2015年12月07日

Coffee Break詩篇・236 私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139篇19節〜24節)



 ダビデは、神を心から信頼していたと思うのです。神がいつも、ダビデを見守り、ダビデのすべてを「知っておられる」(詩篇139篇2節)ことを喜んでいる人です。
 彼のような神との「愛の関係」を私も見習いたいと思うのです。たんに神様を大好きであるだけでなく、信仰者なら、神様からご覧になった自分が「神に似た者」だと思ってもらいたい、そんな望みがどこかにないでしょうか。
 だから、私も時々嘘をついてしまします。すごく憎い人を、祈るときには「憎い人だから罰してほしい」とは言えないのです。むしろ、「許します」と言いかねません。

 ところが、ダビデは、言います。

 神よ。どうか悪者を殺してください。
 血を流す者どもよ。私から離れて行け。(詩篇139篇19節)
 彼らはあなたに悪口を言い、
 あなたの敵は、みだりに御名を口にします。(20節)
 主よ。
 私は、あなたを憎む者たちを憎まないでしょうか。
 私は、あなたに立ち向かう者を
 忌みきらわないでしょうか。(21節)
 私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。
 彼らは私の敵となりました。(22節)

 確かに、ダビデには、「あわや命を失う」と言えるような危機一髪の局面は何度もありました。若くて汚れない信仰心の持主、イスラエルの若きエースだったダビデが、ある日、大した落ち度もなく苦境に陥るのです。それは、神から見捨てられ「神の霊が離れた」ダビデの主君サウルの暴虐でした。
 突然いのちを狙われて逃げ回るダビデが、同じ神を信じる同胞たちに追いつめられ、同胞を「殺して下さい」と願ったことも一度ならずあったのでしょう。

 確かに、例えば、今日のキリスト教会でも、同じ信仰をもつ兄弟姉妹で対立することがあるのだから、気持ちはわかると言う人もいるかもしれません。
 でも、大部分のクリスチャンは、このような詩編の「激しさ」にちょっと辟易としないでしょうか。

★★★★★

 「神よ。どうか悪者を殺して下さい」というダビデの祈りに、神が同お答えになったかは、書かれていません。
 私の想像ですが、神はお答えにならなかったのかもしれません。あるいは、自分の胃の利の激烈さに、ダビデは、もう一言付け加えなければならないと思ったのかもしれません。

 神よ。私を探り、私の心を知ってください。
 私を調べ、私の思い煩いを知ってください。(23節)
 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、

「ねえ。私の立場や気持ちもわかって下さいよ。私の苦しみを聞いてくださいよ」
 人に、苦境を愚痴ったあと、思ったほどの好意を得られないと、つい、つけ加えて言いたくならないでしょうか。ダビデは、「自分が痛んでいると認めて下さい。」と言います。

 ただし、彼は、もう一度、「悪者を殺して下さい」とは言いません。
 代わりに次のように願うのです。

 私をとこしえの道に導いてください。(24節)

 「とこしえの道」は、今の私たちにとっては、「神と共にある永遠のいのち」です。ダビデは、祈っているうちに、敵の滅び等問題ではなくなっていったようです。大事なのは、自分が救われることだと気が付いたと、筆者は考えるのです。









posted by さとうまさこ at 10:11| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする