2015年11月21日

Coffee Break詩篇・221 涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。(詩篇126篇1節〜6節)



 都のぼりの歌の中でも、具体的に情景が見える詩です。捕囚から開放されて帰還したことが歌われているのです。

 主がシオンの捕われ人を帰されたとき、
 私たちは夢を見ている者のようであった。(詩篇126篇1節)
 そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、
 私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。
 そのとき、国々の間で、人々は言った。
 「主は彼らのために大いなることをなされた。」(2節)

 たとえば、どこかに拉致されて閉じこめられていたとか、テロ集団に捕虜として連れ去られた人が、とつぜん解放されて故国や自分の家庭に帰ってきたら、こんな気分かもしれません。しかも、それが莫大な身代金や政治的取引の結果ではなくて、例えば、ユダヤ教を捨てなさいと言われることもなくて、開放されるのです。バビロンを滅ぼしたクロス大王は、彼の統治政策として他の宗教に寛大だったと言われていますが、その結果、捕囚の民は帰還命令を受け取り、ついでに神殿建設の費用や材料などの「手当」までもらって帰国できたのです。
 帰還する民の笑顔と喜びが見えるような場面です。
 注目すべきは、彼らはそれを、「クロス王」ではなく、「主」の御業であると口々に神を褒めたたえていることです。

 主は私たちのために大いなることをなされ、
 私たちは喜んだ。(3節)

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 主よ。ネゲブの流れのように、
 私たちの捕われ人を帰らせてください。(4節)

 ネゲブは砂漠に等しいような乾いた土地です。砂漠地帯の川は普段はほとんど枯れ川です。逆に、ひとたび雨が降ると、しぜんの堤防になる大木も丘もなくて、広く怒涛のように水があふれるのです。そのような「洪水」は、乾燥地帯では災害ではなく、むしろいのちの迸りにも見えるものです。その水で土地が潤い,流れの後に多く動植物の命が息を吹き返すからです。
 このように歌われているということは、この詩人が帰還する時には、まだいっしょにエルサレムに上って来る同胞は、少なかったのかもしれません。

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 涙とともに種を蒔く者は、
 喜び叫びながら刈り取ろう。(5節)
 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、
 束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。(6節)

 ここも有名な聖句ですね。しかし、ちょっと注意する必要がある箇所かもしれません。
 この箇所は、伝道をするときによく使われてきたというのです。トラクトなどをもって労苦と共に種をまく者には、収穫が約束されている・・・。このような解釈を私も見たことがあります。

 同時に、これは、みことばを自分の「心という畑」に蒔くことだという解釈を目にするのです。バビロン捕囚のような試練の時こそ、みことばを自分の心に蒔くときである、む しろ、堕落したユダヤ人に神が望まれたことであると解釈するのです。
 そうして、艱難辛苦の捕囚時代に、民の心に律法の言葉が植え直されるのです。今、帰還している民は、その意味でその種から萌え出た束を抱えて帰ってきたというのです。
 
 自分は教会に繋がっている、毎日聖書を読んでいると思っていても、たしかに、いつ、バビロンに連れ去られるかもしれない弱さがあります。捕囚や人質は現代の先進国日本に暮す自分には、無関係だと思いたいのですが、言い切れません。
 心を引き締めて、みことばの種を心の中に蒔きつづけたいと、願うものです。







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2015年11月22日

Coffee Break詩篇・221 主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。(詩篇127篇1節〜5節)



都上りの歌。ソロモンによる

主が家を建てるのでなければ、
建てる者の働きはむなしい。
主が町を守るのでなければ、
守る者の見張りはむなしい。(詩篇127篇1節)
あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、
辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。
主はその愛する者には、眠っている間に、
このように備えてくださる。(2節)

 このみ言葉も有名な箇所です。また、読む人聞く人に「大きな神」を覚えさせることばです。神が全能で見えざる確かな力で、私たちを支えていて下さると思う時、私たちは、賛美と感謝で満たされるのだと思います。
 同様に、人間を謙遜にさせます。「どんな財力と能力と大きなプロジェクトチームを組んでも」、「神が建てるのでなければ」その家はむなしいのです。堅固な守りと思える城も砦も破られるでしょう。

エリコの城壁が何故崩れたのかの答えは、ここにあるのかもしれません。イスラエルの民がエリコ攻めに当たってしたことは、斥候を送り、宿の女主人ラハブから事前に情報を聞き取ったこと。神の命じられるままに、エリコの回りを毎日1周し、七日目には7周しただけです。すると、城壁がくずれ落ちたのです。(ヨシュア記6章)
 いったい何があったのか、聖書は多くを語っていません。城壁が古くなっていたとか、その前にじつは地震で地盤が緩んでいたとか、はじめから手抜き工事だったとか。
わかるのは、「人が知らない間に」城壁が崩れる状態になっていたことです。まさに、「人が眠っている間に」神がそのように備えて下さったのです。

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見よ。子どもたちは主の賜物、
胎の実は報酬である。(3節)
若い時の子らは
まさに勇士の手にある矢のようだ。(4節)
幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。
彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。(5節)

 ここでの、「子どもたち」は血縁の親子を意味すると同時に、神と人との関係でもあるように思えます。神の「救いのご計画」は、人間を通して行われ、人間の上に現れます。私たちの「ちりに帰る」命は、有限なのですから、神様にとっても、私たちにとっても、後に続いてくれる「子」は「報酬」「賜物」なのでしょう。
 考えてみると、子供も主が下さる物です。また主が背後のいて働いてくださらなければ、むなしいので。
麦がただ多く実れば祝福でしょうか。毒麦も混じっていると、聖書は語っています。ただ、それを抜くかどうかさえ、主の御心にお任せしなければいけないのです。

 空爆やテロとの報復合戦、無数の戦争の記録のなかで、それでも主は備え続けて下さったのでしょう。また、黙って祈り続けた人々がいたことを思うのです。
 ろうそくや花束を山のように積み上げるのも「祈りの形」かもしれませんが、いつも「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」と、思い返す必要こそ大切だと思うのです。





posted by さとうまさこ at 08:25| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月23日

Coffee Break詩篇・222 あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。(詩篇128篇1節〜6節)



 幸いなことよ。すべて主を恐れ、
 主の道を歩む者は。(詩篇128篇1節)

 「主を恐れ、主の道を歩む」のは、聖書の神が私たち人間に要求される基本的な態度だと思います。旧約では、「恐れる」は「信頼する。信じる」の意味だということですから、まさに、信仰の基本であり、そのように信仰の道を歩む者が幸いであるのは当然です。
 具体的に、どのように幸いなのでしょう。

 あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、
 幸福で、しあわせであろう。(2節)
 あなたの妻は、
 あなたの家の奥にいて、
 豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。
 あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、
 オリーブの木を囲む若木のようだ。(3節)

 これは今の時代から見ると、とても古典的な家庭像の「しあわせ」です。妻が家の奥にいて家族のために働き、母親からていねいに愛情をかけられた子どもたちが両親と同じ食卓を囲む。しあわせな家庭を維持している経済的保証は、目に見える「勤労の実」であり、一所懸命働いて、その結果としてパンや肉があり、ぶどう酒があるのです。
 このような素朴な経済システムのなかで,子供たちも素直に勤労の大切さを学ぶでしょうし、両親の「背中」に愛情を感じるでしょう。神様への確かな信仰も、そのような具体的な生活の中で体得して行くのに違いありません。

 今の時代の不幸は、父親や母親の勤労と日々の糧が、直接結び付きにくいことかもしれません。勤労はすべてお金に換算されるのが普通ですから、低賃金の仕事をしている人は、それだけで勤労の価値が落ちるのです。また、衣食住のすべてに亘って、お金で買うしかないので、「お金があれば何でもできる」となるわけです。
 お母さんの手作りの夕食や、お父さんが毎日顔に汗を流して働いている労働より、結果的にそれで何が買えるかとなると、労働や愛情への素朴な「尊敬」が損なわれるでしょう。

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 今日では、「自分の手の勤労の実」を正しく評価するのさえ難しくなっています。ふたつの仕事を掛け持ちしても「やっとの暮らし」の人もいれば、パソコンの前で株や債券を動かし、先物取引などで巨額の富を得ている人もいます。金融所得がすべて悪とは言えないと思いますが、「主を恐れる生き方」を子どもたちに見せ、教えるのは難しい時代なのは事実でしょう。

 しかし、古代イスラエル社会、とりわけ、捕囚を経験した「神の民」は、「しあわせ」が家族と共にあったと思い知らされる体験を、幾度もしたのではないでしょうか。捕囚となって初めて、自分の畑を耕すさいわい、自分の羊の世話をしてその肉を食べる幸いを思ったでしょう。親は子供を思い、子供は親を恋しがるような「家庭崩壊」も見たことでしょう。

 詩篇128篇にある素朴な光景の中に、私達現代人も、あらためて「神の祝福とは何か」を考えさせられているのではないでしょうか。







posted by さとうまさこ at 10:41| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月24日

Coffee Break詩篇・223 シオンを憎む者はみな、恥を受けて、退け。(詩篇129篇1節〜8節)



 都上りの歌

 「彼らは私の若いころからひどく私を苦しめた。」
 さあ、イスラエルは言え。(詩篇129篇1節)
 「彼らは私の若いころからひどく私を苦しめた。
 彼らは私に勝てなかった。(2節)
 耕す者は私の背に鋤をあて、長いあぜを作った。」(3節)
 主は、正しくあり、
 悪者の綱を断ち切られた。(4節)

 この詩は帰還イスラエル人たちの叫びだと納得できるのではないでしょうか。エルサレムに戻ってくる道すがら、彼らは、自分たちの過去の苦労――自分一代だけでなく、イスラエルの歴史に思いを馳せたでしょう。エジプトにいたときから、「選びの民」には奴隷労働と労苦がありました。
 カナンに入ってからも、苦しみはついてまわりました。もともと、カナンの異教徒を絶滅することができずに、カナンに入植しました。カナンの周辺には強い異邦人が取り巻いていて、時代を経るごとに新しい民族がイスラエルを攻めました。地中海からやってきたペリシテ人、北からやって来たアッシリヤに、ダビデも南北に分かれたイスラエルも手こずるのです。やがて、アッシリヤを滅ぼしたバビロンが勃興し、さらにペルシャ帝国が彼らを支配します。
 
 聖書を読んでいると、「神の選びの民」イスラエルは、その役割と責任の割にとても小さな弱い勢力だったことがわかるのです。

 「私の背に鋤を当てる」というのはどういう状態なのでしょう。註解書の説明をそのまま引用させていただきます。
 
 3節はシオンが畑にたとえられているのか、イスラエルの民が畑にたとえられているのか明確ではないが、たぶんイスラエルの民のことであろう。地が耕されるようにイスラエルの民は奴隷として背中にむちを受けて傷つけられた。(イザヤ51,23)(新実用聖書注解・いのちのことば社)

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 シオンを憎む者はみな、
 恥を受けて、退け。(5節)
 彼らは
 伸びないうちに枯れる屋根の草のようになれ。(6節)

 シオンを憎む者とは、捕囚帰還民が神殿を再建したり修復したりするのを妨害する者のことです。驚いたことに、イスラエル人の中にも、エズラやネヘミヤに敵対する者もいたのです。捕囚に連れ去られることもなく、現地人やペルシャ人と婚姻した人たちは、敵よりやっかいです。
 彼らの真意や謀略を見極めて、彼らの妨害を防がなければなりません。あるいは、その人たちから「痛い目」を見せられることもあるでしょう。
 そのとき、次のような叫びを上げるのではないでしょうか。

 刈り取る者は、そんなものを、つかみはしない。
 たばねる者も、かかえはしない。(7節)
 通りがかりの人も、
 「主の祝福があなたがたにあるように。
 主の名によってあなたがたを祝福します。」
 とは言わない。(8節)





 

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2015年11月25日

Coffee Break詩篇・224 主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。(詩篇129篇1節〜4節)



 私が初めて聖書の学びをしたとき、私が一番驚いたのは、神が「愛なる方」であると同時に、「聖なる方」であるという説明です。神は天地万物をお造りになり、すべてを地上に備えられたうえで、最後にそこに人をお造りになったというのです。人を造られた理由は、「神の愛のご性質」の現れでした。神は、ご自分と語り合えるものとして、人間を「神のかたちに造られた」のです。実際、エデンの園での神と人との平和な光景は私たちをなごませるものです。この愛と平和の世界にサタンが割り込んでこなければ、それは永遠に続いたはずだったようです。

 それが、ある日、人は蛇にそそのかされて、神の言いつけに叛き罪を犯してしまいました。こんな誰もがご存知のことを長々と書くのをお許しください。なにしろ、初心の信仰者だった私は、神様がお怒りになり、アダムとエバを楽園から追放されるその突然の事態が,じつは長い間「飲みこめなかった」のです。
 しかし、神のこの素早い反応こそ、神の「聖なるご性質」に関わることだったとわかったときは、ショックと感慨がありました。

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 罪の性質が、「原罪」と呼ばれて、遺伝子のように受け継がれていくとする考え方は、少し観念的過ぎるかなとも思うのです。もし、そうだとしたら、罪の性質は、罪を犯す前から人の中に「組み込まれていた」気がします。神に似せて作られた人間は、「神にそっくり」に造られたのではないはずです。なにしろ、創造主である神に対して、人は「被造物」ですから、最初から格が違います。
 申し分のない環境と条件の中では罪を犯さなかったけれど、ちょっと「神さまが目を離された時、ちょっとしたスキに悪魔が働きかけるような弱点」があったのです。そのような人間が、神の保護と完全な環境から出された時、悪魔に「いいように」いたぶられたのは当然ですね。

 増え広がった人は、直ぐに罪に罪を重ねるようになったことが聖書に記されています。
 じつに、洪水の前夜には、正しい人はノアとその家族しかいなかったのです。
 ところが、そのノアでさえぶどう酒で酔っ払い、その息子は父親の「失敗の姿」を見てあざ笑い、他の兄弟に告げ口するのです。まさに、悪魔――「告発する者」のすがたです。

 こうした、私たちの罪の来歴を読むとき、私はつぎの詩篇に深くうなずかされます。

 主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。(詩篇130篇1節)
 主よ。私の声を聞いてください。
 私の願いの声に耳を傾けてください。(2節)
 主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、
 主よ、だれが御前に立ちえましょう。(3節)

 本当に自分もこの詩人のように、「主の前に立ち得ない」と思うのですが、同時に、つぎのように書かれています。

 しかし、あなたが赦してくださるからこそ
 あなたは人に恐れられます。(4節)








posted by さとうまさこ at 11:49| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする