2015年12月06日

Coffee Break詩篇・235 神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。(詩篇139篇13節〜18節)



 それはあなたが私の内臓を造り、
 母の胎のうちで私を組み立てられたからです。(詩篇139篇13節)
 私は感謝します。
 あなたは私に、奇しいことをなさって
 恐ろしいほどです。
 私のたましいは、それをよく知っています。(14節)
 私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、
 私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。(15節)
 あなたの目は胎児の私を見られ、
 あなたの書物にすべてが、書きしるされました。
 私のために作られた日々が、
 しかも、その一日もないうちに。(16節)

 私たちが一度は考える根源的な疑問のひとつに、「私はどこから来たのか」があると思います。私は、なぜ生まれて来たのか。なぜ、この時代に、あの両親から、生まれて来たのか。それは国籍、人種はもちろんのこと、外見、素質など、生まれながらの重要な「要素」が、出生の神秘に由来するからです。「からすの子はからす」などという言葉があったように、からすに生まれたらけっして、スズメにも白鳥にもなれないわけです。
 同時に、私を産んだ親が子供を産むとき、期待はあっても完全な予測はないのです。顔かたちや素質を想定できても、その通りに行かないのです。親にとっても、子供は「与えられたもの」なのです。たとえ、神様を信じていなくても、たとえ、計画出産で産んだ子供であっても、同じときに受胎するはずだった子どもの素質の可能性については、「神のみぞ知る」ことなのです。おなじ卵子と同じ精子で生まれたはずの兄弟姉妹が、全員顔も性格も違うものなのです。

 なぜ、生まれて来たのか。なぜ、このような形に造られたのか。
 このような疑問を真剣に問うことは、現実の社会問題にさえ、答える手がかりであると思います。

 たとえば、「性同一性障害」のような問題です。生まれつき、自分の外見と心の性が異なっているとはどういうことか。もし、完全な受胎機能が備わっている「メス」の外見をもっていて、それでも、「自分はオスだ」と心が思い、女として生きることに苦痛を感じるとは、どういうことか。女だけれども女を好きになり、男を好きになれないとは、どういうことか。
 その逆も、考えてみるべきことでしょう。

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 現実に男色や女色は存在したようです。
 聖書を読むと、すでに、創世記の中に、「男を出せ。なぐさみものにしてやろう」という男たちがいた(創世記19章5節)ことがわかります。しかし、彼らの例は、「愛のある関係」ではありません。まさに、遊び、娯楽であるとわかります。

 しかし、今日、同性婚を認めよと、叫んでいる人たちは、「慰みやあそび」ではなく、「愛の物語」として訴えているのです。もし、彼らが、異性の妻(夫)や恋人では得られない快楽があって、それを楽しまないではいられないから、「同性婚」を認めよと言うなら、社会的コンセンサスを得ることができるでしょうか。

 詩篇が二五〇〇年前に、示唆した受胎の問題,神が私たちを組み立てられたという真理を、私たちは今こそ、考えてみるべきではないでしょうか。

 神よ。あなたの御思いを知るのは
 なんとむずかしいことでしょう。
 その総計は、なんと多いことでしょう。(17節)
 それを数えようとしても、
 それは砂よりも数多いのです。
 私が目ざめるとき、
 私はなおも、あなたとともにいます。(18節)









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2015年12月07日

Coffee Break詩篇・236 私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139篇19節〜24節)



 ダビデは、神を心から信頼していたと思うのです。神がいつも、ダビデを見守り、ダビデのすべてを「知っておられる」(詩篇139篇2節)ことを喜んでいる人です。
 彼のような神との「愛の関係」を私も見習いたいと思うのです。たんに神様を大好きであるだけでなく、信仰者なら、神様からご覧になった自分が「神に似た者」だと思ってもらいたい、そんな望みがどこかにないでしょうか。
 だから、私も時々嘘をついてしまします。すごく憎い人を、祈るときには「憎い人だから罰してほしい」とは言えないのです。むしろ、「許します」と言いかねません。

 ところが、ダビデは、言います。

 神よ。どうか悪者を殺してください。
 血を流す者どもよ。私から離れて行け。(詩篇139篇19節)
 彼らはあなたに悪口を言い、
 あなたの敵は、みだりに御名を口にします。(20節)
 主よ。
 私は、あなたを憎む者たちを憎まないでしょうか。
 私は、あなたに立ち向かう者を
 忌みきらわないでしょうか。(21節)
 私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。
 彼らは私の敵となりました。(22節)

 確かに、ダビデには、「あわや命を失う」と言えるような危機一髪の局面は何度もありました。若くて汚れない信仰心の持主、イスラエルの若きエースだったダビデが、ある日、大した落ち度もなく苦境に陥るのです。それは、神から見捨てられ「神の霊が離れた」ダビデの主君サウルの暴虐でした。
 突然いのちを狙われて逃げ回るダビデが、同じ神を信じる同胞たちに追いつめられ、同胞を「殺して下さい」と願ったことも一度ならずあったのでしょう。

 確かに、例えば、今日のキリスト教会でも、同じ信仰をもつ兄弟姉妹で対立することがあるのだから、気持ちはわかると言う人もいるかもしれません。
 でも、大部分のクリスチャンは、このような詩編の「激しさ」にちょっと辟易としないでしょうか。

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 「神よ。どうか悪者を殺して下さい」というダビデの祈りに、神が同お答えになったかは、書かれていません。
 私の想像ですが、神はお答えにならなかったのかもしれません。あるいは、自分の胃の利の激烈さに、ダビデは、もう一言付け加えなければならないと思ったのかもしれません。

 神よ。私を探り、私の心を知ってください。
 私を調べ、私の思い煩いを知ってください。(23節)
 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、

「ねえ。私の立場や気持ちもわかって下さいよ。私の苦しみを聞いてくださいよ」
 人に、苦境を愚痴ったあと、思ったほどの好意を得られないと、つい、つけ加えて言いたくならないでしょうか。ダビデは、「自分が痛んでいると認めて下さい。」と言います。

 ただし、彼は、もう一度、「悪者を殺して下さい」とは言いません。
 代わりに次のように願うのです。

 私をとこしえの道に導いてください。(24節)

 「とこしえの道」は、今の私たちにとっては、「神と共にある永遠のいのち」です。ダビデは、祈っているうちに、敵の滅び等問題ではなくなっていったようです。大事なのは、自分が救われることだと気が付いたと、筆者は考えるのです。









posted by さとうまさこ at 10:11| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月08日

Coffee Break詩篇・237 英雄の叫び――主よ。私をよこしまな人から助け出し、暴虐の者から、私を守ってください。(詩編140編1節〜13節)



 最近、歴史は戦国時代ブームなのか、なにげなくテレビをつけても、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の絡むエピソードをよく見ることになります。高齢化社会でもあり、この三人の英雄は高齢者に人気がある上、戦国末期の力の時代は若者にも楽しい空想をかきたてるからでしょうか。
 三人の武将に共通しているのは、「天下を支配する将」になって行くプロセスの苦労です。また、その前にかなり「艱難の時期」があることです。織田も徳川も譜代の家臣団をもった「武家の家」でしたが、共に、弱肉強食の時代に、いつ大きな大名に呑みこまれても不思議はない、田舎大名でした。跡継ぎの若様として何もしなくても、「家督」が転がり込んでくるなどと言う時代ではありません。
 秀吉に至っては、尾張の百姓の子ども、足軽の子どもと言う説、結局、底辺をたくましく生きるしかない生れでした。
 彼らが、血で血を洗う戦国時代を才気と勇気と何よりも幸運で生き残って、やがて、天下に号令するようになる・・・、これが大衆受けするようです。以前は、さとうもこの種の話しが大好きでした。でも、最近、「ちょっと、待って」と思う時があるのです。

 戦略や知略や調略・知恵と力のかぎりを尽くして勇敢に戦い、勝ち抜いていって、しだいに栄冠に近づく物語は、たしかに楽しいのです。番組編成者もゲスト解説者もほとんど、これらの物語をスポーツのような「勝敗の話」として、技術的戦略的な戦いの軌跡としてしか解説しないのです。そうして最後は、決まって、これらの物語を現代を生きる視聴者が自分の人生に、どのように適応するのかと考えるように導くのです。

 しかし、その時は楽しく観たこのような歴史物語に、どこか欺瞞を感じない人はいないのではないでしょうか。
 ここには、「流された血」「英雄にその上を踏み越えられた多くの無名の死屍累々」が無視されています。また、信頼を平気で裏切り、裏切られるモラルの世界に対する、今日的な視点が欠けています。
 テロで殺された人たちのために涙を流すのが、私たち人間のはずです。小さな子供が生まれつきの心臓病で多額のお金がないとアメリカで移植手術を受けられないと聞けば、お金を寄付する人も大勢います。小さな言葉尻にも傷ついて、「引きこもる」繊細さも認めるのが、人間性です

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 ところが、戦国時代の話になると、天下人となれた人間の足跡をたんなるポジティブな「成功物語」に還元してしまうのはなぜでしょう。
 信長、秀吉、家康は、妙に無神経で明るくたくましい武将として扱われています。
 ほんとうにそうなのでしょうか。彼らには、「苦しんだ夜」はなかったのでしょうか。切羽詰まったいのちの危機にあって、「神よ。我を助けたまえ」と祈る瞬間はなかったのでしょうか。
 
 主よ。私をよこしまな人から助け出し、
 暴虐の者から、私を守ってください。(詩篇140篇1節)
 彼らは心の中で悪をたくらみ、
 日ごとに戦いを仕掛けています。(2節)
 蛇のように、その舌を鋭くし、
 そのくちびるの下には、まむしの毒があります。
                 セラ(3節)
 主よ。私を悪者の手から守り、
 暴虐の者から、私を守ってください。
 彼らは私の足を押し倒そうとたくらんでいます。(4節)
 高ぶる者は、私にわなと綱を仕掛け、
 道ばたに網を広げ、私に落とし穴を設けました。
                 セラ(5節)

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 ダビデは多くの戦いに勝ち抜いた勇士でした。サウル王に追われて逃げ回る歳月は十年にも上りましたが、苦難をくぐり抜け、その中で、知恵と人を得て、やがてユダを、さらに全イスラエルに号令するようになるのです。

 それは、たんなる成功物語ではなく、そのたびに神に「泣きついて助けていただく」話であることが、詩編を読むとよくわかります。

 私は主に申し上げます。
 「あなたは私の神。
 主よ。私の願いの声を聞いてください。(6節)
 私の主、神、わが救いの力よ。
 あなたは私が武器をとる日に、
 私の頭をおおわれました。(7節)

 主よ。悪者の願いをかなえさせないでください。
 そのたくらみを遂げさせないでください。
 彼らは高ぶっています。     セラ(8節)
 私を取り囲んでいる者の頭。
 これを彼のくちびるの害毒がおおいますように。(9節)
 燃えている炭火が
 彼らの上にふりかかりますように。
 彼らが火の中に、また、深い淵に落とされ、 
 彼らが立ち上がれないようにしてください。(10節)
 そしる者が地上で栄えないように。
 わざわいが暴虐の者を
 急いで捕えるようにしてください。」(11節)
 私は知っています。主は悩む者の訴えを支持し、
 貧しい者に、さばきを行なわれることを。(12節)
 まことに、正しい者はあなたの御名に感謝し、
 直ぐな人はあなたの御前に住むでしょう。(13節)








posted by さとうまさこ at 11:04| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月09日

Coffee Break詩篇・238 正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。(詩篇141編1節〜5節)



 ダビデの賛歌

 主よ。私はあなたを呼び求めます。
 私のところに急いでください。
 私があなたに呼ばわるとき、
 私の声を聞いてください。(詩篇141篇1節)
 私の祈りが、御前への香として、
 私が手を上げることが、夕べのささげ物として
 立ち上りますように。(2節)

 Tサムエル記には、ダビデがイスラエル一の人気者から、一転、お尋ね者になって逃げ回る変転が、鮮やかに語られています。主の霊が離れたサウルの、嫉妬と猜疑と憎しみの対象となってしまったからです。(Tサムエル記17章〜20章)
 
突然追っ手に押しかけられたダビデは、妻ミカルの機転で、なんとか自宅の窓から逃げだしました。しかし、着の身着のままで、食物も武器もなく、祭司に嘘を付いてささげ物から下げたパンをもらうほど、切羽詰まっていました。(同20章21章)

 そうなのです。豊かに主にささげるダビデのような人でさえ、苦境にあってて全焼のいけにえも和解のいけにえもささげることができなかったのです。ですから、「手を上げる」ことが、ささげ物になりますように」と唱えているのです。

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 主よ。私の口に見張りを置き、
 私のくちびるの戸を守ってください。(3節)
 私の心を悪いことに向けさせず、
 不法を行なう者どもとともに、
 悪い行ないに携わらないようにしてください。
 私が彼らのうまい物を
 食べないようにしてください。(4節)

 苦境にある時は、ついその原因を作った人間の悪口を言いたくなりますね。ダビデも、きっとその誘惑に駆られたことでしょう。自分になんの落ち度もないのに、サウル王は、彼の命を狙い、追い回すのです。でも、悪を持って悪に報いるのは、相手の流儀に巻き込まれることです。それこそ、人と人を戦わせてほくそ笑むサタンの思うつぼです。

 正しい者が愛情をもって私を打ち、
 私を責めますように。
 それは頭にそそがれる油です。
 私の頭がそれを拒まないようにしてください。
 彼らが悪行を重ねても、なおも私は祈ります。(5節)

 でも、世の中は捨てたものではありません。宇宙とこの世は、基本的には神が支配しておられるのです。正しい人もたくさんいます。私が、堕落しそうになる時、厳しい言葉でいさめてくれる友がいるはずです。

 自分が「打たれる」かどうかは、問題ではないでしょう。自分を打つ言葉やむちが愛情であるかどうかが、問題なのです。
 愛の言葉で頭から油を注いでもらう機会があったら、たとえ、びしょびしょになっても感謝ですね。
 そのような正しい友がいる人は、人の悪に巻き込まれることはないでしょう。うまい話や調子よく生きている人を見て、祈ることもできます。

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 今日の詩篇は、自分の身に置き換えることができる言葉でした。
 いつも空手で主の前に出るしかないのです。手を高く上げて、ささげ物のかおりに代えていただけるとは、なんという「あわれみ」でしょう。さらに、今は、キリストがささげ物になってくださった新約の時代です。二重の恵みに、感謝してもしきれません。
 
 そして、私の祈りを、神様は答えて下さったのです。正しい友が、厳しい言葉で私を打って下さったのです。苦しいほどの油の注ぎを受けた私は、自分を金縛りにしていたもやもやした縄目が溶けていくのを見たのです。

 そうして、ようやく、「悪業を重ねる」者(サタン)に対しても、祈れるようになったと思います。
   感謝!!







posted by さとうまさこ at 09:34| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月10日

Coffee Break詩篇・239 どうか、不法を行なう者の落し穴から、私を守ってください。(詩篇141編5節〜10節)



 詩篇141篇5節は、むしろ、6節の最初に来る方が自然だと言う気がします。(節分けは、印刷の便宜上人間がつけたので、「霊感された聖書」にはなかったものですから、あえて・・・)

 彼らが悪行を重ねても、なおも私は祈ります。(詩篇141篇5節)

 正しい人の忠告には耳を傾ける必要がありますが、悪者に影響されてはなにもなりません。悪行を行なう人には警戒を怠らず、その相手のために祈らなければならないと、詩篇の作者は歌っています。
 
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 彼らのさばきづかさらが岩のかたわらに
 投げ落とされたとき、
 彼らは私のいかにも喜ばしいことばを
 聞くことでしょう。(6節)
 人が地を掘り起こして砕くときのように、
 私たちの骨はよみの入口にまき散らされました。(7節)

 旧約聖書の思想の中に確かに、勧善懲悪、善因善果、悪因悪果の願望があるのです。新約の民であっても、同様なことを神に願わないわけではありません。
 しかし、父の御許につないでくださる確かな仲保者・救い主キリストを明確に意識している私たちにとって、悪者が「岩のかたわらに投げ落とされる」のが、必ずしも「今」のことではないのも、「知って」います。悪者が滅びるのは、「終わりの日」かもしれません。

 それは、それでよいのではないでしょうか。
 悪を謀る中に,すでに、悪者は自分がかかることになるワナを掘っているのです。
 私たちはあくまで、神に祈り、神に身を避けるよう促されている。詩篇141篇が示しているのは、祈ることにより、神様のみ翼の陰に入り、悪者の落とし穴から守っていただくよう勧めているのだと思います。

 私の主、神よ。
 まことに、私の目はあなたに向いています。
 私はあなたに身を避けます。
 私を放り出さないでください。(8節)
 どうか、彼らが私に仕掛けたわなから、
 不法を行なう者の落し穴から、
 私を守ってください。(9節)
 私が通り過ぎるそのときに、
 悪者はおのれ自身の網に落ち込みますように。(10節)









posted by さとうまさこ at 09:42| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする