2015年11月15日

Coffee Break詩篇・215 私は平和を・・、私が話すと、彼らは戦いを望むのだ。(詩篇120篇1節〜7節)



 苦しみのうちに、私が主に呼ばわると、
 主は私に答えられた。(詩篇120篇1節)
 主よ。私を偽りのくちびる、欺きの舌から、
 救い出してください。(2節)


 詩篇120篇から134篇までは、「都のぼりの歌」と表題がついています。イスラエルの民がエルサレムに上る喜びを歌った歌です。もともと、イスラエルには主がお決めになった7つの祭りがありました。その中の、過ぎ越しの祭り、7週の祭り、仮庵の祭りには、エルサレムに上って祈る習慣でした。
 この詩が生まれた捕囚期以降のイスラエルの民は、元々の自分たちの故郷から遠く離れて異郷に散らされている人も多かったのです。
 祭りの時に、エルサレムに上る感激は格別だったでしょう。

 1節2節の、神への呼びかけが、国を失った民の苦しみを神に訴えるものであるのは、至極当然でしょうか。本来自分の「いるべき場所」「いたい場所」と、「いなければならない場所」が異なることは、私たちの日常でさえよくあることですが、戦争や動乱などで否応なく本来の居住地から引き離された人の苦しみは格別と思われます。

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 欺きの舌よ。
 おまえに何が与えられ、
 おまえに何が加えられるのか。(3節)
 勇士の鋭い矢、
 それに、えにしだの熱い炭火だ。(4節)
 
 他国で寄留民(難民)として暮らすのは、さまざまな不利があります。法的な差別はもちろん、嘘を付かれたり偽りの証言をされたりして、窮地に陥ることは日常茶飯事だったでしょう。結局、弱い側が泣き寝入りするしかない中では、訴えは、神にしかできません。
 この詩人は、自分が唇や舌を欺きに使って、自分を罪に定めた者たちへのさばきを願っています。

 ああ、哀れな私よ。
 メシェクに寄留し、ケダルの天幕で暮らすとは。(5節)
 私は、久しく、平和を憎む者とともに住んでいた。(6節)
 私は平和を・・、私が話すと、
 彼らは戦いを望むのだ。(7節)

 メシュクもケダルもアラビヤ人の土地です。異教の神を信じる者たちの土地です。異教の神の中では、ユダヤ人たちの平和(神とのきずな)が乱されるのは当然です。
 これは、本質的には、宗教的差別の苦しみを暗示しているのかもしれません。





 

posted by さとうまさこ at 08:52| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする