2015年12月05日

Coffee Break詩篇・234 私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。(詩篇139篇1節〜12節)



 指揮者のために。ダビデの賛歌

 主よ。あなたは私を探り、
 私を知っておられます。(詩篇139篇1節)
 あなたこそは私のすわるのも、
 立つのも知っておられ、
 私の思いを遠くから読み取られます。(2節)
 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、
 私の道をことごとく知っておられます。(3節)

 詩篇139篇は、神様がどういうお方であるのかをよく「知っている」人の祈りです。
 もちろん、「ダビデの賛歌」なのですが、これを詩篇に組み入れた人々も、同じ認識だったでしょう。神様は、私を知っておられる、立つのも座るのも知っておられ、遠くからでも思いを読み取られ、歩みも伏すのも見守っておられると言うのです。

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 ある人が教会を離れてしまい、住まいもに遠くへ引っ越してしまいました。理由は、彼が「警察の厄介になるような罪」を犯したからです。彼は短い期間ですが服役し、罪を償ったのですが、自分を恥じたのでしょう。また、自分の人生の汚点を消したかったのでしょう。そのためには、教会からも地域からも友人からも親族からさえ、見えないところに行く必要があると考えたようです。

 彼の事件を知っているのは、教会でも、牧師のほか、ほんの一人か二人でした。もとより秘密は守られていて噂にもなっていなかったし、彼が戻って来ても不在の理由を根ほり葉ほり聞くような人はいないはずでした。
 しかし、彼は、自分を「知っている」誰とも会いたくないと思ったようです。
 自分を知っている人がひとりもいないところへ行けば、真っさらの自分としてやり直せる――。

 しかし、このような彼を、私たちは笑うことはできません。時々、「何もかも捨てて、どこか遠くへ行ったしまいたい」と一度も思ったことがない人は、さほど多くないと思います。
 そんなときの心理は、「わずらわしい世間から逃れたい」「仕事の重圧に耐えられない」「たくさんの失敗を忘れて、一からやり直したい」。理由はつきますが、けっきょく、自分の恥を知っている者たちから逃げたい――自分から逃げたいということではないでしょうか。

 自分の醜さや非力や罪の性質は、人の目に容赦なく焼き付けられているわけです。自分を合理化して言い訳することはできますが、実際に真っさらにできるわけではありません。それならば、自分を「覚えている人たち」の前から消えることが、まだしも自分をリセットするような気がするのかもしれません。

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 あるアメリカの作家が言いました。「どこまで行っても自分と道連れ」。
 これは、もっと本質的な言い換えができます。
どこまで行っても、神様と道連れ」です。

 ダビデが歌ったように、神様は、「私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知って」おられます。
 
 ことばが私の舌にのぼる前に、
 なんと主よ、
 あなたはそれをことごとく知っておられます。(4節)
 あなたは前からうしろから私を取り囲み、
 御手を私の上に置かれました。(5節)
 そのような知識は私にとって
 あまりにも不思議、
 あまりにも高くて、及びもつきません。(6節)

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 私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。
 私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。(7節)
 たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、
 私がよみに床を設けても、
 そこにあなたはおられます。(8節)
 私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、(9節)
 そこでも、あなたの御手が私を導き、
 あなたの右の手が私を捕えます。(10節)

 私たちはたしかに、逃げ隠れすることもできます。また、自分で自分の問題をリセットした気分にもなれます。けれども、神様からは、逃げることはできないと、この詩は繰り返します。

 たとい私が
 「おお、やみよ。私をおおえ。
 私の回りの光よ。夜となれ。」と言っても、(11節)
 あなたにとっては、やみも暗くなく
 夜は昼のように明るいのです。
 暗やみも光も同じことです。(12節)

 全知全能の神さまから逃れる道はありません。その理由が、このあと述べられます。



posted by さとうまさこ at 10:45| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする