2015年12月24日

Coffee Break箴言1 主を恐れることは知識の始めである。(箴言1章1節〜7節)



 さあ、いよいよ箴言(しんげん)です。知恵文学という範疇に一番近いのが、箴言かもしれません。ことわざ、格言として、一般的な名詞としても使われます。ここでは、聖書の一書、ソロモンが自分の子どもたちや宮廷の官吏・高官の教育用にまとめたものと言われています。
 聖書の文書の中では、箴言はその趣旨がわかりやすく、倫理的な正しさとも重なるので、とくに多くのキリスト者に愛されているのではないでしょうか。

 イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。(箴言1章1節)
 これは、知恵と訓戒とを学び、
 悟りのことばを理解するためであり、(2節)
 正義と公義と公正と、
 思慮ある訓戒を体得するためであり、(3節)
 わきまえのない者に分別を与え、
 若い者に知識と思慮を得させるためである。(4節)
 知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、
 悟りのある者は指導を得る。(5節)
 これは箴言と、比喩と、
 知恵のある者のことばと、そのなぞとを
 理解するためである。(6節)

 ここまでは前置きです。表題が引き伸ばされて内容が紹介されています。

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 つぎに、箴言の主題が、ただ一言で示されています。

 主を恐れることは知識の初めである。

 主(しゅ=聖書の神)を恐れることが、どれほど大切かを、箴言はいきなり、端的に宣言します。本当に胸を衝かれる言葉です。知識は、任意に自由にいくらでも手に入るように思える時もあります。親や教師は子どもに多くを教え、聞かせます。図書館に行けば、何世代かけても読み切れない山のような本がありますし、ネットを含むメディアは、それにもまして、多くの情報を提供してくれます。
 しかし、知識と思われるものの中には、「どうでもよいもの」「適切に用いられなければ意味をなさない物が」「嘘、いつわり」も多く含まれているのです。
 問題は、その知識が、主の前でどのような意味をもつのか、主の御目を通して生きるような知識であるかどうかです。

 たとえば、よく切れる包丁です。料理をする人ならだれでも「良い包丁」を持ちたいし、包丁の使い方を覚えたいのです。けれども、どんなによく切れる包丁でも使い方を間違えば、ケガをします。場合によっては人殺しの道具にもなります。神を恐れていなければ、りっぱな道具が簡単に凶器になってしまうのです。そのようなものを持っていても、「知識がある」とは言えないのです。
 弁護士や医者の資格、教師の資格、大学教授の研究成果などは、貴重な価値があります。しかし、それ自体では知識とは言えないのではないでしょうか。あらゆる知識や技術は「主を恐れる」ことによって、本物の知識になるのです。

 「主を恐れる」ことは、生まれながらの人間には備わっていないのです。無垢であることと、神を知ることとは、別物です。
 ですから、私たちは知識と同じくらい、「心構え」を教えられます。偶像信仰であった日本人の文化の中でさえ、子供は教えられたのです。「お天道さまが見ている」。

 神さまの目を意識して、初めて,知識は生きたものとなるので、親や教師は子どもを「教育するのです。しかし、これが人間にとって、何とも「具合の悪い」気分になることが多いのです。

 愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。(7節)





posted by さとうまさこ at 10:49| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする