2015年12月14日

Coffee Break詩篇・244 ほむべきかな。わが岩である主。(詩篇144篇1節〜5節)



 ダビデによる

 ほむべきかな。わが岩である主。
 主は、戦いのために私の手を、
 いくさのために私の指を、鍛えられる。(詩篇144編1節)
 主は私の恵み、私のとりで。
 私のやぐら、私を救う方。
 私の盾、私の身の避け所。
 私の民を私に服させる方。(2節)

 このような表現は、ダビデのほかの賛美でも出てきます。(Uサムエル記22章2節3節)
 主をほめるレトリックとして広く認識されていたのではないでしょうか。

 ダビデは主(神)に愛された人でした。ダビデが若くして王として油注がれた時、イスラエルには、すでに、サウル王がいたのです。サウル王も、神がイスラエル人の中から選びだされた王であったことを思うと、少し不思議な感じがします。
 なぜなら、このように神に選ばれた人が二人存在していたことは、サウルにもダビデにも苦痛を与えたからです。とつぜん、神の霊が注がれ、またとつぜん取り去られたサウルは、その落差の中で苦しみます。ダビデは、公式にはサウルが死ぬまで王になることはできず、サウルから逃げ回るだけの苦難を経なければなりませんでした。
 神がどうして、このような「むごい」ことをされたのかと、人間の目から見ると、思うのです。

 サウルは、なんといっても好青年でした。謙遜でやさしい人がらでした。王になってからも勇敢でした。彼の人間的過ぎる「やさしさ」が彼にとってはワナになったと言えるほどです。
 サウルが神(サムエル)の怒りを買った大きな事件は二件です。ペリシテとの戦いの出陣で、到着の遅れたサムエルを待つことができないで、自分でいけにえをささげてしまったこと。(Tサムエル記13章5節〜13節)、アマレク人との戦いで、すべての分捕り物の聖絶を命じられていたのに、つまらないものだけ聖絶し、よい物を取っておいたこと。(Tサムエル記15章1節〜23節)
 これはどちらも、神への信仰の根幹を問われています。たとえ、民が恐れて前線から逃亡しても、サウルはサムエルを待たなければなりませんでした。また、聖絶せよと命じられれば、惜しくてもよい物をも聖絶しなければいけなかったのです。
 サウルが、そのようにできなかったのは、神への従順が足りなかったと言うより、「民に気を使った」からです。つまり、「世を見て」しまったのです。
 彼の優しさが足をすくったのでしょう。

 しかしながら、サウルからいのちを狙われて逃亡者として暮らすことで、ダビデは、無邪気でまっすぐな若者から、大人の男へと変貌していきます。かけひきや、人の裏表、自分の弱さを知り。結局は神が味方に付いてくださらなければ何もできないことを学んだのでしょう。
 まさに、神はこのように、人を研ぐため、人を用いられるのかなと思わせられます。

★★★★★

 主よ。人とは何者なのでしょう。
 あなたがこれを知っておられるとは。
 人の子とは何者なのでしょう。
 あなたがこれを顧みられるとは。(3節)
 人はただ息に似て、
 その日々は過ぎ去る影のようです。(4節)

 この詩を読むと、私も、苦しみの原因を人間に見るのではなく、神に向かって祈る必要があることを覚えるのです。

 主よ。あなたの天を押し曲げて降りて来てください。
 山々に触れて、煙を出させてください。(5節) 

 ここを預言であると言えば、言い過ぎかもしれませんが、救い主が天から降りて来られる日のことが、連想される一節です。






posted by さとうまさこ at 10:43| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする