2015年12月22日

Coffee Break詩篇・252 聖徒たちは栄光の中で喜び勇め。(詩篇149篇1節〜9節)



 ハレルヤ。
 主に新しい歌を歌え。
 聖徒の集まりで主への賛美を。(詩篇149篇1節)
 イスラエルは、おのれの造り主にあって喜べ。
 シオンの子らは、おのれの王にあって楽しめ。(2節)
 踊りをもって、御名を賛美せよ。
 タンバリンと立琴をかなでて、主にほめ歌を歌え。(3節]
 主は、ご自分の民を愛し、
 救いをもって貧しい者を飾られる。(4節)

 ちょうどクリスマスウィークの真っただ中で、ハレルヤ詩編を味わえるなんて、まさに神さまのお恵みです。感謝です。
 いまは、イエス様のご降誕に思いを馳せているのですが、イエス様は神様ご自身ですから、三位一体の神のおひとりの位格として世に降された方ですから、これを喜ばないわけにはいきません。

                    
 
 旧約の時代には、誰でも神様に近づくというわけにはいきませんでした。神様は、神様の選びとして、身分の上下、男女、子ども、老人の区別なく、声をお掛けになって使命をお与えになっています。イスラエルの民だけでなく、まだ、イスラエルが存在しなかった時代にさえ、ノアを選んで箱舟に入れて彼とその家族を助けたのです。
 それでも、多くの人は、どのようにしたら神にお会いできるのか、どこでお会いできるのか、知りませんでした。

 「神を見た者は死ぬ」と言われていたのです。事実、ノアも神の声を聞いたのであって、直接顔と顔を見合わせて、命令を受けたのでないことは、聖書を読めば推測できます。
 アブラハムも神の声を聞き、また、神の使いと会って話をしていますが、あくまで、「神の使い(みつかい)」でした。イサクもヤコブも同様です。

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 神は、モーセとは、「顔と顔を会わせて」お語りになったと書かれています。しかも、モーセを召し出されてから死ぬまで、四十年間、つねにモーセにお語りになっておられたのです。
ホレブの山で、燃える芝の中から、モーセを呼ばれた時から、シナイ契約を締結するまでの出エジプトの息詰まるような一瞬一瞬、神はモーセとまるで二人三脚をしておられるかのようにぴったりと寄り添い、モーセの働きを導き支えておられます。
 やがて、幕屋を作るよう命じられ、祭司職を任じられ、幕屋の至聖所で大祭司だけは、犠牲を持って神にお伺いを立てる制度ができた後も、神様にとって、モーセは大祭司アロンとは別格だったのです。

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 神の救いの歴史を振り返っていると,感慨が尽きません。詩編の時代の人々が「ハレルヤ」と歌う喜びを味わったのは、彼らイスラエルの歴史を「知っている」からです。
 聖徒たちと呼ばれ、神の栄光の中にある者は、神を称賛しないではいられません。
 
 まして、いま、私たちは、もっと大きな栄光の中にいます。
 私たちはみんな、イエス様を信じる信仰だけで救われ、それぞれに聖所をいただき、何の犠牲をささげることなく,神様の御前に出ることができるのです。夜寝床にいる時も、朝、太陽を仰ぐときも、仕事でくたくたの時も、神様(イエス様)は私にもぴったりと寄り添って下さっているのだと思うと、クリスマスを喜ばないではいられません。

 聖徒たちは栄光の中で喜び勇め。
 おのれの床の上で、高らかに歌え。(5節)
 彼らの口には、神への称賛、
 彼らの手には、もろ刃の剣があるように。(6節)
 それは国々に復讐し、国民を懲らすため、(7節)
 また、鎖で彼らの王たちを、
 鉄のかせで彼らの貴族たちを縛るため。(8節)
 また書きしるされたさばきを
 彼らの間で行なうため。
 それは、すべての聖徒の誉れである。
 ハレルヤ。(9節)










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2015年12月23日

Coffee Break詩篇・253 息のあるものはみな、主をほめたたえよ。(詩篇150篇1節〜6節)



 いよいよ詩篇も最後になりました。八か月以上もの間、毎朝詩編を開いていたのだと思うと、感慨があります。
 ほかの聖書の言葉を読むときも、いつも「足がすくむような」恐れがありました。何か「開かずの間」の扉を開けるようなときめきと気の重さ。でも、それゆえに、引き込まれる強い磁場と言えば、聖書に失礼でしょうか。

 詩編は、特に日本人に人気があるそうです。人から神に向かう時の祈り、そのすべてがここに表出されているからでしょう。賛美歌ですが、今日私たちが教会で歌う賛美をはみ出していることばがたくさんあります。

 人生の辛酸を生きたダビデ、またしばしば信仰につまづいたイスラエルの民の捕囚経験後の感慨は、今日の私たちの「人生の味」とはまるで異なっているのかもしれません。
 読む前から、「詩編の世界に」届かないに違いないという恐れがありました。

 でも、今、「そんなに怖がらなくてもよかったでしょう」とささやく声が聞こえます。

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 ハレルヤ。
 神の聖所で、
 神をほめたたえよ。
 御力の大空で、
 神をほめたたえよ。(詩篇150篇1節)
 その大能のみわざのゆえに、
 神をほめたたえよ。
 そのすぐれた偉大さのゆえに、
 神をほめたたえよ。(2節)

 シミだらけの布を染料の液に浸して引き揚げたように、たしかに、自分の心がこれまでと違う色で染め上げられているのです。
 「ハレルヤ」です。心の底から気おくれなく、精一杯の大声で、大空に向かって「ハレルヤ!!」と叫んでいます。

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 角笛を吹き鳴らして、
 神をほめたたえよ。
 十弦の琴と立琴をかなでて、
 神をほめたたえよ。(3節)
 タンバリンと踊りをもって、
 神をほめたたえよ。
 緒琴と笛とで、
 神をほめたたえよ。(4節)
 音の高いシンバルで、
 神をほめたたえよ。
 鳴り響くシンバルで、
 神をほめたたえよ。(5節)

 不思議ですね。今日ある楽器のほとんどが、聖書時代に(あるいは太古から)既に存在していたのです。吹奏楽器、弦楽器、打楽器という楽器の原型は、そのまま今日の多様な楽器となって美しい音楽を奏でています。ピアノやオルガンでさえ、これらの発展形です。シンセなども、これらの音色を電気とコンピュータ技術を使って再現しているわけです。

 音の基本は、空気の振動だと習った時の感動は忘れることができません。どんなに素晴らしい竪琴の音も、心を奮い立たせるシンバルの響きも、空気を伝わって耳に届くのです。
 空気を震わせるものなら、たとえ、コップや鍋でも楽器になるでしょう。

 私たちもまた、生まれながらにして体に楽器を装備しています。喉を通る空気が声帯を振動させ、声を出します。声は、ふつうは人間同士のコミュニケーションに使われと思っているのですが、同時にすばらしい楽器ですね。
 ですから、詩編の最後の最後はつぎの言葉で、締めくくられているのでしょう。

 息のあるものはみな、
 主をほめたたえよ。
 ハレルヤ。(6節)

 感謝!!










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2015年12月24日

Coffee Break箴言1 主を恐れることは知識の始めである。(箴言1章1節〜7節)



 さあ、いよいよ箴言(しんげん)です。知恵文学という範疇に一番近いのが、箴言かもしれません。ことわざ、格言として、一般的な名詞としても使われます。ここでは、聖書の一書、ソロモンが自分の子どもたちや宮廷の官吏・高官の教育用にまとめたものと言われています。
 聖書の文書の中では、箴言はその趣旨がわかりやすく、倫理的な正しさとも重なるので、とくに多くのキリスト者に愛されているのではないでしょうか。

 イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。(箴言1章1節)
 これは、知恵と訓戒とを学び、
 悟りのことばを理解するためであり、(2節)
 正義と公義と公正と、
 思慮ある訓戒を体得するためであり、(3節)
 わきまえのない者に分別を与え、
 若い者に知識と思慮を得させるためである。(4節)
 知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、
 悟りのある者は指導を得る。(5節)
 これは箴言と、比喩と、
 知恵のある者のことばと、そのなぞとを
 理解するためである。(6節)

 ここまでは前置きです。表題が引き伸ばされて内容が紹介されています。

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 つぎに、箴言の主題が、ただ一言で示されています。

 主を恐れることは知識の初めである。

 主(しゅ=聖書の神)を恐れることが、どれほど大切かを、箴言はいきなり、端的に宣言します。本当に胸を衝かれる言葉です。知識は、任意に自由にいくらでも手に入るように思える時もあります。親や教師は子どもに多くを教え、聞かせます。図書館に行けば、何世代かけても読み切れない山のような本がありますし、ネットを含むメディアは、それにもまして、多くの情報を提供してくれます。
 しかし、知識と思われるものの中には、「どうでもよいもの」「適切に用いられなければ意味をなさない物が」「嘘、いつわり」も多く含まれているのです。
 問題は、その知識が、主の前でどのような意味をもつのか、主の御目を通して生きるような知識であるかどうかです。

 たとえば、よく切れる包丁です。料理をする人ならだれでも「良い包丁」を持ちたいし、包丁の使い方を覚えたいのです。けれども、どんなによく切れる包丁でも使い方を間違えば、ケガをします。場合によっては人殺しの道具にもなります。神を恐れていなければ、りっぱな道具が簡単に凶器になってしまうのです。そのようなものを持っていても、「知識がある」とは言えないのです。
 弁護士や医者の資格、教師の資格、大学教授の研究成果などは、貴重な価値があります。しかし、それ自体では知識とは言えないのではないでしょうか。あらゆる知識や技術は「主を恐れる」ことによって、本物の知識になるのです。

 「主を恐れる」ことは、生まれながらの人間には備わっていないのです。無垢であることと、神を知ることとは、別物です。
 ですから、私たちは知識と同じくらい、「心構え」を教えられます。偶像信仰であった日本人の文化の中でさえ、子供は教えられたのです。「お天道さまが見ている」。

 神さまの目を意識して、初めて,知識は生きたものとなるので、親や教師は子どもを「教育するのです。しかし、これが人間にとって、何とも「具合の悪い」気分になることが多いのです。

 愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。(7節)





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2015年12月25日

Coffee Break箴言2 わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。(箴言1章7節〜19節)



 主を恐れることは知識の初めである。
 愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。(7節)


 イスラエルのような父系制の社会では、教育は、原則として父の責任でした。父がいない場合は、親族の年長の男性、氏族や部族の長でした。もちろん、彼らすべての父は、「イスラエルの神」「父なる神」でした。
 人はとても知能の高い動物ですから、生まれながらに学習能力があります。食物や衣服を与えられ、人間社会で養われれば、心身の成長につれて言葉を覚え、人間関係を飲みこみ、自分がしなければならない作業や仕事さえ習得します。衣食を得るために何をしなければならないかを覚えるのです。生きるための方便は犬や猫でも覚えるのですから、「食物を取り方」を覚えただけでは、人間とは言えません。繁殖行動や防衛行動も同じです。

 人間が人間であるためには、本能的な行動でさえ、知識と知恵でより高い次元に収れんされる必要があります。食物を分け合う、弱い人の立場を思いやる、性欲のためだけではなく愛をもって結婚する。過剰な憎しみや報復を自制するなど、です。その同じ心が、子供を愛を持って養育し、老親をいたわり、仲間や社会を愛し、敵でさえ愛することに繋がって行くのです。
 ふつう、それを教えるのは両親です。両親は子どもに、十分な食物と衣服を与えていれば済むのではありません。ゲームやおもちゃ、高価な学習教材を与えるだけでも不十分です。与えられた者が十分生きるためにも、人間としてどう生きるかを訓戒しなければなりません。神を恐れることを教えなければなりません。

 わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。
 あなたの母の教えを捨ててはならない。(8節)
 それらは、あなたの頭の麗しい花輪、
 あなたの首飾りである。(9節)
 わが子よ。罪人たちがあなたを惑わしても、
 彼らに従ってはならない。(10節)

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 一人の子どもが成長するまでには、数々の誘惑があります。まさに、カインに対してそうであったように、罪は戸口で待ち伏せしているのです。(創世記4章7節)

 もしも、彼らがこう言っても。「いっしょに来い。
 われわれは人の血を流すために待ち伏せし、
 罪のない者を、理由もなく、こっそりねらい、(11節)
 よみのように、彼らを生きたままで、のみこみ、
 墓に下る者のように、
 彼らをそのまま丸のみにしよう。(12節)
 あらゆる宝物を見つけ出し、
 分捕り物で、われわれの家を満たそう。(13節)
 おまえも、われわれの間でくじを引き、
 われわれみなで一つの財布を持とう。」(14節)

 私が驚くのは,例えば、よく聞く「いじめ」などでも、一人が一人をいじめたのではないのですね。一対一ではなく明らかに、一人のターゲットを複数の者たちが狙って犠牲にしているのです。
 子どもは弱い存在なので、ふつうの子が誘われて悪に走りやすいのです。

 わが子よ。彼らといっしょに道を歩いてはならない。
 あなたの足を
 彼らの通り道に踏み入れてはならない。(15節)
 彼らの足は悪に走り、
 血を流そうと急いでいるからだ。(16節)
 鳥がみな見ているところで、
 網を張っても、むだなことだ。(17節)

 鳥は、「父の教えに従う賢い者」と解釈するのがよいようです。(新実用聖書注解・いのちのことば社) 賢いものは父の訓戒をよく知っているので、誘惑には陥らないのです。

 彼らは待ち伏せして自分の血を流し、
 自分のいのちを、こっそり、
 ねらっているのにすぎない。(18節)
 利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。
 こうして、持ち主のいのちを取り去ってしまう。(19節)

 結局、悪人は、自分の悪を見透かされて失敗し、みずから命を失うと警告されているのです。


       ★聖書は、新改訳聖書を使っています。





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2015年12月26日

Coffee Break箴言3 知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、(箴言1章20節〜33節)




 知恵は、ちまたで大声で叫び、
 広場でその声をあげ、(20節)
 騒がしい町かどで叫び、
 町の門の入口で語りかけて言う。(21節)

 知恵と知識は違いますね。英語で、wisdom、knowledgeと使い分けられているようです。広辞苑は、基本的な意味として、知恵は、「物事の理を悟り、適切に処理する能力」。知識は、ある「事柄について知っていること、また、その内容」と定義しています。

 包丁で言えば、よく切れるすばらしい包丁を作る方法、それについての人間が積み上げてきた様々なノウハウ、その結果として存在する便利な用具のことでしょう。知恵はそれをいかに有効に上手に使うかという心の働きでしょうか。
 どれほどりっぱな用具が作れても、持っていても、それを適切に使えないなら、どれほどの知識の集積でも「悪」になり得ます。そのような例は、枚挙にいとまがありません。

 少量なら薬になる物質が、使い方次第で麻薬に変わります。銃器や火器は、人助けで発明された者なのに、多くの人を殺してきました。インターネットで知識を得ることはできますが、「賢くなる」方法は別にあるのではないでしょうか。ケータイやPCなど、通信手段は普及したのに、かえって、意味のないつながりに煩わされ、たとえばネット上でからかわれたことで、「いじめ」が大規模になるとしたら、機器は危機を作りだす道具になっているだけです。
 知識は、知恵とセットになって初めて生かすことができるのでしょう。

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 「わきまえのない者たち。
 あなたがたは、いつまで、
 わきまえのないことを好むのか。
 あざける者は、いつまで、あざけりを楽しみ、
 愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。(22節)
 わたしの叱責に心を留めるなら、
 今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、
 あなたがたにわたしのことばを知らせよう。(23節)

 神さまがいつも共にいて下さるというのは、私たちキリスト者の平安の源だと思います。
 幼子がいつも親の視線の中で、親の手を握り締め、よろけても親に支えられて歩む。火事や洪水で死ぬしかない時でも親は子どもを懐深く抱いて守ります。そのように、神様が自分を守って下さると信じられるのです。
 けれども、もちろん、親は「叱る」人間でもあります。「危ない!」「いけません」「やめなさい」と一度も言われたことなく育つ子供などいるでしょうか。ロボットでない人間の子どもは、知恵がつき始めると、「いろいろ試し、確かめる」のです。危険や邪悪にさえ、魅了されるのです。
 とうぜん、親は叱って矯正しなければなりません。にもかかわらず、その幼児性、邪悪な本能は、消えていくわけではありません。ただ、分別がついていくだけで、やっぱりちょっと外れたことをする可能性はあるのです。「誘惑する者がいつもささやきかけている」のだから、当然です

 大人になったとき、この「誘惑する者」のワナを警告してくれるのが神さまではないでしょうか。そう! カインに警告して下さったように、神様はいつも呼びかけ、注意をしてくださっていると、箴言は私に「呼びかけ」ます。

 わたしが呼んだのに、あなたがたは拒んだ。
 わたしは手を伸べたが、顧みる者はない。(24節)
 あなたがたはわたしのすべての忠告を無視し、
 わたしの叱責を受け入れなかった。(25節)

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 創世記の時代、弟殺しのカインに対して、それでも、神様は許して下さいました。神様はカインがほかの人に殺されないように額にしるしをつけて下さって、ノデの地に追放されたのです。
 しかし、箴言が書かれた時代の神様は、人に、もっと厳しい警告を与えています。
 たとえ、泣いて詫びを入れて神に叫んでも、「わたしは答えない」と仰せなのです。

 それで、わたしも、
 あなたがたが災難に会うときに笑い、
 あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう。(26節)
 恐怖があらしのようにあなたがたを襲うとき、
 災難がつむじ風のようにあなたがたを襲うとき、
 苦難と苦悩があなたがたの上に下るとき、(27節)
 そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、
 わたしは答えない。
 わたしを捜し求めるが、
 彼らはわたしを見つけることができない。(28節)

 その理由が、つぎに語られます。

 なぜなら、彼らは知識を憎み、
 主を恐れることを選ばず、(29節)
 わたしの忠告を好まず、
 わたしの叱責を、ことごとく侮ったからである。(30節)
 それで、彼らは自分の行ないの実を食らい、
 自分のたくらみに飽きるであろう。(31節)
 わきまえのない者の背信は自分を殺し、
 愚かな者の安心は自分を滅ぼす。(32節)

 滅びは自業自得であると宣告されているような厳しい言葉を、どうとらえるべきでしょうか。
 これは「神の民イスラエル」の若者に対して、その自覚を促すためにも、ここまで厳しくなったのかもしれません。イスラエルはすでに、奴隷から救い出されるという大きな「開放と救い」を体験しているのですから、救い主が生まれる民族としての任務があるのですから、当然だったのでしょうね。

 しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、
 わざわいを恐れることもなく、安らかである。」(33節)









posted by さとうまさこ at 10:38| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする