2015年11月06日

Coffee Break詩篇・206 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。(詩篇119篇105節〜112節)



 あなたのみことばは、私の足のともしび、
 私の道の光です。(詩篇119篇105節)

 みことば集などに、かならず載せられている美しいフレーズです。しばしば暗やみを手探りして歩くような私たちですが、神のみことばは、その時踏み出す一歩一歩を照らし出して下さるというような意味でしょうか。同時に道に沿って点々とならんだ街灯をイメージすることもできます。
 神様のことばは、闇の中をさまよいそうな私たちの道しるべとなるのです。もちろん、信仰生活にあって、実感として経験できることであり、だからこそ、人の口に上るのでしょう。

 私は誓い、そして果たしてきました。
 あなたの義のさばきを守ることを。(106節)
 私はひどく悩んでいます。

 御言葉のともしびを見つめながら、歩を進めていくのは、喜びであり、感謝です。それでも、この詩人は、手放しの喜びには浸れないようです。

 主よ。みことばのとおりに
 私を生かしてください。(107節)
 どうか、私の口の進んでささげるささげ物を
 受け入れてください。主よ。
 あなたのさばきを私に教えてください。(108節)

 このように念を押すことができるのが、教科書通りの倫理や道徳と、神への信仰の違いではないでしょうか。正しい道であるとわかっていても人は迷います。敵が奢って栄えていて、御言葉の光に沿って歩けないようなことさえあります。
 人間世界の倫理や道徳なら、そこで、ダブルスタンダード、裏表を使い分けることが当たり前になります
 しかし、神を信じる者は、さらに、神に訴えることができるのです。

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 私は、いつもいのちがけでいなければなりません。
 しかし私は、あなたのみおしえを忘れません。(109節)
 悪者は私に対してわなを設けました。
 しかし私は、あなたの戒めから迷い出ませんでした。(110節)

 神を信じない人たちも「いのちがけ」で生きているでしょう。私たちは、生まれて以来、いつもいのちがけの「椅子取りゲーム」にさらされているのです。罪の世は、人と人がしのぎを削って自分の命を永らえようとする宿命にあります。
 しかし、信仰者のいのちがけは、かならず、神を見あげることがセットになっています。自分のいのちのためならば何をしても許されるということは、ありえないのです。神がそのような自己中心をお望みになっていないからです。

 私は、あなたのさとしを
 永遠のゆずりとして受け継ぎました。
 これこそ、私の心の喜びです。(T11節)
 私は、あなたのおきてを行なうことに、
 心を傾けます。いつまでも、終わりまでも。(112節)

 神の道の光は、それを見つめる人のために延々と続いています。迷い出そうなときにも、光を見失いそうなときにも、神のさとしを思い起こし、主のおきてを行うことに心を傾けていれば、見失うことはないのです。
 詩篇の作者は、「知っていた」のです。たぶん、終わりの時、彼の手を引き上げて下さる方があると「知っていた」ように思います。








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2015年11月07日

Coffee Break詩篇・207 二心のある者どもを訴える――隠れ場での祈り(詩篇119篇113節〜120節)



 私は二心の者どもを憎みます。
 しかし、あなたのみおしえを愛します。(詩篇119篇113節)

 この二心は、もちろん、神様に対する二心でしょう。「います。います。教会にも二心のある人!」とちょっと指差しそうになったとたん、それが、自分にも向けられているのに気が付かないわけにはいきません。「人差し指をだれかに向けたら、中指、薬指、小指は自分に向けられている」と教えてくれたのは、なんと、五歳の子どもでした。
 神にたいして二心がないと言い切るのは、自分だけでは難しいのです。と言って、他人が証明できることでもありません。だいたい、人から褒められたら、その瞬間に「要注意!」です。神は人が見るようには見ない方です(Tサムエル記16章7節)。人から「まあ、敬虔な神のしもべ、りっぱなクリスチャンね」などと評判を立てられても、神は「わたしは人が見るようには見ない」と仰せになるのです。

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 あなたは私の隠れ場、私の盾。
 私は、あなたのみことばを待ち望みます。(114節)

 隠れ場という言葉は、詩篇では10回、旧約全体では35回登場しているそうです。(※)私たち現代のクリスチャンたちは、教会の交わりの中で祈り、広く社会の交わりの中でイエス様のみことばの実践「たがいに愛し合いなさい」「宣教しなさい」などを行なおうとするのです。祈りでさえ「二人でも三人でも心を合わせて祈るとき、わたしもそこにいる」と言われたイエスのことばを実践したいと努めています。

 同時に、たしかに、ひとりで祈りたいという気持、ただひとりで神の御前に出たいとの思いも切実ではないでしょうか。そんな時に入って行くのが、隠れ場でしょう。逆に言えば、隠れ場の必要も起こらない信仰は、弱いかもしれません。


 牧師の書斎(空知太栄光キリスト教会・銘形秀則師)
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E3%82%B5%E3%83%A1%E3%83%95%E7%9E%91%E6%83%B3(2)%E3%80%8C%E9%9A%A0%E3%82%8C%E5%A0%B4%E3%80%8D

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 つぎのような祈りは、二人三人といては、なかなか口に上らせられないものではないでしょうか。

 悪を行なう者どもよ。私から離れて行け。
 私は、わが神の仰せを守る。(115節)
 みことばのとおりに私をささえ、
 私を生かしてください。
 私の望みのことで
 私をはずかしめないようにしてください。(116節)

 敵は複数(者ども)で詩編の詩人を取り囲んで誘惑しているのです。彼らに「離れていけ」と命じても、たぶん難しい状況でしょう。方法はただ一つ、みことばによりすがることです。詩人は、みことばの中で神の支えを実感できるのです。

 私をささえてください。そうすれば私は救われ、
 いつもあなたのおきてに
 目を留めることができましょう。(117節)

 神のおきてが、一方を救い、他方を卑しめるのです。
 ここに示された祈りは、非常に厳しいものです。人の心の底など見えるはずもない、神ならぬ身の私たちは、このような祈りをするとき、やはり隠れ家が必要でしょう。

 あなたは、あなたのおきてから迷い出る者を
 みな卑しめられます。
 彼らの欺きは、偽りごとだからです。(118節)
 あなたは、地上のすべての悪者を
 金かすのように、取り除かれます。
 それゆえ私は、あなたのさとしを愛します。(119節)

 敵を取り除いてほしいと願うこの激しい祈りに対し、詩人は告白しています。

 私の肉は、あなたへの恐れで、震えています。
 私はあなたのさばきを恐れています。(120節)

 隠れ場だから、何を言っても良いとはならないようです。この詩人は、神を恐れ、告発している自分へのさばきを想定しています。そこまで神の声を聞くことができる人には、隠れ場は、すばらしい「祈りの部屋」となるのだろうと思わされます。







posted by さとうまさこ at 10:32| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月08日

Coffee Break詩篇・208 今こそ主が事をなさる時です。(詩篇119篇121節〜128節)



 私は公正と義とを行ないました。
 私をしいたげる者どもに
 私をゆだねないでください。(詩篇110篇121節)
 あなたのしもべの幸いの保証人となってください。
 高ぶる者どもが私をしいたげないようにしてください。(122節)
 私の目は、あなたの救いと、
 あなたの義のことばとを慕って
 絶え入るばかりです。(123節)
 あなたの恵みによって
 あなたのしもべをあしらってください。
 私にあなたのおきてを教えてください。(124節)
 私はあなたのしもべです。
 私に悟りを授けてください。
 そうすれば私は、あなたのさとしを知るでしょう。(125節)

 とても深刻な状況に置かれている人の祈りです。いきなり、しいたげという言葉が二度も続きます。迫害、抑圧、脅威がこの詩人を圧迫しているのです。その原因は、彼が不正を働いたからではなくぎゃくに、「公正と義を行なった」ためのようです。

 神の恵みを思うのは、順境にいる時より、むしろ、逆境の時です。恵みはもともと何の功績もない「人間」に神が一方的に下さる物です。それゆえ、私たちは、神の恵みを渇望します。子どもが親から与えられる愛をいくら得ても満足しないように。
 しかし、詩人は、甘いアメだけを恵みだと考えているのではないのです。神が下さるおきてや、悟り、さとしをも、もっと「知りたい」と願っているのです。

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 今こそ主が事をなさる時です。
 彼らはあなたのおしえを破りました。
 それゆえ、私は、金よりも、純金よりも、
 あなたの仰せを愛します。(127節)
 それゆえ私は、すべてのことについて、
 あなたの戒めを正しいとします。
 私は偽りの道をことごとく憎みます。(128節)

 今こそ主がことをなさる時です。なんて、じつは、大変大胆な訴えであると思いませんか。とくに、新約の民である私たちキリスト者は、このような祈りを御前に出すとき、何かためらいを覚えないでしょうか。
 私たちは、「右の頬を打たれたら、左も出しなさい」とイエスが仰せになったのを「知って」います。
また、パウロはその具体的な場での行いとして、たくさんの戒めを生まれたばかりの諸教会に送っています。

 おしえを破る人、偽りの道を行なう人は、今日も、教会の中でさえ、いいえ、自分の中にも、存在します。ただ、神はすべてをご存知なのだというのもまた確かです。
 いつでも、キリストにしたがって神の御前に出て行くことができる新約の時代の民は、その意味では、幸いです。

 偽善者や悪人はすでに報いを受け取っているのです。(マタイの福音書6章5節)





posted by さとうまさこ at 10:04| Comment(0) | 文芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月09日

Coffee Break詩篇209 みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。(詩篇119篇129節〜136節)



 あなたのさとしは奇しく、
 それゆえ、私のたましいはそれを守ります。(詩篇119篇129節)
 みことばの戸が開くと、光が差し込み、
 わきまえのない者に悟りを与えます。(130節)
 私は口を大きくあけて、あえぎました。
 あなたの仰せを愛したからです。(131節)

 ほんとうにすばらしいフレーズです。祈るとき、この詩篇を口に出して、瞑想しなさいと自分に言い聞かせてしまいます。だのに、ちょっと震えているのです。
「私のたましいはそれを守ります」と言い切れない自分がいるからです。

 国を失い、捕囚に連れ去られて労苦しているイスラエルの民と、自分では苦しみの深さが違うのでしょう。是が非でも、主のさとしをいただきたいという、切望感に達するためには、一日中でもみことばの戸の前で、待ち続けなければならないのでしょう。やがて、戸が開き光が差し込むと、私のようなわきまえのないものにも悟りが与えられるのです。この「悟り」は、新共同訳では「理解」と訳されています。英語(TEV訳)では、wisdom(知恵)です。どうか、私にも知恵が与えられますように、と心から願う箇所です。

 御名を愛する者たちのために
 あなたが決めておられるように、私に御顔を向け、
 私をあわれんでください。(132節)
 あなたのみことばによって、私の歩みを確かにし、
 どんな罪にも私を支配させないでください。(133節)

  さいわい、私は断言できます。私は「御名を愛する者です」。ですから、「私をあわれんで下さい」。

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 私を人のしいたげから贖い出し、
 私があなたの戒めを守れるようにしてください。(134節)
 御顔をあなたのしもべの上に照り輝かし、
 あなたのおきてを教えてください。(135節)
 私の目から涙が川のように流れます。
 彼らがあなたのみおしえを守らないからです。(136節)

 ここで歌われている「しいたげ」とは、どのようなものなのでしょうか。同じく、新共同訳では、136節の「みおしえ」は、「律法」と訳されています。ですから、ここでの抑圧者は同信のイスラエル人です。同じ信仰をもつ人間の中で、神から離れていく人がいるのは、政治的領土と国家を失い、神の支配だけが拠り所となっている、イスラエルの民にとって、たしかに涙が川のように流れることだったのでしょう。

 神のことばは、「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」と言われるほどのちからがあるのに、その教えに顔を背ける人に詩人は「涙しかない」状態なのです。






posted by さとうまさこ at 10:59| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月10日

Coffee Break詩篇・210 私の熱心は私を滅ぼし尽くしてしまいました。(詩篇119篇137節〜144節)



 主よ。あなたは正しくあられます。
 あなたのさばきはまっすぐです。(詩篇119篇137節)
 あなたの仰せられるさとしは、なんと正しく、
 なんと真実なことでしょう。(138節)

 詩篇は、日本人には大変愛されている文書だということですが、その激しい熱情に、時折たじたじとさせられることがないでしょうか。

 私の熱心は私を滅ぼし尽くしてしまいました。
 私の敵があなたのことばを忘れているからです。(139節)

 ここでの「熱心」は、新共同訳では「熱情」、英語訳は「anger」(怒り)となっています。みことばをないがしろにする者たちへの怒りで、自分が焼け滅されるほどだなんて、穏やかではありません。
 たしかに、気持ちはわかるけれど、神への熱心は、そもそも神の愛に感謝するところから始まっているのです。滅びるのは神様の御心ではないでしょうと、あえて、屁理屈を言ったりしてしまいます。
 もちろん、これは逆説的強調でしょう。確かに、みことば(聖書)を読めば読むほど、よくできているので、深い真実があるので、つい、熱心になってしまいます。

 あなたのみことばは、よく練られていて、
 あなたのしもべは、それを愛しています。(140節)

★★★★★

 私はつまらない者で、さげすまれています。
 しかし、あなたの戒めを忘れてはいません。(141節)

 ここは、この詩人の能力や立場のために「さげすまれている」のを意味しないと思います。むしろ、この人は教養のあるりっぱなレビ人だった可能性が高いでしょう。あるいは、ダビデの直系の王家の末裔だったかもしれません。けれども、国を失い、流浪の身では、たしかにさげすまれるのです。
 そのような屈辱、苦難を覚えるたびに、彼は主の戒めを思い、主に立ち返る人だったのです。

 あなたの義は、永遠の義、
 あなたのみおしえは、まことです。(142節)
 苦難と窮乏とが私に襲いかかっています。
 しかしあなたの仰せは、私の喜びです。(143節)
 あなたのさとしは、とこしえに義です。
 私に悟りを与えて、私を生かしてください。(144節)

 「主に対して真実な人が、何故苦難に遭うのですか」というような問は間違っています。
 むしろ、主が真実な方であるので、苦難と窮乏の底にいてさえ、そのことばに励まされ、正しく歩める「神の民」の恵みを思うべきなのでしょう。
 彼が苦難にあるその境涯は、人の世(悪魔)からもたらされたもの、一方、そのように悪魔にいたぶられるときに、そこから抜け出させ、生かして下さるのは、神さまだと詩人はわかっています。

 それにしても、正義感の怒りであっても、身を滅ぼしては神様が悲しまれるのにと、さとうはまた、余計な突っ込みを入れそうになります。(お許しを!)

 パウロも言っていますよ!(と、援用させて下さい)

 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。(エペソ人への手紙4章26節) 








posted by さとうまさこ at 10:24| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする