2015年11月19日

Coffee Break詩篇・219 私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。(詩篇124篇1節〜8節)



 都上りの歌。ダビデによる

 「もしも主が私たちの味方でなかったなら。」
 さあ、イスラエルは言え。(詩篇124篇1節)

 「もしも主が私たちの味方でなかったなら、
 人々が私に逆らって立ち上がったとき、(2節)
 そのとき、彼らは私たちを生きたまま
 のみこんだであろう。
 彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき、(3節)
 そのとき、大水は私たちを押し流し、
 流れは私たちを越えて行ったであろう。(4節)
 そのとき、荒れ狂う水は
 私たちを越えて行ったであろう。」(5節)

 イスラエル民族の成り立ちを考えれば、このような賛美はもっともだと深くうなずく詩だと思います。
 聖書に見る限り、「主が自分たちの味方でなかったら」と、自分たちを「神の子」であると一番に言えるのが、イスラエル民族です。選びの民イスラエルは、そもそも種から選ばれ、育成された小麦でした。アブラハムを召し出したとき、神のお約束の言葉にもかかわらず、アブラハムは自分が、「神の救いのご計画に用いられる選びの民」であることなど、どれほどわかっていたでしょう。自分だけが自分の正当な子孫だけが、神に選ばれていることがわかっていたら、もとより、ハガルに子どもを産ませることはなかったかもしれません。しかし、アブラハムは自分の使命を少しずつ理解して行ったのだと思います。だから、イサクを得た後、イシュマイルとハガルを追い出し、サラの死後に再婚したケトラとの間の子どもたちを、財産分けした後、遠くへ住まわせたのです。

 神はイサクの双子の息子から、ヤコブを選び、さらに、ヤコブに、さまざまな試練の中で十二人の息子を与えました。このプロセスを見ると、たまたまアブラハムの血が流れていることと、神が「選ぶ」基準は明らかに異なっています。

 ともあれ、「神の救いのご計画」の中で、イスラエルが最初に選ばれた人たちであったのは否定できません。このイスラエルを滅ぼしては、ご計画は破綻してしまうのです。もとより、神様はそのようなことをされないのです。

 苦難の中のダビデの勝利も、「神の御思い」の中で成し遂げられていると見なければ、過つと思います。ダビデが有能な勇士で、詩人であったとか、愛にあふれた父親であったとか、(たぶん)眉目秀麗なイケメンであったか、なによりも信仰の人であったとかは、すべて、大切ですが、彼が勝利し続け、天寿をまっとうし、栄光の王ソロモンにバトンを渡すことができたのは、ダビデが神の御計画の内にあったからです。

★★★★★

 実際、イスラエルは、神に選ばれたばかりに大変な困難を経験し続けているようにも見えます。出エジプトのときから、イスラエル王国の崩壊、捕囚期、捕囚から帰還して神殿を再建したあと・・・。しかし、長い間、政治的な独立国家としては存在を許されませんでした。二十世紀になってやっとイスラエル共和国を作ることができたのです。
 これもまた、不思議なのですが、捕囚期の民がこの讃美を歌っていた時、彼らの困難がその後、二千五百年間も続くと思っていたでしょうか。

 いえ、紀元前後には、彼らが待望していた救い主がお出でになっている事実もわからなかったことでしょう。
 まして、彼らの賛美が、クリスチャンという次なる「神の民」の口に上っていることなど、知る由もなかったでしょう。正確には、「全世界の民――天地を造られた主のみ名」を知った民――イエス・キリストによって救われた人々によって歌われるというべきでしょう。

 ほむべきかな。主。
 主は私たちを彼らの歯のえじきにされなかった。(6節)
 私たちは仕掛けられたわなから
 鳥のように助け出された。
 わなは破られ、私たちは助け出された。(7節)
 私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。(8節)
 
  ほんとうに、神のなさることは奇しいとしか、言いようがありません。





posted by さとうまさこ at 10:08| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする