2015年11月17日

Coffee Break詩篇・217 エルサレムを思う。迫害する者のために祈る(詩篇122篇1節〜9節)



 都上りの歌。ダビデによる

 人々が私に、
 「さあ、主の家に行こう。」と言ったとき、
 私は喜んだ。(詩篇122篇1節)
 エルサレムよ。
 私たちの足は、おまえの門のうちに立っている。(2節)
 エルサレム、それは、
 よくまとめられた町として建てられている。(3節)
 そこに、多くの部族、主の部族が、上って来る。
 イスラエルのあかしとして、
 主の御名に感謝するために。(4節)
 そこには、さばきの座、
 ダビデの家の王座があったからだ。(5節)

 エルサレムとは、「神(エル)の平和(サレーム)」という意味です。ダビデがエブス人のシオンの要害を勝ち取って建設した都でした。(Uサムエル記5章6節〜9節)

 サウル王との十年に及ぶ戦いを終えても、ダビデにはまだ、やらなければならない仕事がたくさんありました。イスラエルの領土を狙っているペリシテ人モアブ、アモン、ミディアン人などとの戦いを継続し、イスラエル王国を盤石なものとしなければなりいませんでした。イスラエルの民が神の御心に背いてまで、神政政治国家に王制を導入することを願ったのは、この四面楚歌の困難な状況を打開する「王」を望んだためでした。
 神も、民の要求に一理をお認めになったから、サウルを全イスラエルの王としてお立てになり、ダビデを後押しして王国を盤石なものにしてくださったのです。

 みずから勝ち取って建設したエルサレムに、ダビデは自分の王座と主の家を置いたのです。そこは同時に、イスラエルのあかしでもありました。「都上り」とは、全イスラエルの民が、それぞれの居住地からエルサレムに巡礼することでした。
 
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 エルサレムの平和のために祈れ。
 「おまえを愛する人々が栄えるように。(6節)
 おまえの城壁のうちには、平和があるように。
 おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」(7節)

 捕囚時代のイスラエル人やユダヤ人がエルサレムに上って来ることは、大いに意味があることだったでしょう。たとえ、離散していても、たとえ、国は崩壊していても、そこはユダ王国の始まりの場所であり、神の家があった場所なのです。
 たとえ、からだは異郷にあっても、たとえ、支配する王は異教の王であっても、エルサレムを抱いているかぎり、イスラエル人のアイデンティティは失われることはないのです。

 私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう。
 「おまえのうちに平和があるように。」(8節)
 私たちの神、主の家のために、
 私は、おまえの繁栄を求めよう。(9節)

 これはダビデの言葉であると同時に、神のことばでもあると思います。

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 今日、エルサレムはイスラム教徒にとっても聖地になっています。イスラム教徒もまた、エルサレムを「エルサレム」と呼んでいるのでしょうか。
 もしそうなら、彼ら(の一部であっても)が、キリスト教徒を標的にテロを行なっているのを、神はどのようにご覧になっているのでしょう。

 「神の平和」!!を、今こそ、実践しなければいけないときではないでしょうか。

 「目には目で、歯には歯で」と言われたのをあなたがたは聞いています。(マタイの福音書5章38節)
 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(39節)

 「自分の隣人(となりびと)を愛し、自分の敵を憎め」と言われたのを、あなたがたは聞いています。(43節)
 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(44節)

 私たちキリスト者は、テロの犠牲者のためだけではなく、テロリストのためにも、祈ろうではありませんか。






posted by さとうまさこ at 09:29| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする