみおしえから
 それませんでした。(51節)

 旧約聖書を読んでいると、「悩み」の中で、「高ぶる者どもからの、あざけり」が大きなウエイトを占めているのがわかります。「悪者ども」に苦しめられることが悩みなのです。
 これは、人が、けっしてひとりでは生きて行けない存在であることを考えれば、当然のことです。衣食住といった物質で守られなければならないのはもちろん、「人と人のぬくもり」「信頼」「つながり」に身を置きたい本源的な欲求があるのです。

 天地創造の後、神は人間をご自身の形としてお造りになりました。さらに、男と女に創造されたのです。(創世記1章27節)
 また言われました。
「産めよ。ふえよ。地に満ちよ。地を満たせ」(創世記1章28節)

 地に増え広がった人間が相争い、殺し合いさえするとき、それはもともとの神の御心に叛いた状態でしたから、その対立に置かれた人が「痛い」のは当然ですね。
 神を見あげて訴える時、信仰者はその痛みの理由に思い当るのです。

 主よ。
 私は、あなたのとこしえからの定めを思い出し、
 慰めを得ました。(52節)
 あなたのみおしえを捨てる悪者どものために、
 激しい怒りが私を捕えます。(53節)
 あなたのおきては、私の旅の家では、
 私の歌となりました。(54節)
 主よ。私は、夜には、あなたの御名を思い出し、
 また、あなたのみおしえを守っています。(55節)
 これこそ、私のものです。
 私があなたの戒めを守っているからです。(56節)

 詩人は、「あざける者を罰して下さい」と願っているのではありません。
 そうではなく、自分が神のみおしえを守っていることに慰めを見出しているのです。戒めを守っていることを大切に考えています。
 敵のあざけりのなかでこそ、御言葉を思い出すこと、これこそ、信仰者のあり方だと私は感銘を覚えるのです。




 

posted by さとうまさこ at 10:57| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする