2015年11月07日

Coffee Break詩篇・207 二心のある者どもを訴える――隠れ場での祈り(詩篇119篇113節〜120節)



 私は二心の者どもを憎みます。
 しかし、あなたのみおしえを愛します。(詩篇119篇113節)

 この二心は、もちろん、神様に対する二心でしょう。「います。います。教会にも二心のある人!」とちょっと指差しそうになったとたん、それが、自分にも向けられているのに気が付かないわけにはいきません。「人差し指をだれかに向けたら、中指、薬指、小指は自分に向けられている」と教えてくれたのは、なんと、五歳の子どもでした。
 神にたいして二心がないと言い切るのは、自分だけでは難しいのです。と言って、他人が証明できることでもありません。だいたい、人から褒められたら、その瞬間に「要注意!」です。神は人が見るようには見ない方です(Tサムエル記16章7節)。人から「まあ、敬虔な神のしもべ、りっぱなクリスチャンね」などと評判を立てられても、神は「わたしは人が見るようには見ない」と仰せになるのです。

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 あなたは私の隠れ場、私の盾。
 私は、あなたのみことばを待ち望みます。(114節)

 隠れ場という言葉は、詩篇では10回、旧約全体では35回登場しているそうです。(※)私たち現代のクリスチャンたちは、教会の交わりの中で祈り、広く社会の交わりの中でイエス様のみことばの実践「たがいに愛し合いなさい」「宣教しなさい」などを行なおうとするのです。祈りでさえ「二人でも三人でも心を合わせて祈るとき、わたしもそこにいる」と言われたイエスのことばを実践したいと努めています。

 同時に、たしかに、ひとりで祈りたいという気持、ただひとりで神の御前に出たいとの思いも切実ではないでしょうか。そんな時に入って行くのが、隠れ場でしょう。逆に言えば、隠れ場の必要も起こらない信仰は、弱いかもしれません。


 牧師の書斎(空知太栄光キリスト教会・銘形秀則師)
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 つぎのような祈りは、二人三人といては、なかなか口に上らせられないものではないでしょうか。

 悪を行なう者どもよ。私から離れて行け。
 私は、わが神の仰せを守る。(115節)
 みことばのとおりに私をささえ、
 私を生かしてください。
 私の望みのことで
 私をはずかしめないようにしてください。(116節)

 敵は複数(者ども)で詩編の詩人を取り囲んで誘惑しているのです。彼らに「離れていけ」と命じても、たぶん難しい状況でしょう。方法はただ一つ、みことばによりすがることです。詩人は、みことばの中で神の支えを実感できるのです。

 私をささえてください。そうすれば私は救われ、
 いつもあなたのおきてに
 目を留めることができましょう。(117節)

 神のおきてが、一方を救い、他方を卑しめるのです。
 ここに示された祈りは、非常に厳しいものです。人の心の底など見えるはずもない、神ならぬ身の私たちは、このような祈りをするとき、やはり隠れ家が必要でしょう。

 あなたは、あなたのおきてから迷い出る者を
 みな卑しめられます。
 彼らの欺きは、偽りごとだからです。(118節)
 あなたは、地上のすべての悪者を
 金かすのように、取り除かれます。
 それゆえ私は、あなたのさとしを愛します。(119節)

 敵を取り除いてほしいと願うこの激しい祈りに対し、詩人は告白しています。

 私の肉は、あなたへの恐れで、震えています。
 私はあなたのさばきを恐れています。(120節)

 隠れ場だから、何を言っても良いとはならないようです。この詩人は、神を恐れ、告発している自分へのさばきを想定しています。そこまで神の声を聞くことができる人には、隠れ場は、すばらしい「祈りの部屋」となるのだろうと思わされます。







posted by さとうまさこ at 10:32| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする