2015年12月11日

Coffee Break詩篇・240 私のたましいを、牢獄から連れ出し、私があなたの御名に感謝するようにしてください。(詩篇142篇1節〜7節)



 ダビデのマスキール。
 彼が洞窟にいたときに。祈り


 私は主に向かい、声をあげて叫びます。
 声をあげ、主にあわれみを請います。(詩篇142篇1節)
 私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、
 私の苦しみを御前に言い表わします。(2節)
 私の霊が私のうちで衰え果てたとき、
 あなたこそ、私の道を知っておられる方です。
 私が歩く、その道に、
 彼らは、私に、わなを仕掛けているのです。(3節)
 私の右のほうに目を注いで、見てください。
 私を顧みる者もなく、
 私の逃げる所もなくなり、
 私のたましいに気を配る者もいません。(4節)

 ダビデの逃亡生活は、Tサムエル記19章から始まります。それに先立つ18節で、サウルがダビデに殺意を抱く過程が描写されています。

 ダビデは、ゴリヤテを倒して一躍イスラエルの英雄になりました。しかし、このことがサウルを苦しめたのです。嫉妬と猜疑にさいなまれたサウルの様子を、聖書は「わざわいをもたらす、神の霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。」と記しています。(Tサムエル記18章7節〜12節)
 ダビデはいつものようにサウルのために琴を弾いていたのですが、そのダビデに、サウルはとつぜん槍を投げつけたのです。ダビデは俊敏な若者だったのでしょう。二度も身をかわして槍を避けました。

 つぎに、サウルはダビデを千人隊の長にして、危険な戦場に派遣しました。討ち死にさせようと思ったからでした。(同17節) しかし、ダビデはどこに行っても大勝利を治め、ますますその人気は高まるのでした。
 そこでサウルは、娘とダビデとの縁組を考えます。始めは姉娘メラブ、つぎに妹娘のミカルとの結婚を持ちだすのです。それは、ペリシテ人の「陽の皮」百をダビデに調達させるためでした。陽の皮(陰茎)を取るとなると、命がけの戦いになります。ダビデが返り討ちに遭う可能性もあります。サウルは、ペリシテ人にダビデを殺させようとしたのです。
 ダビデは、陽の皮二百を用意しただけでなく、ダビデと結婚したミカルは深く夫を愛していました。このこともサウルを憤慨させるのです。

★★★★★

 ひとたび逃亡生活が始まると、王の息子ヨナタンの好意や多くの人たちの間での人気にも拘わらず、ダビデは逃げ回るしかありませんでした。サムエルや祭司アヒメレクのところにも逃げましたが、安全ではありませんでした。ついには、敵であったガテの王アキシュのところに逃れて、結局正体を見破られ、ほうほうのていでそこからも逃げることになります。(同19章、20章)
 
 ほら穴に隠れていたダビデに、討伐に来たサウルが「用を足すために」入ってきた話は、Tサムエル記24章から始まります。息詰まるようなサスペンスあふれる場面です。宿敵であるサウルを打つ絶好の機会が訪れたのです。
 ダビデの部下たちは、「今こそ、主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ』と言われた、その時です」(同4節)と、ダビデに進言するのです。けれども、ダビデは、サウルを殺しませんでした。サウルが「主に油注がれた王」だったからです。
 サウルの着物の裾を切り取って、それを持ってサウルに語りかけるのです。
 
 この場面は、ダビデ物語の中でも最も美しい話ではないでしょうか。どうにもならない生死を分ける場面で、ダビデは、サウルに手をかけることをしませんでした。
 それは、ダビデが日ごろから神に祈り続けていたからこそ出来た選択だったでしょう。

 主よ。私はあなたに叫んで、言いました。
 「あなたは私の避け所、
 生ける者の地で、私の分の土地です。(5節)
 私の叫びに耳を留めてください。
 私はひどく、おとしめられていますから。
 どうか、私を迫害する者から救い出してください。
 彼らは私よりも強いのです。(6節)

 ダビデは、自分の手のうちにあったサウルのいのちを救うことで、ダビデ自身のたましいを、牢獄から救い出したのです。
 危険の中でなお善を選び、「神様が自分を牢獄から連れ出して下さった、感謝します」と言えるダビデになったのです。

 私のたましいを、牢獄から連れ出し、
 私があなたの御名に感謝するようにしてください。
 正しい者たちが私の回りに集まることでしょう。
 あなたが私に良くしてくださるからです。」(7節)

 神に従うダビデの回りには、「その名を慕う者」が多く集まってきました。(Tサムエル記22章2節)




       お知らせ
       さとうまさこ・聖書物語「ワシュティ」「つむじ風の谷・アビガイルとダビデ」「ルツ」の
       ブログ上での掲載は、
       2015年12月10日をもって終了させていただきました。
       5年4カ月にわたって、多くの方が訪問、閲覧して下さったことに、
       改めて感謝を申し上げます。
       なお、聖書通読エッセイCoffee Breakは、今後も続きます。
       引き続き訪問いただけると、感謝です。
                                       主にあって      
                                          さとうまさこ





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2015年12月12日

Coffee Break詩篇・243 あなたのみこころを行なうことを教えてください。(詩篇143篇1節〜12節)



 ダビデの賛歌 

 主よ。私の祈りを聞き、
 私の願いに耳を傾けてください。
 あなたの真実と義によって、私に答えてください。(詩篇143篇1節)

 この詩篇は、とても心を揺さぶられる祈りの言葉で始まっています。
 
 あなたのしもべをさばきにかけないでください。
 生ける者はだれひとり、
 あなたの前に義と認められないからです。(2節)
 敵は私のたましいを追いつめ、
 私のいのちを地に打ち砕き、
 長く死んでいる者のように、
 私を暗い所に住まわせたからです。(3節)
 それゆえ、私の霊は私のうちで衰え果て、
 私の心は私のうちでこわばりました。(4節)

 この祈りに際して、どのような苦しみがダビデを突き動かしていたにせよ、ダビデの神の御前での態度は、模範的信仰者のそれだと思わされるのです。
 神の前に出る時、私たちはだれでも、すがる気持ちと同時に、「恐れ」を感じているのではないでしょうか。訴えごとを持ちだすだけのが自分にあるだろうか、と。逆に、神から裁かれるような身ではないのか。
 なにしろ、「義人はいない。ひとりもいない」と、神ご自身が仰せなのです。
 でも、「敵」が自分を砕き、追いつめるまでは、なかなかこのような祈りには至りません。少なくとも、私などは、調子のよい時は、自分の霊が「衰え果てている」事実を見ることができないのです。

★★★★★

 私は昔の日々を思い出し、
 あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、
 あなたの御手のわざを静かに考えています。(5節)
 あなたに向かって、私は手を差し伸べ、
 私のたましいは、かわききった地のように、
 あなたを慕います。セラ(6節)

 かつて、「救われた」体験は、大切ですね。正しくない自分、暗いところで死んでいるような自分を、救って下さった神さまですから、私は、神に祈り、神をお慕いすることができるのだと思います。
 いま再び、死にそうな自分、穴に落ちそうなときに、詩人がつぎのように訴えるのは当然です。

 主よ。早く私に答えてください。
 私の霊は滅びてしまいます。
 どうか、御顔を私に隠さないでください。
 私が穴に下る者と等しくならないため。(7節)
 朝にあなたの恵みを聞かせてください。
 私はあなたに信頼していますから。
 私に行くべき道を知らせてください。
 私のたましいはあなたを仰いでいますから。(8節)
 主よ。私を敵から救い出してください。
 私はあなたの中に、身を隠します。(9節)

★★★★★

 昨夜、とつぜん、自分が、大きな誤りを犯しているのに気が付きました!
 それは、公然と白日の下にあったのに、しかも、かなり長い期間であったのに、私は、それに気づかなかったのです。
 それは、このエッセイ・詩篇の誤植でした。
 あろうことに、私は詩篇という字をほとんど全部、「詩編」と書いていたのです。昨夜、友人にクリスマスカードを書いていて、ふと、ご降誕の場面ではなく、詩篇23篇を書く気になって手書きで書きはじめたのです。そうして、卒然、自分がタイプでは「詩編」と打って来たのに気が付いたのです。

 Coffee Break・詩篇の連載は、もう241回を数えます。毎日、「詩編」と打っていたのは変換に狎れてしまって、ほとんど誤植に注意を払っていなかったのでしょう。それにしても、調べると、連載の最初の日から間違っていたのです。赤面するといった言葉ではとうてい足りません。恥ずかしくて、打ちひしがれました。文章中のタイプミスはしょっちゅうしています。ことばや文章表現は、それこそいつも何十例も頭を駆け回っているので、ミスをしやすいのです。
 しかし、詩篇という表題は、聖書に由来するもので、絶対に他の字はあり得なかったのです。創世記を、「創生期」などと書いてはいけないのと同じです。
 しかも、ご丁寧に、このミスは、私のほかのブログやフェイスブックで詩篇を紹介する時にも、犯していることでしょう。

 もちろん、読者にお詫びをするのですが、なにより、神様の前にうなだれてしまいました。もう、このような連載をやめようかとも思いました。

 今日の詩篇は、そのような私に、いくらかでもお答えをいただけたと思いました。

 ★★★★★

 あなたのみこころを行なうことを教えてください。
 あなたこそ私の神であられますから。
 あなたのいつくしみ深い霊が、
 平らな地に私を導いてくださるように。(10節)
 主よ。あなたの御名のゆえに、私を生かし、
 あなたの義によって、
 私のたましいを苦しみから連れ出してください。(11節)
 あなたの恵みによって、私の敵を滅ぼし、
 私のたましいに敵対するすべての者を
 消し去ってください。
 私はあなたのしもべですから。(12節)



 神様は、答えて下さったと思います。神さまのみこころは、私が連載を止めることではなく、「間違いを認めて」「自分の『義のなさ』を知って」書きつづけることだ、と。
 神さまの慈しみは、今回初めて願うことではなく、私はそれゆえ、生かされてきたと、改めて思うのです。

 誤植を我慢して、忍耐して、読み続けて下さっている訪問者の方々にも、深くお詫び申し上げます。
 さっそく訂正を始めています。
 今後ともよろしくお願い申し上げます。
                                     さとうまさこ









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2015年12月14日

Coffee Break詩篇・244 ほむべきかな。わが岩である主。(詩篇144篇1節〜5節)



 ダビデによる

 ほむべきかな。わが岩である主。
 主は、戦いのために私の手を、
 いくさのために私の指を、鍛えられる。(詩篇144編1節)
 主は私の恵み、私のとりで。
 私のやぐら、私を救う方。
 私の盾、私の身の避け所。
 私の民を私に服させる方。(2節)

 このような表現は、ダビデのほかの賛美でも出てきます。(Uサムエル記22章2節3節)
 主をほめるレトリックとして広く認識されていたのではないでしょうか。

 ダビデは主(神)に愛された人でした。ダビデが若くして王として油注がれた時、イスラエルには、すでに、サウル王がいたのです。サウル王も、神がイスラエル人の中から選びだされた王であったことを思うと、少し不思議な感じがします。
 なぜなら、このように神に選ばれた人が二人存在していたことは、サウルにもダビデにも苦痛を与えたからです。とつぜん、神の霊が注がれ、またとつぜん取り去られたサウルは、その落差の中で苦しみます。ダビデは、公式にはサウルが死ぬまで王になることはできず、サウルから逃げ回るだけの苦難を経なければなりませんでした。
 神がどうして、このような「むごい」ことをされたのかと、人間の目から見ると、思うのです。

 サウルは、なんといっても好青年でした。謙遜でやさしい人がらでした。王になってからも勇敢でした。彼の人間的過ぎる「やさしさ」が彼にとってはワナになったと言えるほどです。
 サウルが神(サムエル)の怒りを買った大きな事件は二件です。ペリシテとの戦いの出陣で、到着の遅れたサムエルを待つことができないで、自分でいけにえをささげてしまったこと。(Tサムエル記13章5節〜13節)、アマレク人との戦いで、すべての分捕り物の聖絶を命じられていたのに、つまらないものだけ聖絶し、よい物を取っておいたこと。(Tサムエル記15章1節〜23節)
 これはどちらも、神への信仰の根幹を問われています。たとえ、民が恐れて前線から逃亡しても、サウルはサムエルを待たなければなりませんでした。また、聖絶せよと命じられれば、惜しくてもよい物をも聖絶しなければいけなかったのです。
 サウルが、そのようにできなかったのは、神への従順が足りなかったと言うより、「民に気を使った」からです。つまり、「世を見て」しまったのです。
 彼の優しさが足をすくったのでしょう。

 しかしながら、サウルからいのちを狙われて逃亡者として暮らすことで、ダビデは、無邪気でまっすぐな若者から、大人の男へと変貌していきます。かけひきや、人の裏表、自分の弱さを知り。結局は神が味方に付いてくださらなければ何もできないことを学んだのでしょう。
 まさに、神はこのように、人を研ぐため、人を用いられるのかなと思わせられます。

★★★★★

 主よ。人とは何者なのでしょう。
 あなたがこれを知っておられるとは。
 人の子とは何者なのでしょう。
 あなたがこれを顧みられるとは。(3節)
 人はただ息に似て、
 その日々は過ぎ去る影のようです。(4節)

 この詩を読むと、私も、苦しみの原因を人間に見るのではなく、神に向かって祈る必要があることを覚えるのです。

 主よ。あなたの天を押し曲げて降りて来てください。
 山々に触れて、煙を出させてください。(5節) 

 ここを預言であると言えば、言い過ぎかもしれませんが、救い主が天から降りて来られる日のことが、連想される一節です。






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2015年12月15日

Coffee Break詩篇・245 幸いなことよ。主をおのれの神とするその民は。(詩篇144篇5節〜15節)



 ダビデはイスラエル王国の実質的な創始者でした。イスラエル王国が分裂して後、南王国(ユダ王国)が正当なイスラエルの神殿礼拝を引き継いだのは、エルサレムを抱え込むという地理的な有利さだけではなかったでしょう。ダビデの家こそイスラエルの王家であるというのは、いわば、「神のお墨付き」でした。じっさい、ダビデは40年の王位の間に、王国を盤石なものにしたのです。ダビデに、国家を成立させ治めさせる力をお与えになったのは、もとより、神・主です。

 捕囚から帰還した民が、詩編を編むとき、ダビデの歌が数多く再録編纂されました。それは、彼の歌がたんなるほめ歌ではなく、苦しみの中での神体験から生まれた血のにじむような賛美だったからでしょう。

★★★★★

 主よ。あなたの天を押し曲げて降りて来てください。
 山々に触れて、煙を出させてください。(詩篇144篇5節)
 いなずまを放って、彼らを散らし、
 あなたの矢を放って、
 彼らをかき乱してください。(6節)
 いと高き所からあなたの御手を伸べ、
 大水から、また外国人の手から、
 私を解き放し、救い出してください。(7節)

 神が天から降りてくるこのイメージは、シナイ山で神が顕現される情景に似ています。(出エジプト記19章18節) この時、神は警告しておられます。

 主はモーセに仰せられた。「下って行って、民を戒めよ。主を見ようと、彼らが押し破って来て、多くの者が滅びるといけない。」(同21章)

 を慕うイスラエルの民でさえ、の顕現を見ることは危険をともなったのです。ここは、たんに民が押し合いへし合いして、事故を起こし、死ぬといった警告ではないと思います。民が主を見ようとして、前もってもうけられた境を押し破ったり、触れたりすることへの警告なのです。(同12節)
神はとても聖い方ですから、罪のある体で不用意に近づくと、人は「死んでしまう」のです。

 まして、外国人(異教の神を信じる者)など、神の前に生きていることなどできません。ダビデは、たくさんの連戦連勝を経験した人でしたから、実際に勝ちいくさを戦って下さるのは神であることを、よく知っていたのでしょう。

 彼らの口はうそを言い、
 その右の手は偽りの右の手です。(8節)
 神よ。あなたに、私は新しい歌を歌い、
 十弦の琴をもってあなたに、ほめ歌を歌います。(9節)
 神は王たちに救いを与え、
 神のしもべダビデを、悪の剣から解き放されます。(10節)
 私を、外国人の手から解き放し、
 救い出してください。
 彼らの口はうそを言い、
 その右の手は偽りの右の手です。(11節)

 ダビデが二度も、「彼らの口はうそを言い」を繰り返しているのは、祈りの必死さを表しているのだと思います。神は、私たちが訴える前から、異教徒かどうか、嘘つきかどうかなど見通しておられる方なのです。それでも、しつこくそれを訴えているダビデに、神様は微笑を返されたかもしれません。「よし。よし。大丈夫だよ。わたしは、それをするのだから」。

★★★★★

 戦に勝ったら、いのちが尽きたというのでは何にもなりませんね。平和になったら、産物が豊かに取れ、子孫が繁栄し、豊かで望みのある生活を願うのは当然です。

 私たちの息子らが、若いときに、
 よく育った若木のようになりますように。
 私たちの娘らが、宮殿の建物にふさわしく刻まれた
 隅の柱のようになりますように。(12節)
 私たちの倉は満ち、あらゆる産物を備えますように。
 私たちの羊の群れは、私たちの野原で、
 幾千幾万となりますように。(13節)
 私たちの牛が子牛を産み、
 死ぬこともなく、出て行くこともなく、
 また、哀れな叫び声が
 私たちの町にありませんように。(14節)

 幸いなことよ。このようになる民は。
 幸いなことよ。主をおのれの神とするその民は。(15節)

 最後に、この賛美は、神(ヤーウエ)を信じ、神にゆだね、主をおのれの神とする人は、平和と繁栄も期待できると断言しています。






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2015年12月16日

Coffee Break詩篇・246 代は代へと、あなたのみわざをほめ歌い、あなたの大能のわざを告げ知らせるでしょう。(詩篇145篇1節〜7節)



 ダビデの賛美

 私の神、王よ。私はあなたをあがめます。
 あなたの御名を世々限りなく、ほめたたえます。(詩篇145篇1節)


 私たちクリスチャンはいま、待降節の中にいます。神が人となって来られたという降誕の日、それを記念するお祝いを待ちのぞんでいるのです。
 教会では、この行事のために何カ月も前から計画を立て、準備をしています。人間のわざとしてできるのは、クリスマスという名のイベントです。聖歌隊や聖書劇は「その夜」の熱い喜びの声をもり上げます。キャンドルサービスやクリスマスカフェで、参会者が共に楽しむ準備もします。
 もちろん、アドベント(待降節)に入る前に、教会はクリスマスの飾りつけをし、ツリーやリースで装われます。

★★★★★

 キリストは弱弱しい赤ちゃんの姿で、人間の世にお出でになりました。人間マリヤのからだを経て、あたかも、人間であるかのようにお出でになったのです。
 それは、全イスラエル人に待たれていた出来事なのに、それを知っていた人は「ひとにぎり」でした。天が賛美をし天使が告げても、それを見あげることができた人もわずかでした。星の運行にそれを見た人もわずかでした。

 神のわざを見た人は、わずかだったのです。
 けれども、今は、全世界の人がそれを「知って」います。聖書が記した出来事の意味、神が私たちに救い主を下さった事実に、あらためて思いを馳せます。

 日ごとにあなたをほめたたえ、
 あなたの御名を世々限りなく賛美します。(2節)
 主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。
 その偉大さを測り知ることができません。(3節)
 代は代へと、あなたのみわざをほめ歌い、
 あなたの大能のわざを告げ知らせるでしょう。(4節)

 ダビデは、彼自身の体験において、神のふしぎな救いをたくさんいただき、讃美の気持ちは年を経て深くなっていったことでしょう。
 ゴリヤテに立ち向かった時の純真な信仰(Tサムエル記17章45節)に、神が報いて下さったことも、年を経るにしたがって、強く胸に迫って来たでしょう。
 それは、自分が死んだ後も、「代から代へ」と伝えられると確信できるようになっていたはずです。

 私は栄光輝くあなたの主権と、
 あなたの奇しいわざに思いを潜めます。(5節)
 人々はあなたの恐ろしいみわざの力を語り、
 私はあなたの偉大さを述べるでしょう。(6節)
 人々はあなたの豊かないつくしみの思い出を
 熱心に語り、
 あなたの義を高らかに歌うでしょう。(7節)

 ダビデの家にキリストが降誕される栄誉が与えられたのは、なるほど、当然と言えば当然だったと思うのです。
 






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