2015年11月11日

Coffee Break詩篇・211 あなたの恵みによって私の声を聞いてください。(詩篇119篇145節〜152篇)



 信仰をもち始めたころは、なんとか「言葉で」理解しようとしていたと思います。神様が自分に関わって下さっていて、自分の人生を変えようとして下さっているその事実を、何とか「説明しよう」「自分にも、人にもわかる言葉でとらえ直しておきたい」。
 聖書を精読して行けば、神様の神秘がよくわかり、(もし、自分でも)聖書に通じることができれば、きっとより神様に近づき、わからない多くの神秘に答えを見出し、信仰を深めていけるに違いない。
 
 分厚い聖書を目の前に、ただ、手をこまねいていては仕方がないので、ためらいがちにみことばの壁を打ち始めました。
 Coffee Breakを書きはじめた最初、自分に課したルールは二つだけでした。
 @原則、どんなことがあっても毎日聖書を読み、文章にまとめ、ブログに投稿すること。
 Aわからないことは、わかっている方々(牧師、信仰仲間、注解書や先達の方々の著書)に訊ね,あるいは、そのままわからないと認め,ともかく、みことばを十分味わって咀嚼して「楽しむ」

 通読のためのスケジュールなど定められるとは思えませんでした。精読に先立つ何年か前に、一応、聖書通読と言われる行為をしたことがあります。ですが、「若い」信徒であり、同時に「六十の手習い」の私には、読み終わって残っていることがあまりにも少なかったのです。また、教会からは「聖書通読表」なる物が配られていました。毎日、旧約を3章分、新約を1章分ずつ読んだら一年で完読できるというスケジュール表です。

 どうしても、着実に、ごまかしなしに、聖書の密林を歩いてみる必要を感じました。大変かもしれないけれど、入ってみたい密林。真っ暗闇で足を取られ、沼地に沈んでしまうかもしれないけれど・・・と、元文学少女らしく神の世界を勝手に「恐れて」、ドキドキしながら、聖書エッセイを始めました。
 基本的にはこの最初の日の気持ちは、今も変わっていません。光であられる神様は、けっして私を暗やみに沈めることはなさいませんでしたが、でも、一歩先は手探りで、またすり足で、薄氷を踏んでいる「こわさ」は変わりません。

★★★★★

 詩編は、私の聖書に向かう態度を問いかけて来ます。同時に、新しい希望も提示してくれます。

 私は心を尽くして呼びました。
 主よ。私に答えてください。
 私はあなたのおきてを守ります。(詩篇119篇145節)
 私はあなたを呼びました。私をお救いください。
 私はあなたのさとしを守ります。(146節)
 私は夜明け前に起きて叫び求めます。
 私はあなたのことばを待ち望んでいます。(147節)

 私は「心を尽くして主を呼んでいる」だろうかと、改めて問い返す箇所です。あなたのおきてやさとしを、守ります。と心の底から申し上げているだろうか。
 私が主に求めていることは、
「私に答えて下さい。」
「私をお救い下さい。」
「あなたのことばを待ちのぞんでいます。」
 私は、「主にささげる人」ではなくて、「主から受けたい人」なんだと改めて気が付くのです。

 私の目は夜明けの見張りよりも先に目覚め、
 みことばに思いを潜めます。(148節)

 じっさいには、夜更かしの方が多くて、夜明けの見張りより先に目覚めて祈っているとは言い難いのです。
 けれどもつぎの言葉に、私は歓んでしまいます。

 あなたの恵みによって私の声を聞いてください。
 主よ。あなたの決めておられるように、
 私を生かしてください。(149節)

 私たちは、私たちの熱心の度合いによってではなく、「主の恵みによって」、声を聞いていただける! 主が決めておられるように、それぞれを生かして下さる。

 詩人は、主の恵みを確信していて、断言しています。

 しかし、主よ。あなたは私に近くおられます。
 あなたの仰せはことごとくまことです。(151節)
 私は昔から、あなたのあかしで知っています。
 あなたはとこしえからこれを
 定めておられることを。(152節)

 アーメンですね。







posted by さとうまさこ at 10:15| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月12日

Coffee Break詩篇・212 みことばにしたがって、私を生かしてください。(詩篇119篇153節〜160節)



 教会では、クリスマスの準備が始まっています。私は、聖書劇の奉仕に関わっていますので、降誕劇の台本作りをし、稽古に立ち会ったりしています。
 聖書劇の場合、台本を書いても、それは「自分の作品」だとは言えません。物語はすべて、聖書にあるからです。作者は神様なのです。私たちは、聖書の中のさまざまなドラマを、どのように拾い上げ、ある意味では食べやすく美しく、器に盛るかの工夫くらいでしょうか。それにしても、それゆえに、みことばの深みに足を踏み入れることができるのは、本当に感謝です。
 
 ★★★★★

 キリスト降誕の物語は、クリスチャンならだれでも知っています。クリスチャンでない人の間でも、「処女マリヤが聖霊によって身籠った」話は知られています。
 マリヤの従姉妹のエリザベツが同時期に洗礼者ヨハネを懐妊するエピソードとともに、キリスト懐妊のいきさつが書かれたルカの福音書は、救い主到来の神秘を深く認識させるものです。
 私達人類にとって最上の日(クリスマス)の記録は単純に見えて、神様のメッセージが、そこからあふれ出てくる箇所ではないでしょうか。私たちをお造りになった父なる神が、罪に堕ちて御許から離れてしまった人間をふたたび連れ帰るために、御子(神ご自身)を犠牲にされるのです。これゆえ、私たちは神の愛を「知る」のです。

 神が私たちを御国に連れ帰って下さるという約束の実現を目の当たりにし、私たちは、神を賛美し、キリスト者として生きることになったと、思うのです。

★★★★★


 私の悩みを顧み、
 私を助け出してください。
 私はあなたのみおしえを忘れません。(詩篇119篇153節)
 私の言い分を取り上げ、私を贖ってください。
 みことばにしたがって、私を生かしてください。(154節)
 救いは悪者から遠くかけ離れています。
 彼らがあなたのおきてを求めないからです。(155節)
 あなたのあわれみは大きい。
 主よ。あなたが決めておられるように、
 私を生かしてください。(156節)
 私を迫害する者と私の敵は多い。
 しかし私は、あなたのさとしから離れません。(157節)
 私は裏切る者どもを見て、
 彼らを忌みきらいました。
 彼らがあなたのみことばを守らないからです。(158節)
 ご覧ください。
 どんなに私があなたの戒めを愛しているかを。
 主よ。あなたの恵みによって、
 私を生かしてください。(159節)
 みことばのすべてはまことです。
 あなたの義のさばきはことごとく、
 とこしえに至ります。(160節)

 詩篇119篇153節〜160節の間に、「生かして下さい」ということばが、三度繰り返されています。149節にも「生かして下さい」が出てきます。
 これは、もちろん、狭い意味では、「捕囚後の困難な時代のイスラエルの民が、多くの敵に囲まれている状況」と見るべきでしょう。今、目前に命の危険が迫っているとか、乗り越えられない困難があるので、神に「生かして下さい」と申し上げているのです。

 しかし、英語(NAS訳)ではRevive(復活する)を使っています。
 聖書全体のメッセージは、罪に堕ちた人間の「神との関係の回復」です。これが、「本当のいのちの復活」であることを考えれば、この詩人が、願っていることはとても本質的で、預言的であると考えられるのです。






 

posted by さとうまさこ at 10:42| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月13日

Coffee Break詩篇・213 私の道はすべて、あなたの御前にある(詩篇119篇161節〜168節)



 君主らは、ゆえもなく私を迫害しています。
 しかし私の心は、あなたのことばを恐れています。(詩篇119篇161節)

 新改訳聖書が「君主ら」と訳していることばは、「地位ある人々」(共同訳)「もろもろの君」(口語訳)「この世の権力者」(リビング・バイブル)とも、訳されています。
 私たちは、この世を生きていますから、基本的にはだれでも「世俗の支配」に組み込まれています。そして、世俗の権力の命じることと、神のさとし(律法)とが相容れない場合、神のことばに従おうとするのです。そこに迫害が起ります。

 私は、大きな獲物を見つけた者のように、
 あなのみことばを喜びます。(162節)
 私は偽りを憎み、忌みきらい、
 あなたのみおしえを愛しています。(163節)

 世のルールと神のさとしが対立するのは、詩編の作者だけではなく、キリスト者の多くが体験することではないでしょうか。世を生きぬくためには、「偽り」を強制されることが多いのです。

 飲みたくない酒につきあい、心にもないお世辞を言い、拝みたくない神を礼拝し、ときには人を貶めてライバルを押しのけても、「結果を出すよう」強いられます。
神の御前に正しいことばかりを、しているわけにはいかないのです。

★★★★★

 先日、テレビで、スターリンを取り上げていまいした。共産主義国家ソビエト連邦で三十年間に亘り独裁者として君臨し、2千万人もの人たちを粛正で殺したと言われている独裁者です。若い日の彼は教会の神学校の優等生だったのですが、司祭に叙任する寸前に棄教したのです。その理由は、テレビの中でも分析されていましたが、いずれにしても、無神論に転向した彼は、革命遂行という目的と革命政府内での出世のために手段を選ばない人間になってしまったのです。
 番組では、コメンテーター三人のうち二人が、スターリンに神を放棄させた原因として、帝政ロシアに服従する神父や教会の事なかれ主義の態度であるというような捉え方でした。つまり、神は若いスターリンの疑問に対して答えることができず、彼を救うために「機能しなかった」というわけです。
 しかし、モデルの市川紗耶さんだけが、「神を信じていたら、死後のさばきを思うはずだから、そこまでひどい暴君にはなれなかったはずだ」とコメントしていて、思わず美しい彼女の顔を見直しました。

 たしかにそうなのです。真実神に従う人ならば、つぎの聖句のように行動するはずだからです。

 あなたの義のさばきのために、
 私は日に七度、あなたをほめたたえます。(164節)
 あなたのみおしえを愛する者には
 豊かな平和があり、つまずきがありません。(165節)
 私はあなたの救いを待ち望んでいます。主よ。
 私はあなたの仰せを行なっています。(166節)
 私のたましいはあなたのさとしを守っています。
 しかも、限りなくそれを愛しています。(167節)
 私はあなたの戒めと、さとしとを守っています。
 私の道はすべて、あなたの御前にあるからです。(168節)

 せっかく救われたのだから、私も,救いを待ちのぞんで、神の前に、みおしえとさとしを求め続けるものでありたいと、思わせられるのです。









posted by さとうまさこ at 09:48| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月14日

Coffee Break詩篇・214 私は、滅びる羊のように、迷い出ました。どうかあなたのしもべを捜し求めてください。(詩篇119篇169節〜176節)



 私の叫びが御前に近づきますように。主よ。
 みことばのとおりに、私に悟りを与えてください。(詩篇119篇169節)
 私の切なる願いが御前に届きますように。
 みことばのとおりに私を救い出してください。(170節)

 祈るとき、私が一番もどかしいのは、私の言葉が主に届いているだろうかと、まどうことです。もちろん、届いていると信じられるときもあるのです。けれども、思いはすぐに乱れます。どこかに、「自分など資格がない」「自分など、まだまだだめだ」。ぎゃくに、「救い出されるなら、もっとたくさんのお恵みを!」と、神に要求を釣り上げる甘えもあります。

 私のくちびるに
 賛美がわきあふれるようにしてください。
 あなたが私に
 みおきてを教えてくださるから。(171節)
 私の舌は
 あなたのみことばを歌うようにしてください。

 祈りの形が、ひどく激しい教会や集団があります。自分でも、声を上げて叫び、涙を流さなければいけなのではないかと、思うことがあります。
 もし、祈りや賛美が、体操競技のように外見やわざで判断されるとしたら、きっと「祈りのコンテスト」「祈りのオリンピック」ができるかもしれません。しかし、祈りに「型を持つ」宗教はあっても、祈りのコンテストがあるとは聞いたことがありません。
 まことしやかに、あるいはものものしく、衣装や雰囲気にも凝って神秘的に祈るのは、むしろ、あやしげな祈祷師や占い師や新興宗教のようです。
 
 ほんとうの神に向かって祈っている者は、外形を繕ってもすべてを見通される神には、通じないことを知っています。神と結び合わされるためには、神のことば――おきてやおしえをくちびるにのせて、神に求めるしかないようです。
 
★★★★★

 あなたの御手が
 私の助けとなりますように。
 私はあなたの戒めを選びました。(173節)
 私はあなたの救いを慕っています。主よ。
 あなたのみおしえは私の喜びです。(174節)

 祈りにお答えがあったかどうか、どうして知るのでしょう。救いの御手が、自分のために差し伸べられている感じ。それが慕わしく、ますます熱心にいましめや教えから喜びが湧き上がる気持ち。たましいがよみがえり、神を褒めたたえる思いが「沸騰してくる」状態。

 私のたましいが生き、
 あなたをほめたたえますように。
 そしてあなたのさばきが
 私の助けとなりますように。(175節)

 さとしや教えに思いを巡らせば、当然、神からのさばきの声も聴くことでしょう。
 けれども、心から神を信頼している者にとっては、さばきこそ「助けとなる」というのです。

 私は、滅びる羊のように、迷い出ました。
 どうかあなたのしもべを捜し求めてください。
 私はあなたの仰せを忘れません。(176節)

 私たちはすぐに、迷い出るものであると、聖書は書いています。同時に、神のことばを思い出し、立ち返るなら、神は探し求めて下さることも約束されています。(イザヤ書53章6節、マタイの福音書18章12節)

★★★★★

 詩篇中一番長い詩篇119篇は今日で終わりました。つたない文章をお読みくださってありがとうございました。
 なお、詩編がヘブル語のアルファベットにしたがって書かれた形式の整った技巧的な詩であることについては、筆者の能力を超えるので、多くを割愛しました。
 この点については、空知太栄光キリスト教会の銘形先生がていねいな注解を書いておられるので、下記のURLをクリックしてごらんください。

 空知太栄光キリスト教会銘形秀則牧師のサイト
「詩篇119篇の解説」

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E8%A9%A9%E7%AF%87119%E7%AF%87%E3%81%AE22%E3%81%AE%E7%9E%91%E6%83%B3








posted by さとうまさこ at 10:51| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月15日

Coffee Break詩篇・215 私は平和を・・、私が話すと、彼らは戦いを望むのだ。(詩篇120篇1節〜7節)



 苦しみのうちに、私が主に呼ばわると、
 主は私に答えられた。(詩篇120篇1節)
 主よ。私を偽りのくちびる、欺きの舌から、
 救い出してください。(2節)


 詩篇120篇から134篇までは、「都のぼりの歌」と表題がついています。イスラエルの民がエルサレムに上る喜びを歌った歌です。もともと、イスラエルには主がお決めになった7つの祭りがありました。その中の、過ぎ越しの祭り、7週の祭り、仮庵の祭りには、エルサレムに上って祈る習慣でした。
 この詩が生まれた捕囚期以降のイスラエルの民は、元々の自分たちの故郷から遠く離れて異郷に散らされている人も多かったのです。
 祭りの時に、エルサレムに上る感激は格別だったでしょう。

 1節2節の、神への呼びかけが、国を失った民の苦しみを神に訴えるものであるのは、至極当然でしょうか。本来自分の「いるべき場所」「いたい場所」と、「いなければならない場所」が異なることは、私たちの日常でさえよくあることですが、戦争や動乱などで否応なく本来の居住地から引き離された人の苦しみは格別と思われます。

★★★★★

 欺きの舌よ。
 おまえに何が与えられ、
 おまえに何が加えられるのか。(3節)
 勇士の鋭い矢、
 それに、えにしだの熱い炭火だ。(4節)
 
 他国で寄留民(難民)として暮らすのは、さまざまな不利があります。法的な差別はもちろん、嘘を付かれたり偽りの証言をされたりして、窮地に陥ることは日常茶飯事だったでしょう。結局、弱い側が泣き寝入りするしかない中では、訴えは、神にしかできません。
 この詩人は、自分が唇や舌を欺きに使って、自分を罪に定めた者たちへのさばきを願っています。

 ああ、哀れな私よ。
 メシェクに寄留し、ケダルの天幕で暮らすとは。(5節)
 私は、久しく、平和を憎む者とともに住んでいた。(6節)
 私は平和を・・、私が話すと、
 彼らは戦いを望むのだ。(7節)

 メシュクもケダルもアラビヤ人の土地です。異教の神を信じる者たちの土地です。異教の神の中では、ユダヤ人たちの平和(神とのきずな)が乱されるのは当然です。
 これは、本質的には、宗教的差別の苦しみを暗示しているのかもしれません。





 

posted by さとうまさこ at 08:52| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする