2015年12月09日

Coffee Break詩篇・238 正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。(詩篇141編1節〜5節)



 ダビデの賛歌

 主よ。私はあなたを呼び求めます。
 私のところに急いでください。
 私があなたに呼ばわるとき、
 私の声を聞いてください。(詩篇141篇1節)
 私の祈りが、御前への香として、
 私が手を上げることが、夕べのささげ物として
 立ち上りますように。(2節)

 Tサムエル記には、ダビデがイスラエル一の人気者から、一転、お尋ね者になって逃げ回る変転が、鮮やかに語られています。主の霊が離れたサウルの、嫉妬と猜疑と憎しみの対象となってしまったからです。(Tサムエル記17章〜20章)
 
突然追っ手に押しかけられたダビデは、妻ミカルの機転で、なんとか自宅の窓から逃げだしました。しかし、着の身着のままで、食物も武器もなく、祭司に嘘を付いてささげ物から下げたパンをもらうほど、切羽詰まっていました。(同20章21章)

 そうなのです。豊かに主にささげるダビデのような人でさえ、苦境にあってて全焼のいけにえも和解のいけにえもささげることができなかったのです。ですから、「手を上げる」ことが、ささげ物になりますように」と唱えているのです。

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 主よ。私の口に見張りを置き、
 私のくちびるの戸を守ってください。(3節)
 私の心を悪いことに向けさせず、
 不法を行なう者どもとともに、
 悪い行ないに携わらないようにしてください。
 私が彼らのうまい物を
 食べないようにしてください。(4節)

 苦境にある時は、ついその原因を作った人間の悪口を言いたくなりますね。ダビデも、きっとその誘惑に駆られたことでしょう。自分になんの落ち度もないのに、サウル王は、彼の命を狙い、追い回すのです。でも、悪を持って悪に報いるのは、相手の流儀に巻き込まれることです。それこそ、人と人を戦わせてほくそ笑むサタンの思うつぼです。

 正しい者が愛情をもって私を打ち、
 私を責めますように。
 それは頭にそそがれる油です。
 私の頭がそれを拒まないようにしてください。
 彼らが悪行を重ねても、なおも私は祈ります。(5節)

 でも、世の中は捨てたものではありません。宇宙とこの世は、基本的には神が支配しておられるのです。正しい人もたくさんいます。私が、堕落しそうになる時、厳しい言葉でいさめてくれる友がいるはずです。

 自分が「打たれる」かどうかは、問題ではないでしょう。自分を打つ言葉やむちが愛情であるかどうかが、問題なのです。
 愛の言葉で頭から油を注いでもらう機会があったら、たとえ、びしょびしょになっても感謝ですね。
 そのような正しい友がいる人は、人の悪に巻き込まれることはないでしょう。うまい話や調子よく生きている人を見て、祈ることもできます。

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 今日の詩篇は、自分の身に置き換えることができる言葉でした。
 いつも空手で主の前に出るしかないのです。手を高く上げて、ささげ物のかおりに代えていただけるとは、なんという「あわれみ」でしょう。さらに、今は、キリストがささげ物になってくださった新約の時代です。二重の恵みに、感謝してもしきれません。
 
 そして、私の祈りを、神様は答えて下さったのです。正しい友が、厳しい言葉で私を打って下さったのです。苦しいほどの油の注ぎを受けた私は、自分を金縛りにしていたもやもやした縄目が溶けていくのを見たのです。

 そうして、ようやく、「悪業を重ねる」者(サタン)に対しても、祈れるようになったと思います。
   感謝!!







posted by さとうまさこ at 09:34| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする