2015年12月01日

Coffee Break詩篇・230 ハレルや。イスラエルの家よ。主をほめたたえよ。(詩篇135篇1節〜21節)



 ハレルヤ。主の御名をほめたたえよ。
 ほめたたえよ。主のしもべたち。(詩篇135篇1節)
 主の家で仕え、
 私たちの神の家の大庭で仕える者よ。(2節)
 ハレルヤ。主はまことにいつくしみ深い。
 主の御名にほめ歌を歌え。
 その御名はいかにも麗しい。(3節)
 まことに、主はヤコブを選び、ご自分のものとされ、
 イスラエルを選んで、ご自分の宝とされた(4節)。

 「ハレルヤ」は元来、「主を賛美せよ」との意味です(新聖書辞典)から、同じ言葉が重なっているとも言える箇所です。しかし、心からの賛美が湧きあがるとき、言葉が重なるのは当然かと思います。
 麗しく、いつくしみ深いが、ヤコブ(イスラエル)の民を選んでご自分の宝とされたというのです。このような事実に、イスラエルは感激、感謝して、褒めたたえないでいられないのです。

 まことに、私は知る。主は大いなる方、
 私たちの主はすべての神々にまさっておられる。(5節)
 主は望むところをことごとく行なわれる。
 天で、地で、海で、またすべての淵で。(6節)
 主は地の果てから、雲を上らせ、
 雨のためにいなずまを造り、
 その倉から風を出される。(7節)
 主はエジプトの初子を
 人から獣に至るまで打たれた。(8節)

 の「すごさ」は、いつくしみ深さだけではありません。は、なんといっても天地を支配される全知全能のお方です。この宇宙万物を創造された方ですから、気象を支配されるなど簡単なことです。雲や雨や稲妻や風は、すべて、が呼び起されるのです。また、生きとし生けるものの命も、が下さった物であり、が支配しておられます。
 そうでなければ、「初子を打つ」と宣言されて、エジプトのすべての家畜、獣、パロの初子から女奴隷の初子までを「打つ」ことができるでしょうか。

 エジプトよ。おまえのまっただ中に、
 主はしるしと奇蹟を送られた。
 パロとそのすべてのしもべらに。(9節)

 また、は、カナンを目指すイスラエルの民の、行く手を遮る多くの国々を打たれました。

 主は多くの国々を打ち、
 力ある王たちを殺された。(10節)
 エモリ人の王シホン、バシャンの王オグ、
 カナンのすべての王国を。(11節)
 主は彼らの地を、相続の地とし、
 御民イスラエルに相続の地として与えられた。(12節)

 が、罪に定めた民――異教徒たちを打たれてイスラエルのために道を開かれ、イスラエルをカナンに入れられるプロセスは、「聖書の神」を信じない人たちはしばしば非難されています。
 なぜ、神は、イスラエルだけを贔屓(ひいき)にするのかというわけです。

 主よ。あなたの御名はとこしえまで、
 主よ。あなたの呼び名は代々に及びます。(13節)
 まことに、主はご自分の民をさばき、
 そのしもべらをあわれまれます。(14節)

★★★★★

 たしかなことは、異邦の民は、神を知らなかったことです。確かに、当時はどのような民であっても、神(と思われるもの)を拝んではいました。今のような「合理主義」「無神論主義」はあり得なかったでしょう。けれども、ミディアンもモアブもアモンもエジプトもペリシテもアッシリアも、神でないものを神だと信じて祀り上げていただけなのです。
 それは、偶像と言われるものです。木や石や銀や金で彫ったり、鋳物として作り上げたものです。

 異邦の民の偶像は、銀や金で、
 人の手のわざです。(15節)
 口があっても語れず、
 目があっても見えません。(16節)
 耳があっても聞こえず、
 また、その口には息がありません。(17節)
 これを造る者も
 これに信頼する者もみな、これと同じです。(18節)

 これと同じことはイザヤ書にも書かれています。(イザヤ書44章9節〜17節)
 このようないわば、木偶(でく)を祀り上げることが、そもそも的外れであることに気が付きもしない人々なのです。

★★★★★ 

 イスラエルの家よ。主をほめたたえよ。
 アロンの家よ。主をほめたたえよ。(19節)
 レビの家よ。主をほめたたえよ。
 主を恐れる者よ。主をほめたたえよ。(20節)
 ほむべきかな。主。シオンにて。
 エルサレムに住む方。
 ハレルヤ。(21節)

 さいわいにもイスラエルだけが、神の民として選べばれ、神の御用のために育成されていたのです。祭祀に関わるのはイスラエルの中でもレビ族、祭司になるのはアロンの家でした。選びの民の中の、さらに選ばれた者たちが、神殿礼拝をリードしているのです。 

 主を恐れ、褒めたたえ、あふれる賛美を繰り返し、繰り返すのは自然なことです。
 まことに、ハレルヤです。







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2015年12月02日

Coffee Break詩篇・231 その恵みはとこしえまで(詩篇136詩篇1節〜26節)



 詩篇136篇は、見るからにリズミカルな体裁の整った歌です。詩の前半を特定の人が、「その恵みはとこしえまで。」という後半部分の繰り返しを、礼拝者全員が歌ったとも考えられますが、実際にどのように歌ったかは、専門家の研究でもまだよくわからないそうです。(新実用聖書注解・いのちのことば社)
 内容的には、詩篇135篇と似ています。
 初めに主のまことといつくしみを讃え、感謝しています。

 主に感謝せよ。
 主はまことにいつくしみ深い。
            その恵みはとこしえまで。(詩篇136篇1節)
 神の神であられる方に感謝せよ。
             その恵みはとこしえまで。(2節)
 主の主であられる方に感謝せよ。
            その恵みはとこしえまで。(3節)

 同時に、天地をお造りになった方の大いなる不思議を讃えます。

 ただひとり、大いなる不思議を行なわれる方に。
            その恵みはとこしえまで。(4節)
 英知をもって天を造られた方に。
            その恵みはとこしえまで。(5節)
 地を水の上に敷かれた方に。
            その恵みはとこしえまで。(6節)
 大いなる光を造られた方に。
            その恵みはとこしえまで。(7節)
 昼を治める太陽を造られた方に。
            その恵みはとこしえまで。(8節)
 夜を治める月と星を造られた方に。
            その恵みはとこしえまで。(9節)

 つぎに、選びの民イスラエルの出エジプトに目を向けます。

 エジプトの初子を打たれた方に。
            その恵みはとこしえまで。(10節)
 主はイスラエルをエジプトの真中から連れ出された。
            その恵みはとこしえまで。(11節)
 力強い手と差し伸ばされた腕をもって。
            その恵みはとこしえまで。(12節)
 葦の海を二つに分けられた方に。
            その恵みはとこしえまで。(13節)
 主はイスラエルにその中を通らせられた。
            その恵みはとこしえまで。(14節)
 パロとその軍勢を葦の海に投げ込まれた。
            その恵みはとこしえまで。(15節)

★★★★★

 イスラエルは、シナイで主と契約を結んだ後、荒野の旅に出るのです。荒野でも様々な苦難があり、民が主に叛くこともありました。しかし、彼らが「荒野の四十年」を乗り切ってヨルダンを渡り、約束の地にはいることができたのは、ひとえに主が守り導いて下さったからです。

 荒野で御民を導かれた方に。
            その恵みはとこしえまで。(16節)
 大いなる王たちを打たれた方に。
            その恵みはとこしえまで。(17節)

 北上してくるイスラエルの前に、ヨルダン川の東岸にある国々、エドム、モアブ、パシャン・オグなどの国々が立ちはだかっていました。彼らはさまざまな計略を使ってイスラエルの前進を阻みましたが、主が、彼らを打ち負かして下さったのです。(民数記35章)
 それらの国の跡地は、ガドとマナセの半部族の相続地となったのです。

 主は力ある王たちを、殺された。
            その恵みはとこしえまで。(18節)
 エモリ人の王シホンを殺された。
            その恵みはとこしえまで。(19節)
 バシャンの王オグを殺された。
            その恵みはとこしえまで。(20節)
 主は彼らの地を、相続の地として与えられた。
            その恵みはとこしえまで。(21節)
 主のしもべイスラエルに相続の地として。
            その恵みはとこしえまで。(22節)
 主は私たちが卑しめられたとき、私たちを御心に留められた。
            その恵みはとこしえまで。(23節)
 主は私たちを敵から救い出された。
            その恵みはとこしえまで。(24節)
 主はすべての肉なる者に食物を与えられる。
            その恵みはとこしえまで。(25節)
 天の神に感謝せよ。
            その恵みはとこしえまで。(26節)

 捕囚から帰還できた人たちは、かつて自分たちが、から相続地をいただいた歴史を思い起こし、感謝をしています。「その恵みはとこしえまで」の繰り返しが、彼らのうち震えるような感謝を表しているのではないでしょうか。









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2015年12月03日

Coffee Break詩篇・232 シオンを思い出して泣いた。(詩篇137篇1節〜9節)



 冒頭のバビロン川とは、バビロンからユーフラテス川までを繋ぐ運河だったと考えられています。(バイブルワールド・地図で巡る聖書P64・いのちのことば社) 捕囚でバビロンに引かれていった人たちが個々の定住したのか、土木工事に携わっていたのか、旅の途中なのかはわかりません。
 しかし、戻る希望もない捕囚生活で、民は泣き暮らしていた様子がうかがえます。

 バビロンの川のほとり、
 そこで、私たちはすわり、
 シオンを思い出して泣いた。(詩篇137篇1節)

 帰国が約束されている旅でさえ、ホームシックに泣く人がいます。通信手段が発達したのは、軍事的政治的支配の結果であったでしょうが、個人個人の望郷の思い、親しい人を恋い慕う気持も大きかったでしょう。

 エルサレムから引きはがされた人たちは、故郷の情報から切り離されてしまいました。当時であっても、天地を創造され太全知全能の神はどこにでもおられたはずです。しかし、まだ仲保者イエス様は、世に来ておられなかったのです。神の選びの民であっても、祭司を仲立ちにして神殿で神とお会いするしかありませんでした。
 神殿のあるエルサレムから切り離されることは、民族や肉親の父である神からはなされてしまうのです。民が泣いたのは当然でした。
 
★★★★★

 その柳の木々に
 私たちは立琴を掛けた。(2節)
 それは、私たちを捕え移した者たちが、
 そこで、私たちに歌を求め、
 私たちを苦しめる者たちが、
 興を求めて、
 「シオンの歌を一つ歌え。」と言ったからだ。(3節)
 私たちがどうして、
 異国の地にあって主の歌を歌えようか。(4節)
 エルサレムよ。
 もしも、私がおまえを忘れたら、
 私の右手がその巧みさを忘れるように。(5節)

 バビロンの人々が、捕囚の民に「歌を歌え」と言ったのでしょう。慰み者にされているのか、もう少し好意的にイスラエル人の歌を聞きたかっただけなのかわかりませんが、イスラエル人たちにとって、歌は神殿でささげる「神聖な」賛美でした。バビロンで歌うのは、かえって、望郷の念をかきたて、苦しく悲しい思いにさせられることだったでしょう。
 
 私の想像ですが、捕囚の民は、それでも結局、歌ったのではないでしょうか。権力のある者にさからえるはずもありません。
 しかし、それだからこそ、エルサレムを心に描き、エルサレムのために、神殿礼拝を思い浮かべながら歌っただろうと思います。

 もしも、私がおまえを思い出さず、
 私がエルサレムを
 最上の喜びにもまさってたたえないなら、
 私の舌が上あごについてしまうように。(6節)

★★★★★

 主よ。エルサレムの日に、
 「破壊せよ、破壊せよ、その基までも。」と言った
 エドムの子らを思い出してください。(7節)
 バビロンの娘よ。荒れ果てた者よ。
 おまえの私たちへの仕打ちを、
 おまえに仕返しする人は、なんと幸いなことよ。(8節)
 おまえの子どもたちを捕え、
 岩に打ちつける人は、なんと幸いなことよ。(9節)

 ここでどうしてエドムが思い出されているのか、奇妙な気もします。エルサレムを破壊し民を捕囚にしたのは、バビロンでした。
 これは、エドムが、創世記にまで遡るイスラエルの兄弟国であるからでしょう。古代の人たちは、今とは比べ物にならないほど、血縁の来歴、いわゆるルーツを重く見たのでしょう。エドムを立てたエサウは、ヤコブと双子の兄でした。彼らの父イサクは、当然家督(長子の権利)をエサウにゆずるつもりでした。しかし、母リベカは弟のヤコブを跡継ぎにしたいと思っていました。そうして、まるで騙しのような手口で、ヤコブが父から祝福されるようにしたのです。(創世記27章)
 月日が経って、再会したとき、エサウはヤコブを許していました。しかし、ヤコブは兄の申し出を受けず、和解のないままエサウの子孫はエドムに住みつき、ヤコブの子孫はカナンに入ったのです。その後両国は、平和な交流もありましたが、戦いも重ねました。

 エルサレムが陥落しそうなときも、エドムはユダを助けたのではなく、火事場泥棒のように、痛みを与えたのです。(オバデヤ書)
 イスラエルの人々は、バビロンで歌を歌う屈辱に、エドムへの恨みを重ねたようです。







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2015年12月04日

Coffee Break詩篇・233 地のすべての王たちは、あなたに感謝しましょう。彼らがあなたの口のみことばを聞0いたからです。(詩篇138篇1節〜8節)



 詩篇138篇〜145篇までは、「ダビデによる」と表題がつく詩になります。(ダビデ起源の詩編を帰還後に編集したためと思われる新実用聖書注解・いのちのことば社)とのことです。

 ダビデによる 

 私は心を尽くしてあなたに感謝します。
 天使たちの前であなたをほめ歌います。
 私はあなたの聖なる宮に向かってひれ伏し、
 あなたの恵みとまことを
 あなたの御名に感謝します。(詩篇138篇1節)

 ここでの天使たちは、聖書の注記として(新改訳聖書)「神々」と訳されています。つまり、異教の神々の前でも、主をほめ歌うと断言しているのです。ダビデが王国を確立するために近隣の国々と幾度も戦いました。国々の神は異教の神です。その戦いの中で、いつも主を見あげ続けていたのです。

★★★★★

 ダビデは、聖書の中で神に用いられた器として突出しています。聖書の中に出てくる紙数の多さだけではなく、ダビデは事実上イスラエルの王国の確立者でした。神の選びの民として最初に、神の召命を受けたアブラハム、イスラエルの名前を神からいただいたアブラハムの孫ヤコブ、イスラエル民族をエジプトから導き出したモーセ、弱小の部族連合体のようだったカナンのイスラエルを治め、王国を立てる時には、神の声を聞いてサウルとダビデに油を注いだサムエル。大きな名前に値するためには、「神の救いのご計画」のなかで、エポックメイカーとしての役割をはたしていなければなりません。
 ダビデの名が大きいのはイスラエル王国を築いたためですが、その名を不朽のものとしたのは、ダビデの末から救い主がお生まれになったからです。もちろん、それは、神がユダ族のダビデを用いられたということです。

★★★★★

 あなたは、ご自分のすべての御名のゆえに、
 あなたのみことばを高く上げられたからです。(2節)
 私が呼んだその日に、
 あなたは私に答え、
 私のたましいに力を与えて強くされました。(3節)
 主よ。
 地のすべての王たちは、あなたに感謝しましょう。
 彼らがあなたの口のみことばを聞いたからです。(4節)

 彼らは主の道について歌うでしょう。
 主の栄光が大きいからです。(5節)
 まことに、主は高くあられるが、
 低い者を顧みてくださいます。
 しかし、高ぶる者を遠くから見抜かれます。(6節)
 私が苦しみの中を歩いても、
 あなたは私を生かしてくださいます。
 私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし、
 あなたの右の手が私を救ってくださいます。(7節)

 神様は、ダビデを選んだあと、苦難の中で彼を生かし続け、危険の中でも救い出されました。そうして、最終的には、ダビデに不動の玉座を与えてくださったのです。
 しかし、神に召されるというのは、厳しい波乱と試練の人生を送ることでもあり、そこをくぐり抜けるのは、ただ神を信頼する「信仰」だけです。
 結果的に、ダビデは、突出した信仰の人となり、その詩は多くの同信の者たちに,いまだに共感と連帯感を与えているのです。

 主は私にかかわるすべてのことを、
 成し遂げてくださいます。
 主よ。あなたの恵みはとこしえにあります。
 あなたの御手のわざを捨てないでください。(8節)

 この詩は預言を含んでいます。ダビデは、異教徒の王たちも、やがては「主」に感謝すると確信しています。事実、ダビデの末からお生まれになったキリストの福音は、全世界の人々の希望となっています。






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2015年12月05日

Coffee Break詩篇・234 私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。(詩篇139篇1節〜12節)



 指揮者のために。ダビデの賛歌

 主よ。あなたは私を探り、
 私を知っておられます。(詩篇139篇1節)
 あなたこそは私のすわるのも、
 立つのも知っておられ、
 私の思いを遠くから読み取られます。(2節)
 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、
 私の道をことごとく知っておられます。(3節)

 詩篇139篇は、神様がどういうお方であるのかをよく「知っている」人の祈りです。
 もちろん、「ダビデの賛歌」なのですが、これを詩篇に組み入れた人々も、同じ認識だったでしょう。神様は、私を知っておられる、立つのも座るのも知っておられ、遠くからでも思いを読み取られ、歩みも伏すのも見守っておられると言うのです。

 ★★★★★

 ある人が教会を離れてしまい、住まいもに遠くへ引っ越してしまいました。理由は、彼が「警察の厄介になるような罪」を犯したからです。彼は短い期間ですが服役し、罪を償ったのですが、自分を恥じたのでしょう。また、自分の人生の汚点を消したかったのでしょう。そのためには、教会からも地域からも友人からも親族からさえ、見えないところに行く必要があると考えたようです。

 彼の事件を知っているのは、教会でも、牧師のほか、ほんの一人か二人でした。もとより秘密は守られていて噂にもなっていなかったし、彼が戻って来ても不在の理由を根ほり葉ほり聞くような人はいないはずでした。
 しかし、彼は、自分を「知っている」誰とも会いたくないと思ったようです。
 自分を知っている人がひとりもいないところへ行けば、真っさらの自分としてやり直せる――。

 しかし、このような彼を、私たちは笑うことはできません。時々、「何もかも捨てて、どこか遠くへ行ったしまいたい」と一度も思ったことがない人は、さほど多くないと思います。
 そんなときの心理は、「わずらわしい世間から逃れたい」「仕事の重圧に耐えられない」「たくさんの失敗を忘れて、一からやり直したい」。理由はつきますが、けっきょく、自分の恥を知っている者たちから逃げたい――自分から逃げたいということではないでしょうか。

 自分の醜さや非力や罪の性質は、人の目に容赦なく焼き付けられているわけです。自分を合理化して言い訳することはできますが、実際に真っさらにできるわけではありません。それならば、自分を「覚えている人たち」の前から消えることが、まだしも自分をリセットするような気がするのかもしれません。

★★★★★

 あるアメリカの作家が言いました。「どこまで行っても自分と道連れ」。
 これは、もっと本質的な言い換えができます。
どこまで行っても、神様と道連れ」です。

 ダビデが歌ったように、神様は、「私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知って」おられます。
 
 ことばが私の舌にのぼる前に、
 なんと主よ、
 あなたはそれをことごとく知っておられます。(4節)
 あなたは前からうしろから私を取り囲み、
 御手を私の上に置かれました。(5節)
 そのような知識は私にとって
 あまりにも不思議、
 あまりにも高くて、及びもつきません。(6節)

★★★★★

 私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。
 私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。(7節)
 たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、
 私がよみに床を設けても、
 そこにあなたはおられます。(8節)
 私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、(9節)
 そこでも、あなたの御手が私を導き、
 あなたの右の手が私を捕えます。(10節)

 私たちはたしかに、逃げ隠れすることもできます。また、自分で自分の問題をリセットした気分にもなれます。けれども、神様からは、逃げることはできないと、この詩は繰り返します。

 たとい私が
 「おお、やみよ。私をおおえ。
 私の回りの光よ。夜となれ。」と言っても、(11節)
 あなたにとっては、やみも暗くなく
 夜は昼のように明るいのです。
 暗やみも光も同じことです。(12節)

 全知全能の神さまから逃れる道はありません。その理由が、このあと述べられます。



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