2015年11月16日

Coffee Break詩篇・216 私は山に向かって目を上げる。私の救いはどこからくるのだろうか。(詩篇121篇1節〜8節)



 私が、時折残念に思うのは、教会に来ていて「おびえている」人がいることです。せっかく救われたのに、「開放」ではなく「規制」を感じるらしいのです。病院や温泉場に来たのではなく、偏差値と素行の水準と高い規律で評判の学校にでも入った気分なのかもしれません。

 自分の高校時代を思い出します。「一応の水準」と評判の学校に入学した喜びも束の間、そこは、「あるべきモデル」のために訓練され、常に監視されているような気分になる場所でした。勉学はもちろん、服装や校則遵守、態度物腰にまで、「あるべき姿があって、成文化された規律はもちろん、軍国主義下で教育を受けた先生たちの抱く何となくの「良き学生像」までが、亡霊のように学校の隅々までを監視しているようでした。
 もちろん、多くの生徒は、たくましく学校生活と私生活を使い分け、遊びや、楽しい行事や友達づきあいなどに心の配分をやりくりして、何とか卒業にこぎつけるのですから、「抑圧」があったなどと言うのは、当たらないと思います。事実、建前は民主主義社会の建設で、どこにも、「滅私奉公」「忠君愛国」などといったスローガンは見当たらなかったのです。

 問題は、そのような雰囲気の中で、多くの生徒は脅えていたということです。いつも、「足りないのではないか」「先生が求める基準に届かないのではないか」「自分はダメ人間なのではないか」との、問いかけが迫って来るのです。今の時代とは違いますから、「個性を伸ばそう」「わずかでもよいところを見つけてほめてあげよう」などと言う視点はありません。「個性を伸ばしたい人は、ほか(の学校)へ行けばよいのです」「長所は長所ですが、学生の本分は忘れないように」。
 もちろん、先生のお気に入りになる人もいるし、先生の求める基準に届くのは悪いことではなかったと今でも思います。
 ただ、同窓の友人と話すと、多くの人が、「きつかった」「あの先生はひどかった」「びくびくしていた」などと言うのですから、あながち劣等生の私の感想ではないでしょう。
 
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 なぜ、あの時代のことが思い出されたのでしょう。せっかく救われたのに、幾人かの人は、「自分は、神様(キリスト教)の要求する(高い)基準に届かないのではないか」との思い込みがあると気が付くからです。

 ちいさな祈り会で、昨日もおずおずと切り出した方がいました。
「皆さんの家には仏壇がありますか」
「あるわよ。主人はクリスチャンじゃないし。長男だし。だから、仏壇のお水を変えたり、お掃除をしたり、法事なんかも手伝いますよ。それをしなかったら、クリスチャンはだめと言われるでしょう」と、しっかり答えたのは教会生活が長い信徒。「うちにもあるわ。だって、親を粗末には出来ないでしょう」という方。
 「私、●●先生に聞いたら、仏壇は捨てて、位牌は持っていていいと言われたから、家にあるんです。でも、ある(クリスチャンの)友達に聞いたら、それも、いけないと言われたんです」
「お葬式の時、手を合わせて拝んでもいけないと言われた」
「御遺体に頭を下げてもいけないと言われた。」
 いろいろ言い出す人がいて、それがすべて、先生の顔色を見てお伺いを立てている、かつての自分たちの姿に重なったのです。
 
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 聖書は、神は、私たちを助け、守って下さる方だと、至る所に記しています。

 私は山に向かって目を上げる。
 私の助けは、どこから来るのだろうか。(詩篇121篇1節)
 私の助けは、天地を造られた主から来る。(2節)

 主はあなたの足をよろけさせず、
 あなたを守る方は、まどろむこともない。(3節)
 見よ。イスラエルを守る方は、
 まどろむこともなく、眠ることもない。(4節)

 主は、あなたを守る方。
 主は、あなたの右の手をおおう陰。(5節)

 だから、もし、私たちがクリスチャンになって、何となく「痛い」とか、「打たれた」と思うなら、それは何よりもその人の「神様イメージ」が間違っていると思います。

 昼も、日が、あなたを打つことがなく、
 夜も、月が、あなたを打つことはない。(6節)

 位牌があることを心配している姉妹は、大きな病気から生還した人で、その病気の再発を恐れている中にあるのです。ですから、もし、神様の仰せに叛いたら、再発するのではないかと脅えているのです。
 それをまた、少し先輩のクリスチャンが、「あれはいけない。これはいけない」と律法学者さながら教えるのは、せっかくの救いを台なしにするものではないでしょうか。
 
 この詩編、121篇は、だから、100回でも読むに値すると思います。

 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、
 あなたのいのちを守られる。(7節)
 主は、あなたを、行くにも帰るにも、
 今よりとこしえまでも守られる。(8節)









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2015年11月17日

Coffee Break詩篇・217 エルサレムを思う。迫害する者のために祈る(詩篇122篇1節〜9節)



 都上りの歌。ダビデによる

 人々が私に、
 「さあ、主の家に行こう。」と言ったとき、
 私は喜んだ。(詩篇122篇1節)
 エルサレムよ。
 私たちの足は、おまえの門のうちに立っている。(2節)
 エルサレム、それは、
 よくまとめられた町として建てられている。(3節)
 そこに、多くの部族、主の部族が、上って来る。
 イスラエルのあかしとして、
 主の御名に感謝するために。(4節)
 そこには、さばきの座、
 ダビデの家の王座があったからだ。(5節)

 エルサレムとは、「神(エル)の平和(サレーム)」という意味です。ダビデがエブス人のシオンの要害を勝ち取って建設した都でした。(Uサムエル記5章6節〜9節)

 サウル王との十年に及ぶ戦いを終えても、ダビデにはまだ、やらなければならない仕事がたくさんありました。イスラエルの領土を狙っているペリシテ人モアブ、アモン、ミディアン人などとの戦いを継続し、イスラエル王国を盤石なものとしなければなりいませんでした。イスラエルの民が神の御心に背いてまで、神政政治国家に王制を導入することを願ったのは、この四面楚歌の困難な状況を打開する「王」を望んだためでした。
 神も、民の要求に一理をお認めになったから、サウルを全イスラエルの王としてお立てになり、ダビデを後押しして王国を盤石なものにしてくださったのです。

 みずから勝ち取って建設したエルサレムに、ダビデは自分の王座と主の家を置いたのです。そこは同時に、イスラエルのあかしでもありました。「都上り」とは、全イスラエルの民が、それぞれの居住地からエルサレムに巡礼することでした。
 
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 エルサレムの平和のために祈れ。
 「おまえを愛する人々が栄えるように。(6節)
 おまえの城壁のうちには、平和があるように。
 おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」(7節)

 捕囚時代のイスラエル人やユダヤ人がエルサレムに上って来ることは、大いに意味があることだったでしょう。たとえ、離散していても、たとえ、国は崩壊していても、そこはユダ王国の始まりの場所であり、神の家があった場所なのです。
 たとえ、からだは異郷にあっても、たとえ、支配する王は異教の王であっても、エルサレムを抱いているかぎり、イスラエル人のアイデンティティは失われることはないのです。

 私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう。
 「おまえのうちに平和があるように。」(8節)
 私たちの神、主の家のために、
 私は、おまえの繁栄を求めよう。(9節)

 これはダビデの言葉であると同時に、神のことばでもあると思います。

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 今日、エルサレムはイスラム教徒にとっても聖地になっています。イスラム教徒もまた、エルサレムを「エルサレム」と呼んでいるのでしょうか。
 もしそうなら、彼ら(の一部であっても)が、キリスト教徒を標的にテロを行なっているのを、神はどのようにご覧になっているのでしょう。

 「神の平和」!!を、今こそ、実践しなければいけないときではないでしょうか。

 「目には目で、歯には歯で」と言われたのをあなたがたは聞いています。(マタイの福音書5章38節)
 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(39節)

 「自分の隣人(となりびと)を愛し、自分の敵を憎め」と言われたのを、あなたがたは聞いています。(43節)
 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(44節)

 私たちキリスト者は、テロの犠牲者のためだけではなく、テロリストのためにも、祈ろうではありませんか。






posted by さとうまさこ at 09:29| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月18日

Coffee Break詩篇・218 あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。(詩篇123篇1節〜4節)



 あなたに向かって、私は目を上げます。
 天の御座に着いておられる方よ。(詩篇123篇1節)
 ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、
 女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、
 私たちの目は私たちの神、主に向けられています。
 主が私たちをあわれまれるまで。(2節)

 自分にとって一番難しいことは、やっぱり、四六時中神様を見あげ続けていることかなあと、今朝も目覚めと同時に思い至ったのです。自分の人生に、自分で課した課題があり、そのためには、神を見上げつづけなければならないのです。
 私はいま、神様に喜んでいただけるかもしれないものを作ろうとしているのです。でも、本当にそうなのかどうか、どうすれば喜んでいただけるのかは、いつも神を見あげて問い続けていなくてはなりません。

 奴隷が女主人の手の動きを見て、その意向を察知するように、私たちは神を見あげていなければいけないと、詩人は歌っています。
 「いつまで?」
 「神が私たちにあわれみをかけて下さるまで」です。
 神のあわれみとは、罪に堕ちたの人間を「かわいそうに思って下さる」神の愛の現れです。楽園から追放されるときに、アダムとエバに皮衣を着せて下さったのは、神の「愛」、神のあわれみでした。(創世記3章21節)人の中に悪が広がり、滅ぼしてしまおうとお考えになったのに、ノアとその一課に目を止めて箱舟に避難させ、人類を存続させようとされたのも「あわれみ」でした。(創世記6章7節8節、7章1節〜)

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 私たちをあわれんでください。主よ。
 私たちをあわれんでください。
 私たちはさげすみで、もういっぱいです。(3節)

 それにしても、さげすんでくる人に対して、何故、神様に「(彼を)あわれんでください」とお願いしているのでしょう。「復讐して下さい」でもよいではないかと、不遜にも私など思ってしまうのです。
 人をあざけったり、さげすんだりするのは、平等が前提の現代社会では、人間として最悪の態度です。「いじめ」というのは、誰かの「あざけりとさげすみ」の標的になったことと言い換えることができそうです。復讐ができるなら、復讐するのが人間の罪の性質です。今、世界的な政治問題、社会問題である「テロ」は、いわば復讐の連鎖の中で起こっています。

 たとえば、テロの尖兵になっている人たちは、決して豊かではなく、高ぶるだけの地位や富もありません。いろいろな面で、西欧先進国の中で「あざけりやさげすみ」を感じるのでしょう。
 神は、彼らをあわれんでおられるでしょうが、もし、彼らが神を見上げなければ、そのみ心に気が付かない可能性が大きいでしょう。その結果、自分の手で、爆弾や銃を使って、直接には、何の恨みもない人たちを殺すことになるのではないでしょうか。

 私たちのたましいは、
 安逸をむさぼる者たちのあざけりと、
 高ぶる者たちのさげすみとで、もういっぱいです。(4節)

 人のあざけりやさげすみは、じつは至る所にあると思います。人間は罪びとですから、たんに富をむさぼるだけではなく、人を踏みにじるような「あざけりやさげすみ」をも、むさぼりやすいのです。そのような中に置かれたら、神を信じる者は「神のあわれみ」を乞うしかありませんね。捕囚の民だったユダヤ人のぎりぎりの祈りを思い、胸が痛みます。





 

posted by さとうまさこ at 09:53| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月19日

Coffee Break詩篇・219 私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。(詩篇124篇1節〜8節)



 都上りの歌。ダビデによる

 「もしも主が私たちの味方でなかったなら。」
 さあ、イスラエルは言え。(詩篇124篇1節)

 「もしも主が私たちの味方でなかったなら、
 人々が私に逆らって立ち上がったとき、(2節)
 そのとき、彼らは私たちを生きたまま
 のみこんだであろう。
 彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき、(3節)
 そのとき、大水は私たちを押し流し、
 流れは私たちを越えて行ったであろう。(4節)
 そのとき、荒れ狂う水は
 私たちを越えて行ったであろう。」(5節)

 イスラエル民族の成り立ちを考えれば、このような賛美はもっともだと深くうなずく詩だと思います。
 聖書に見る限り、「主が自分たちの味方でなかったら」と、自分たちを「神の子」であると一番に言えるのが、イスラエル民族です。選びの民イスラエルは、そもそも種から選ばれ、育成された小麦でした。アブラハムを召し出したとき、神のお約束の言葉にもかかわらず、アブラハムは自分が、「神の救いのご計画に用いられる選びの民」であることなど、どれほどわかっていたでしょう。自分だけが自分の正当な子孫だけが、神に選ばれていることがわかっていたら、もとより、ハガルに子どもを産ませることはなかったかもしれません。しかし、アブラハムは自分の使命を少しずつ理解して行ったのだと思います。だから、イサクを得た後、イシュマイルとハガルを追い出し、サラの死後に再婚したケトラとの間の子どもたちを、財産分けした後、遠くへ住まわせたのです。

 神はイサクの双子の息子から、ヤコブを選び、さらに、ヤコブに、さまざまな試練の中で十二人の息子を与えました。このプロセスを見ると、たまたまアブラハムの血が流れていることと、神が「選ぶ」基準は明らかに異なっています。

 ともあれ、「神の救いのご計画」の中で、イスラエルが最初に選ばれた人たちであったのは否定できません。このイスラエルを滅ぼしては、ご計画は破綻してしまうのです。もとより、神様はそのようなことをされないのです。

 苦難の中のダビデの勝利も、「神の御思い」の中で成し遂げられていると見なければ、過つと思います。ダビデが有能な勇士で、詩人であったとか、愛にあふれた父親であったとか、(たぶん)眉目秀麗なイケメンであったか、なによりも信仰の人であったとかは、すべて、大切ですが、彼が勝利し続け、天寿をまっとうし、栄光の王ソロモンにバトンを渡すことができたのは、ダビデが神の御計画の内にあったからです。

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 実際、イスラエルは、神に選ばれたばかりに大変な困難を経験し続けているようにも見えます。出エジプトのときから、イスラエル王国の崩壊、捕囚期、捕囚から帰還して神殿を再建したあと・・・。しかし、長い間、政治的な独立国家としては存在を許されませんでした。二十世紀になってやっとイスラエル共和国を作ることができたのです。
 これもまた、不思議なのですが、捕囚期の民がこの讃美を歌っていた時、彼らの困難がその後、二千五百年間も続くと思っていたでしょうか。

 いえ、紀元前後には、彼らが待望していた救い主がお出でになっている事実もわからなかったことでしょう。
 まして、彼らの賛美が、クリスチャンという次なる「神の民」の口に上っていることなど、知る由もなかったでしょう。正確には、「全世界の民――天地を造られた主のみ名」を知った民――イエス・キリストによって救われた人々によって歌われるというべきでしょう。

 ほむべきかな。主。
 主は私たちを彼らの歯のえじきにされなかった。(6節)
 私たちは仕掛けられたわなから
 鳥のように助け出された。
 わなは破られ、私たちは助け出された。(7節)
 私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。(8節)
 
  ほんとうに、神のなさることは奇しいとしか、言いようがありません。





posted by さとうまさこ at 10:08| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月20日

Coffee Break詩篇・220 主に信頼する人々はシオンの山のようだ(詩篇125篇1節〜5節)



 主に信頼する人々はシオンの山のようだ。
 ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。(詩篇125篇1節)


 クリスチャンは主に信頼する者です。イエス・キリストを信頼し、固く結びついているかぎり「ゆるぐことなく、とこしえに長らえる」のは、すでに保証されています。
 旧約の民には、今の私たちのような明確な「永遠のいのち」の概念はなかったようですが、神がとこしえの世界までをも支配しておられ、自分たちのいのちも神とともにありさえすれば、とこしえまでも長らえると期待していたのだろうと、推測できます。

 山々がエルサレムを取り囲むように、
 主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。(2節)
 悪の杖が正しい者の地所の上にとどまることなく、
 正しい者が不正なことに、
 手を伸ばさないためである。(3節)

 私が聖書の神について学び始めたころ、一番新鮮だったのは、神が「遍在している方」ということでした。神は、どこか空の一点、水の中のどこか、木や花の中、あるいは十字架の中にだけに存在しておられるのではない、ありとあらゆる場所に、私のこの部屋から、もっと言えば私の体の中からすべての人や物の中を貫いて、外の世界、地球上だけでなく、宇宙空間のすべて、まだ、人が見たこともない、観測することも不可能な宇宙の果てまでも、神はおられるというのです。これは、本当に衝撃的な「事実」でした。

 この事実を旧約時代のイスラエルの人たちは、エルサレムとその周辺の地理に置き換えています。事実、エルサレムは、山間部にあり、ほぼ標高700メートルほどです。(図鑑・バイブルワールド・いのちのことば社) 日本のように高い山々ばかりの国土からみれば、700メートルは決して高くないのですが、カナンは全体として見れば砂漠や野と言われる平地なのです。エルサレムは、地中海から死海までの緯度に沿った断面図(同図鑑)で見ても、ほぼ頂上にあるのです。まわりは山々に取り囲まれています。

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 山々に囲まれた聖地に上りながら、人びとは願ったことでしょう。主の保護と守りが、同様に自分たちの上にもあるように。

 主よ。善良な人々や心の直ぐな人々に、
 いつくしみを施してください。(4節)
 しかし、主は、曲がった道にそれる者どもを
 不法を行なう者どもとともに、連れ去られよう。
 イスラエルの上に平和があるように。(5節)

 イスラエルが経験したあまりに過酷な歴史を振り返りながら、詩人はエルサレムをめざしていたに違いありません。
 神の臨在を近くに思えば思うほど、あらためて、主の前に願いごとを差し出したでしょう。善良な者たちへいつくしみを。悪人たちには罰を(遠くへ連れ去って下さることを)。
 そうすれば、イスラエルに平和が戻って来るに違いないからです。






posted by さとうまさこ at 09:08| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする