2015年10月30日

Coffee Break詩篇・199 主は私の受ける分です(詩篇119篇57節〜64節)



 主は私の受ける分です。
 私は、あなたのことばを守ると申しました。(詩篇119篇57節)


 信仰をもっている者の幸せは、主(神)に祈ることができることです。主(Load)と言うことばには、神様が自分と特別な関係のある方だという信頼が含まれています。
 私たちの国日本では多神教だから、「神様!」と呼びかけても誰に向かっているのかは、人それぞれであると思われがちです。

 以前、悩みのある友人に、「神さまを信じるといいわよ」と尋ねましたら、いきなり「あなたの言うのは、キリスト教の神でしょう」と切り返されたことがあります。
 たしかにその通りなので、私はちょっと絶句してしまいました。こんな時、性急に反論するのは、それ自体「多神論」の土俵に上がってしまうことです。
「私は観音様を信じているのよ」あるいは、「天神様よ」。あるいは、「お釈迦様」「天照大神よ」と名前が上がったら、つい、キリスト教の神と較べて、どちらか正しいかと言った論争に引き入れられてしまいます。神様をオプションにしていること自体の、危険を感じなければなりません。
 
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 神を「主」と呼ぶのは、すでに、神と人との間に、特別なつながりがあることを意味します。神は自分の主人、自分は神のしもべ。神は自分の造り主、自分は「主」によって造られた者。神は自分の救い主、自分は「主」によって救いだされた者。
 ある方を「主」と呼ぶとき、私たちは、たしかに「主」が、あるべき自分の場所、そこに逃げ込める暖かなつばさ、正される規範、平安と確信などを提供して下さるのを見出すのです。
 もし、いくつもの神様を信じて使い分けているとしたら、どうして、「主」とよぶことができるでしょう。お参りする側でも、「醒めている」はずです。

「神様。嫁が安産できますように」と拝んだその足で、弁天様にお参りして、「どうか家が高く売れますように」「株が上がりますように」
 それから、天神様に行き、「息子が今年こそ、大学に受かりますように」
 仮に(本当に仮にです!)、学問の神様がおられたとして、その方が生きておられたとして、お賽銭を入れ、かしわ手を打ち、祈願のことばを念じて、お札やお守りを買って帰る「信者」が帰っていく後姿をご覧になって何と思われていることでしょう。
「それだけかい。何か大切なことを忘れちゃいませんか。私のことばは要らないのか」

 そうですよね。キリスト教の神様は、なんといっても「言葉をお持ち」なのです。慰め、道を教え、愛を持って言い聞かせ、御言葉で、私たちを悪い者から守って下さる。そして、信徒も、神のことばを待ち望むのです。
 
 私は心を尽くして、あなたに請い求めます。
 どうか、みことばのとおりに、
 私をあわれんでください。(58節)
 私は、自分の道を顧みて、
 あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。(59節)
 私は急いで、ためらわずに、
 あなたの仰せを守りました。(60節)
 悪者の綱が私に巻き付きましたが、
 私は、あなたのみおしえを忘れませんでした。(61節)
 
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 もちろん、すべてを統べておられるキリストには、力があります。悪者にはさばきがあり、彼らが必ず滅びると聖書は記しています。
 すでに、救いが整えられた新約の時代でも同じです。私たちは、いつか、神の前に立って申し開きをしなければならないと、聖書は語っているのです。(ヘブル人への手紙9章27節)

 真夜中に、私は起きて、
 あなたの正しいさばきについて感謝します。(62節)
 私は、あなたを恐れるすべての者と、
 あなたの戒めを守る者とのともがらです。(63節)
 主よ。地はあなたの恵みに満ちています。
 あなたのおきてを私に教えてください。(64節)








posted by さとうまさこ at 10:30| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする