2015年11月14日

Coffee Break詩篇・214 私は、滅びる羊のように、迷い出ました。どうかあなたのしもべを捜し求めてください。(詩篇119篇169節〜176節)



 私の叫びが御前に近づきますように。主よ。
 みことばのとおりに、私に悟りを与えてください。(詩篇119篇169節)
 私の切なる願いが御前に届きますように。
 みことばのとおりに私を救い出してください。(170節)

 祈るとき、私が一番もどかしいのは、私の言葉が主に届いているだろうかと、まどうことです。もちろん、届いていると信じられるときもあるのです。けれども、思いはすぐに乱れます。どこかに、「自分など資格がない」「自分など、まだまだだめだ」。ぎゃくに、「救い出されるなら、もっとたくさんのお恵みを!」と、神に要求を釣り上げる甘えもあります。

 私のくちびるに
 賛美がわきあふれるようにしてください。
 あなたが私に
 みおきてを教えてくださるから。(171節)
 私の舌は
 あなたのみことばを歌うようにしてください。

 祈りの形が、ひどく激しい教会や集団があります。自分でも、声を上げて叫び、涙を流さなければいけなのではないかと、思うことがあります。
 もし、祈りや賛美が、体操競技のように外見やわざで判断されるとしたら、きっと「祈りのコンテスト」「祈りのオリンピック」ができるかもしれません。しかし、祈りに「型を持つ」宗教はあっても、祈りのコンテストがあるとは聞いたことがありません。
 まことしやかに、あるいはものものしく、衣装や雰囲気にも凝って神秘的に祈るのは、むしろ、あやしげな祈祷師や占い師や新興宗教のようです。
 
 ほんとうの神に向かって祈っている者は、外形を繕ってもすべてを見通される神には、通じないことを知っています。神と結び合わされるためには、神のことば――おきてやおしえをくちびるにのせて、神に求めるしかないようです。
 
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 あなたの御手が
 私の助けとなりますように。
 私はあなたの戒めを選びました。(173節)
 私はあなたの救いを慕っています。主よ。
 あなたのみおしえは私の喜びです。(174節)

 祈りにお答えがあったかどうか、どうして知るのでしょう。救いの御手が、自分のために差し伸べられている感じ。それが慕わしく、ますます熱心にいましめや教えから喜びが湧き上がる気持ち。たましいがよみがえり、神を褒めたたえる思いが「沸騰してくる」状態。

 私のたましいが生き、
 あなたをほめたたえますように。
 そしてあなたのさばきが
 私の助けとなりますように。(175節)

 さとしや教えに思いを巡らせば、当然、神からのさばきの声も聴くことでしょう。
 けれども、心から神を信頼している者にとっては、さばきこそ「助けとなる」というのです。

 私は、滅びる羊のように、迷い出ました。
 どうかあなたのしもべを捜し求めてください。
 私はあなたの仰せを忘れません。(176節)

 私たちはすぐに、迷い出るものであると、聖書は書いています。同時に、神のことばを思い出し、立ち返るなら、神は探し求めて下さることも約束されています。(イザヤ書53章6節、マタイの福音書18章12節)

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 詩篇中一番長い詩篇119篇は今日で終わりました。つたない文章をお読みくださってありがとうございました。
 なお、詩編がヘブル語のアルファベットにしたがって書かれた形式の整った技巧的な詩であることについては、筆者の能力を超えるので、多くを割愛しました。
 この点については、空知太栄光キリスト教会の銘形先生がていねいな注解を書いておられるので、下記のURLをクリックしてごらんください。

 空知太栄光キリスト教会銘形秀則牧師のサイト
「詩篇119篇の解説」

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E8%A9%A9%E7%AF%87119%E7%AF%87%E3%81%AE22%E3%81%AE%E7%9E%91%E6%83%B3








posted by さとうまさこ at 10:51| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする