2015年11月01日

Coffee Break詩篇・201 どうか、私の心が、あなたのおきてのうちに全きものとなりますように。(詩篇119篇73節〜80節)



 あなたの御手が私を造り、私を形造りました。
 どうか私に、悟りを与えてください。
 私があなたの仰せを学ぶようにしてください。(詩篇119篇73節)
 あなたを恐れる人々は、私を見て喜ぶでしょう。
 私が、あなたのことばを待ち望んでいるからです。(74節)

 キリスト者の神への信頼は、神が自分をお造りになったお方だからです。もちろん、自分だけでなくすべての人間、森羅万象のすべてをお造りになった方ゆえ、その方の仰せを聴くのです。人の手が形づくった鋳物や木材の造形に、無理に「神性」を見て拝む偶像礼拝とは根本的に違います。
 旧約聖書の「恐れる」は信じるの意味ですから、詩人はは同信の仲間に期待されている、同信の仲間――捕囚帰還後にもユダヤ教を拝んでいる人々が、自分を見て喜んでいるのを意識しています。
 神の選びの民・イスラエルは、実際、はじめから個人として選ばれたのではなく「人類の雛型」だったのです。私たちキリスト者が、一人でいる時も、一人でないのと同じです。私たちは、「神の国」の民なのです。

★★★★★

 主よ。私は、あなたのさばきの正しいことと、
 あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています。(75節)
 どうか、あなたのしもべへのみことばのとおりに、
 あなたの恵みが私の慰めとなりますように。(76節)
 私にあなたのあわれみを臨ませ、
 私を生かしてください。
 あなたのみおしえが私の喜びだからです。(77節)

 天地をすべて形づくられ、人を形づくられた全能の創造者は、すべての権能を持っておられるのです。あふれるめぐみはもちろんのこと、主がむちを振るわれることもあるのです。
 主が下さる「悩み」は、人やサタンから来る悩みとはまるで異なるものです。主は、アダムとエバを楽園から追放する時でさえ、皮衣を着せて下さったのです。(創世記3章21節)また、将来、悪魔が滅ぼされることも予告なさいました。(同14節15節)

 たしかに、前途がことごとく打ち砕かれたように見えてさえ、私たちは、神の恵みと憐れみに包まれているのです。
 そうである限り、私は生かされ、生きているかぎり、主のみおしえを聞くことができます。

 どうか高ぶる者どもが、恥を見ますように。
 彼らは偽りごとをもって私を曲げたからです。
 しかし私は、あなたの戒めに思いを潜めます。(78節)
 あなたを恐れる人々と、
 あなたのさとしを知る者たちが、
 私のところに帰りますように。(79節)
 どうか、私の心が、あなたのおきてのうちに
 全きものとなりますように。
 それは、私が恥を見ることのないためです。(80節)

 高ぶる者どもは、神を信じない人たちです。ここでは、詩人たちに敵対して再建された神殿を壊そうと企んでいる敵のことでしょう。
 また、同じ信仰をもっているはずの人たち同士でも、「偽りごとをもって、相手を曲げるような」者が出て来ることもあるでしょう。

 それでも、創造者である神を知る者たちは恐れることがないと、作者は言います。
 信仰によって団結し、神のおきてのうちに歩んでいるかぎり、「恥を見ることはない」からです。








posted by さとうまさこ at 08:46| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月02日

Coffee Break詩篇・202 私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。(詩篇119篇81節〜88節)



 クリスマスの準備が始まっています。どこのキリスト教会でも、一年で一番待望されている教会歴の日でしょう。ですから、この期間を「待降節」とも言います。
 イエス様がご降誕になったのは、2千年余り昔ですから、クリスマスは、どうゆるやかに考えても、それ以降のように思えます。いわゆるBCADに変わってからです。私たちはイエス・キリストがご降誕されたという事実を思い起こし、その記念の日を待ち望むのです。

★★★★★

 私のたましいは、あなたの救いを慕って
 絶え入るばかりです。
 私はあなたのみことばを待ち望んでいます。(詩篇81節)
 私の目は、みことばを慕って絶え入るばかりです。
 「いつあなたは私を慰めてくださるのですか。」と言っています。(82節)

 詩篇のこのような個所を読んでいると、人が、神のご降誕を待ちのぞんでいたのは、二千年間に限定された出来事ではないと、思わされます。旧約の民、結局「神の選びの民であったイスラエル人たち」のたどり着いたところは、「神を慕い」「みことばを待ちのぞみ」「いつ、あなたは私を慰めて下さるのですか」とお尋ねすることだったのです。
 「いつ?」と、切望しているのは、まさに、主のお出でになる「とき」のことではないでしょうか。

 たとい私は煙の中の皮袋のようになっても、
 あなたのおきてを忘れません。(83章)
 あなたのしもべの日数は、どれだけでしょうか。
 あなたはいつ、私を迫害する者どもを
 さばかれるのでしょうか。(84節)
 高ぶる者は私のために穴を掘りました。
 彼らはあなたのみおしえに従わないのです。(85節)
 あなたの仰せはことごとく真実です。
 彼らは偽りごとをもって私を迫害しています。
 どうか私を助けてください。(86節)

 これは、自分たちの国が崩壊し、強国の捕囚に連れ去られ、神殿さえ破壊された神の民の苦難を訴えていることばです。
 異教徒のおきては「弱肉強食」です。強い者は高ぶります。ユダヤ教の教えに従わないのは当然です。ユダヤ教徒は迫害されていたのです。そうした過酷な状況の中で、ユダヤ教徒でさえ、「みことばに従わない」者が現れたのです。ほんとうに追いつめられた状況では、人は、仲間をも売る(裏切る)のは、歴史にいくらでも事実があります。

 ユダヤ教の神に従う者が取ることができる道はただひとつです。神のみことばと、神の救いを「待ちのぞむ」ことです。

★★★★★

 彼らはこの地上で私を滅ぼしてしまいそうです。
 しかしこの私は、あなたの戒めを捨てませんでした。(87節)
 あなたの恵みによって、
 私を生かしてください。
 私はあなたの御口のさとしを守ります。(88節)

 さいわい、私たちは、すでに完成された「救い」を見ています。もちろん、それは、「まだ完成されていない」「完成されつつある真の『神の国』だ」というのは、多くの伝道者の方々が教えて下さっているところです。







posted by さとうまさこ at 10:47| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月03日

Coffee Break詩篇・203 私は、すべての全きものにも、終わりのあることを見ました。(詩篇119篇89節〜96節)



 主よ。あなたのことばは、とこしえから
 天において定まっています。(詩篇119篇89節)

 ある時、テレビで宇宙の話を聞いていました。宇宙にははしがあるのかないのか、と昔から問われている疑問に、宇宙物理学者の先生がやさしく答えておられるのです。私たちがいる地球を起点に半円形のドームを描いた模型があって、その範囲は人類がコンタクトを取れると考えられる宇宙だというわけです。それでは、その向こうはないのかと、インタビュアーの女性が聞いているのです。
 先生はユーモアたっぷりに「行ってごらんなさい」
 女性は模型の端から一歩踏み出しました。たぶんバーチャルなドームだったのでしょう。彼女はやすやすとその先に歩き出しました。

 先生は、「先はあるけれど、それがどこまでと言うのは、わからない」という意味の説明をしていました。ドームの端まででも気の遠くなるような距離でした。たぶん、もう何万年人類が続いても、その先へはいけないのでしょう。
  バーチャルな模型がいくつか示されました。円形、ゆがんだ円、凸凹が果てしなく続く平面など、推測される宇宙の形と、その根拠が説明されていました。
 なんとなく、「狐につままれた」とでも言えるような雰囲気が、画面の中にあるように思えました.もちろん、さとうの頭の中も「???!!!」でした。要するに、(少なくとも、私は)理解不能だったわけです。

 なんとなく微笑んでしまいました。
 模範解答は、「神さまのなさることは、人間の頭ではすべてを知ることはできない!だわ」
と思ったのです。
 確実なことは、それでも、それは、「神の定めにしたがって、堅く立っている」ということでしょう!。

 あなたの真実は代々に至ります。
 あなたが地を据えたので、
 地は堅く立っています。(90節)
 それらはきょうも、あなたの定めにしたがって
 堅く立っています。
 すべては、あなたのしもべだからです。(91節)
 
★★★★★

 小さな地震でも、私はおびえます。東日本大震災の時、震源地から遠く離れた東京にいて、震度4〜5と言われる揺れに「世の終わりを思う」気分でした。
 たしかに地球は生きていて、地は、地震や火山の活動で震え、地上は、雨や風、大波で人を脅かすこともあります。ひと時として静止していない気象の中で、人は営営と生きて来て、結構栄えてきて、文明を築いて来て、問題と悩みが山積する中で、繁栄を謳歌しているのです。

 それは、神さまの愛があったからではないでしょうか。神様は、たしかに大洪水もおこされたし、ソドムの町を滅ぼされました。疫病、害虫の災害、ききんなどは、そのたびに大勢の人間を滅ぼしたのです。けれども、また、温暖な気候、豊作、豊かな雨、湧きだす泉などで、人を生き返らせ、子孫を下さり、数えきれない喜びと歌声を、私たちの口に置いて下さったのではないでしょうか。
 もちろん、そのようなことは、私が初めていうのではなく、詩篇の作者たちは、すでに周知していたのです。すべての幸いは神からもたらされる。

 もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、
 私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。(92節)
 私はあなたの戒めを決して忘れません。
 それによって、あなたは
 私を生かしてくださったからです。(93節)
 私はあなたのもの。どうか私をお救いください。
 私は、あなたの戒めを、求めています。(94節)
 悪者どもは、私を滅ぼそうと、
 私を待ち伏せています。
 しかし私はあなたのさとしを聞き取ります。(95節)

 悪者どもは、「敵対している人間」でしょうが、彼らが神から離れているのはサタンが「とりついている」からでしょう。相手がサタンであれば、対抗する有効手段は、神のことばとさとしです。

 私は、すべての全きものにも、
 終わりのあることを見ました。
 しかし、あなたの仰せは、すばらしく広いのです。(96節)

 ただ、私たちは、どのように神のことばに従っても、「肉の終わり」があることは、承知していなければなりません。アダムとエバがら楽園から追放された時から、私たちは神からのいのちの補給を失って、「やがて死ぬ」者となったからです。
 もちろん、この悲しみは、旧約時代の人々のものです。
 続きは、明日。




posted by さとうまさこ at 10:58| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月04日

Coffee Break詩篇・204 あなたの仰せは、私を私の敵よりも賢くします。(詩篇119篇96節〜100節)



 私は、すべての全きものにも、
 終わりのあることを見ました。
 しかし、あなたの仰せは、すばらしく広いのです。(詩篇119篇96節)

 宇宙にも終わりがあるそうです。考えようもないことですが、太陽にも、この地球も終わりの日が来るのでしょう。それは、大事件ではありますが、あまりに悠久の話で、現実感がありません。絶対に滅びそうもないものにも終わりがあったというのは、しかし、歴史的事実です。数多くの史跡や遺跡、文書に記された偉大な王の事績などを、私たちは知ることができます。それでも、それらを見る私たちに、差し迫った悲愴感はありません。
 ただ、悟ることはできます。終わりは、英雄でも独裁者でもない自分にも、いつか確実に訪れる。
 死は、サタンが人間をあやつる有力な力です。そもそも、神から人を引き放させたサタンの目的は、人間を死ぬものとすることだったのです。

 死をちらつかせるサタンに対抗できるのは、ただ、一つ、神様のことばだけだと、この詩人は、神を褒めたたえているのです。
 
 ★★★★★

 どんなにか私は、
 あなたのみおしえを愛していることでしょう。
 これが一日中、私の思いとなっています。(詩篇119篇97節)
 あなたの仰せは、私を私の敵よりも賢くします。
 それはとこしえに、私のものだからです。(98節)

 世を生きていると、あらゆる誘惑にさらされます。老いて色恋の誘惑がなくなったら、もっと大きな誘惑が待っています。「死」を避けようとする誘惑です。
 どうすれば若返り、どうすれば病気を避けることができ、どうすれば安泰な「余生」を楽しく送ることができるかといった「知恵の数々」を、毎日私たちは聞いています。

 私は私のすべての師よりも悟りがあります。
 それはあなたのさとしが私の思いだからです。(99節)

 もとより、世にある先人の知恵は、私の知識からは及びもつかない高等なものです。高い学歴や博士号をもった人たちが言うことだから、効力があるのだろうと説得されてしまいそうです。成長するためや、いつまでも若々しい老人でいるための知的なノウハウも世に溢れています。私など、愚かものの典型でしたから、そのようなハウツー本をどれだけ読んだかわかりません。卑近なおしゃれ術、会話術ほどのものから、多少哲学的な有名人の心理学や哲学書まで、浅い渉猟でしたがけっこう時間を費やした若い頃を思い出します。
 けれども、私は、知る必要があったのです。「聖書のみことばにまさるさとしはない。」と。

 私は老人よりもわきまえがあります。
 それは、私があなたの戒めを守っているからです。(100節)

 どんなに経験豊かな老人の知恵も、神の知恵には遠く及ばないでしょう。
 神の戒めを守る人が、老人よりわきまえがあるのは当然です。







posted by さとうまさこ at 10:00| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月05日

Coffee Break詩篇・205 あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。(詩篇119篇96節〜104節、申命記6章5節〜7節、6章17節〜19節)




 私はあらゆる悪の道から私の足を引き止めました。
 あなたのことばを守るためです。(詩篇119篇101節)
 私はあなたの定めから離れませんでした。
 それは、あなたが私を教えられたからです。(102節)
 あなたのみことばは、
 私の上あごに、なんと甘いことでしょう。
 蜜よりも私の口に甘いのです。(103節)
 私には、あなたの戒めがあるので、
 わきまえがあります。
 それゆえ、私は偽りの道をことごとく憎みます。(104節)

戒めや定めが、甘いと思えるのは、戒めや定めを下さる方が、愛を持って(言って)おられると確信できるときだけではないでしょうか。「愛のむち」などという言葉もありますが、愛があれば痛みを与えるむちでさえ、愛のしるしになるのです。
 じっさい、生まれてから一度も、痛い目にあったことがない人などいないでしょう。親や教師がむちを与えなくても、自分で躓いて頭を打ちます。思いがけず転んだり、人とぶつかったり、張り合ったり、生きるというのは見えない「格闘技」のようなものです。相手が友人だったり、仕事上の知り合いだったり、全くの行きずりの他人であっても、とにかく、人間は、他者と何の接触もなしに、何の摩擦もなしに、は生きることはできません。

 何の痛みもなしに社会を生き抜くことはできないとしても、それを未然に防ぐことはできますし、傷ついた後でも手当は出来ます。それが、神からの「みことば」ではないでしょうか。

★★★★★

 信仰をもつことを恐れている人がたくさんいます。とくに、キリスト教には、厳しい戒律のイメージを持っている人が、案外多いのです。
 じっさいには、断食も座禅も果てのない黙想、修業など、信仰をもち、それを深めるために試験のようなものも、旧約聖書の時代から見てもまったくないのです。自分の努力と修業で信仰のステージを上げるような例話も、一つもないと思います。
 みことばは、人間が「神のようになるために」あるものではないと思います。もし、そういうものなら、ねじり鉢巻きで徹夜をして暗記し、唱える人も出て来るでしょう。
 たしかに、申命記には、次のように記されています。

 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。
 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっている時も、道を歩くときも、寝る時も、起きる時も、これを唱えなさい。(申命記6章5節〜7節)

 しかし、この目的も同時に記されています。

 あなたの神、主の命令、主が命じられたさとしとおきてを忠実に守らなければならない。
 主が正しい、また良いと見られることをしなさい。
 そうすれば、あなたは幸せになり、主があなたの先祖たちに誓われたあの良い地を腫有することができる。
 そうして、主が告げられたように、あなたの敵は、ことごとくあなたの前から追い払われる。(申命記6章17節〜19節)

 これをすでに、自覚していた、詩篇の作者、詩篇の時代の人たちにとって、みことばが上あごに甘く、「蜜よりも私の口に甘いのです。」と言えるのは当然ですね。








posted by さとうまさこ at 10:09| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする