2015年11月18日

Coffee Break詩篇・218 あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。(詩篇123篇1節〜4節)



 あなたに向かって、私は目を上げます。
 天の御座に着いておられる方よ。(詩篇123篇1節)
 ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、
 女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、
 私たちの目は私たちの神、主に向けられています。
 主が私たちをあわれまれるまで。(2節)

 自分にとって一番難しいことは、やっぱり、四六時中神様を見あげ続けていることかなあと、今朝も目覚めと同時に思い至ったのです。自分の人生に、自分で課した課題があり、そのためには、神を見上げつづけなければならないのです。
 私はいま、神様に喜んでいただけるかもしれないものを作ろうとしているのです。でも、本当にそうなのかどうか、どうすれば喜んでいただけるのかは、いつも神を見あげて問い続けていなくてはなりません。

 奴隷が女主人の手の動きを見て、その意向を察知するように、私たちは神を見あげていなければいけないと、詩人は歌っています。
 「いつまで?」
 「神が私たちにあわれみをかけて下さるまで」です。
 神のあわれみとは、罪に堕ちたの人間を「かわいそうに思って下さる」神の愛の現れです。楽園から追放されるときに、アダムとエバに皮衣を着せて下さったのは、神の「愛」、神のあわれみでした。(創世記3章21節)人の中に悪が広がり、滅ぼしてしまおうとお考えになったのに、ノアとその一課に目を止めて箱舟に避難させ、人類を存続させようとされたのも「あわれみ」でした。(創世記6章7節8節、7章1節〜)

★★★★★

 私たちをあわれんでください。主よ。
 私たちをあわれんでください。
 私たちはさげすみで、もういっぱいです。(3節)

 それにしても、さげすんでくる人に対して、何故、神様に「(彼を)あわれんでください」とお願いしているのでしょう。「復讐して下さい」でもよいではないかと、不遜にも私など思ってしまうのです。
 人をあざけったり、さげすんだりするのは、平等が前提の現代社会では、人間として最悪の態度です。「いじめ」というのは、誰かの「あざけりとさげすみ」の標的になったことと言い換えることができそうです。復讐ができるなら、復讐するのが人間の罪の性質です。今、世界的な政治問題、社会問題である「テロ」は、いわば復讐の連鎖の中で起こっています。

 たとえば、テロの尖兵になっている人たちは、決して豊かではなく、高ぶるだけの地位や富もありません。いろいろな面で、西欧先進国の中で「あざけりやさげすみ」を感じるのでしょう。
 神は、彼らをあわれんでおられるでしょうが、もし、彼らが神を見上げなければ、そのみ心に気が付かない可能性が大きいでしょう。その結果、自分の手で、爆弾や銃を使って、直接には、何の恨みもない人たちを殺すことになるのではないでしょうか。

 私たちのたましいは、
 安逸をむさぼる者たちのあざけりと、
 高ぶる者たちのさげすみとで、もういっぱいです。(4節)

 人のあざけりやさげすみは、じつは至る所にあると思います。人間は罪びとですから、たんに富をむさぼるだけではなく、人を踏みにじるような「あざけりやさげすみ」をも、むさぼりやすいのです。そのような中に置かれたら、神を信じる者は「神のあわれみ」を乞うしかありませんね。捕囚の民だったユダヤ人のぎりぎりの祈りを思い、胸が痛みます。





 

posted by さとうまさこ at 09:53| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする