2015年10月31日

Coffee Break詩篇・200 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。(詩篇119篇65節〜72節)



 主よ。あなたは、みことばのとおりに、
 あなたのしもべに良くしてくださいました。(詩篇119篇65節)


 今朝、私はこれとそっくりの祈りを寝床の中でしていました。まだ、はっきりと目覚めていないのに、まだ、眠いのに、私の中のもう一人の私が、神様に申し上げていたのです。

 よい分別と知識を私に教えてください。
 私はあなたの仰せを信じていますから。(66節)

 これにはもちろん理由があります。私はいま自分で経験のない新しい挑戦をしようとしています。多少資金を必要とし、初めての経験もクリアしなければならないので、少なからず冒険です。未経験の出来事に挑戦するのは今が初めてではありません。多少の資金もなしにできることもあまりないでしょう。これは自分だけでなく、すべての人が生きていくうえで階段を上るような、人生のいとなみについているものです。
 少し大がかりな人生の変化――進学、留学、就職、開業。結婚、出産。転居。このような足し算になって行く場面には絶対に、資金と未経験の世界へ「挑戦するエネルギーと勇気」が必要です。
 
 大きな事業を起こして世の中を変えていくような構想に生きた方々がいます。それに比べれば、自分のやろうとしていることは小さいのです。
 それでも、明け方、祈りと共に目が覚めるということは、私にはけっこう大きな課題なのだと思わされるのです。
 
 それにしても、無意識に祈るなんて、すでに神様が語りかけて下さっていたからでしょうか。神様が「良い分別と知識」を与えて下さろうとしていると思うのは、あまりにも我田引水にすぎるでしょうか。
 
★★★★★

 苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。
 しかし今は、あなたのことばを守ります。(67節)
 あなたはいつくしみ深くあられ、
 いつくしみを施されます。
 どうか、あなたのおきてを私に教えてください。(68節)

 事実は、このみ言葉のとおりです。私は、かつて自分の過ちが、苦しみを招いたと認めるものです。その大きな理由はやはり、神を恐れる気持がなかったからでしょう。

 高ぶる者どもは、私を偽りで塗り固めましたが、
 私は心を尽くして、あなたの戒めを守ります。(69節)

 自分のあるべき姿、進んでいる道について聞く相手がいないなら、やりたい放題になります。それは、状況に流されるということなのです。神に聞く代わりに、人に聞いていると、いつの間にか高ぶる者どもに捉えられています。

 彼らの心は脂肪のように鈍感です。
 しかし、私は、あなたのみおしえを喜んでいます。(70節)
 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。
 私はそれであなたのおきてを学びました。(71節)

 71節のことばも有名ですね。確かに、苦しみに合わないほうが良いのでしょうが、人はつまずきなしには学習できません。
 熱いケトルに触らないようにとか、急な階段では手すりを持つようにとか、信号を守ること、社会にはたくさんのルールがあることなどは、人からも書物からも学ぶことができます。しかし、神の掟は、頭だけでは学ぶことができないのではないでしょうか。

 たしかに、「十戒は全部守っています。ほかに何が必要でしょうか」とイエス様に聞き返した人がいますが、聖書は、彼が「正しくない」ことを語っているのです。(マタイの福音書19章16節〜22節)
 彼は、「自分はなんでもできる」という高慢のなかにいました。
 神は、「何でも自分でできると思っている優等生」など、ぜんぜん望んでおられないのではないでしょうか。「神のおきて」は、苦しみに合うことでしか学べないように思います。

 あなたの御口のおしえは、私にとって
 幾千の金銀にまさるものです。(72節)








posted by さとうまさこ at 09:56| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする