2015年11月23日

Coffee Break詩篇・222 あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。(詩篇128篇1節〜6節)



 幸いなことよ。すべて主を恐れ、
 主の道を歩む者は。(詩篇128篇1節)

 「主を恐れ、主の道を歩む」のは、聖書の神が私たち人間に要求される基本的な態度だと思います。旧約では、「恐れる」は「信頼する。信じる」の意味だということですから、まさに、信仰の基本であり、そのように信仰の道を歩む者が幸いであるのは当然です。
 具体的に、どのように幸いなのでしょう。

 あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、
 幸福で、しあわせであろう。(2節)
 あなたの妻は、
 あなたの家の奥にいて、
 豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。
 あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、
 オリーブの木を囲む若木のようだ。(3節)

 これは今の時代から見ると、とても古典的な家庭像の「しあわせ」です。妻が家の奥にいて家族のために働き、母親からていねいに愛情をかけられた子どもたちが両親と同じ食卓を囲む。しあわせな家庭を維持している経済的保証は、目に見える「勤労の実」であり、一所懸命働いて、その結果としてパンや肉があり、ぶどう酒があるのです。
 このような素朴な経済システムのなかで,子供たちも素直に勤労の大切さを学ぶでしょうし、両親の「背中」に愛情を感じるでしょう。神様への確かな信仰も、そのような具体的な生活の中で体得して行くのに違いありません。

 今の時代の不幸は、父親や母親の勤労と日々の糧が、直接結び付きにくいことかもしれません。勤労はすべてお金に換算されるのが普通ですから、低賃金の仕事をしている人は、それだけで勤労の価値が落ちるのです。また、衣食住のすべてに亘って、お金で買うしかないので、「お金があれば何でもできる」となるわけです。
 お母さんの手作りの夕食や、お父さんが毎日顔に汗を流して働いている労働より、結果的にそれで何が買えるかとなると、労働や愛情への素朴な「尊敬」が損なわれるでしょう。

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 今日では、「自分の手の勤労の実」を正しく評価するのさえ難しくなっています。ふたつの仕事を掛け持ちしても「やっとの暮らし」の人もいれば、パソコンの前で株や債券を動かし、先物取引などで巨額の富を得ている人もいます。金融所得がすべて悪とは言えないと思いますが、「主を恐れる生き方」を子どもたちに見せ、教えるのは難しい時代なのは事実でしょう。

 しかし、古代イスラエル社会、とりわけ、捕囚を経験した「神の民」は、「しあわせ」が家族と共にあったと思い知らされる体験を、幾度もしたのではないでしょうか。捕囚となって初めて、自分の畑を耕すさいわい、自分の羊の世話をしてその肉を食べる幸いを思ったでしょう。親は子供を思い、子供は親を恋しがるような「家庭崩壊」も見たことでしょう。

 詩篇128篇にある素朴な光景の中に、私達現代人も、あらためて「神の祝福とは何か」を考えさせられているのではないでしょうか。







posted by さとうまさこ at 10:41| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする