2015年12月26日

Coffee Break箴言3 知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、(箴言1章20節〜33節)




 知恵は、ちまたで大声で叫び、
 広場でその声をあげ、(20節)
 騒がしい町かどで叫び、
 町の門の入口で語りかけて言う。(21節)

 知恵と知識は違いますね。英語で、wisdom、knowledgeと使い分けられているようです。広辞苑は、基本的な意味として、知恵は、「物事の理を悟り、適切に処理する能力」。知識は、ある「事柄について知っていること、また、その内容」と定義しています。

 包丁で言えば、よく切れるすばらしい包丁を作る方法、それについての人間が積み上げてきた様々なノウハウ、その結果として存在する便利な用具のことでしょう。知恵はそれをいかに有効に上手に使うかという心の働きでしょうか。
 どれほどりっぱな用具が作れても、持っていても、それを適切に使えないなら、どれほどの知識の集積でも「悪」になり得ます。そのような例は、枚挙にいとまがありません。

 少量なら薬になる物質が、使い方次第で麻薬に変わります。銃器や火器は、人助けで発明された者なのに、多くの人を殺してきました。インターネットで知識を得ることはできますが、「賢くなる」方法は別にあるのではないでしょうか。ケータイやPCなど、通信手段は普及したのに、かえって、意味のないつながりに煩わされ、たとえばネット上でからかわれたことで、「いじめ」が大規模になるとしたら、機器は危機を作りだす道具になっているだけです。
 知識は、知恵とセットになって初めて生かすことができるのでしょう。

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 「わきまえのない者たち。
 あなたがたは、いつまで、
 わきまえのないことを好むのか。
 あざける者は、いつまで、あざけりを楽しみ、
 愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。(22節)
 わたしの叱責に心を留めるなら、
 今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、
 あなたがたにわたしのことばを知らせよう。(23節)

 神さまがいつも共にいて下さるというのは、私たちキリスト者の平安の源だと思います。
 幼子がいつも親の視線の中で、親の手を握り締め、よろけても親に支えられて歩む。火事や洪水で死ぬしかない時でも親は子どもを懐深く抱いて守ります。そのように、神様が自分を守って下さると信じられるのです。
 けれども、もちろん、親は「叱る」人間でもあります。「危ない!」「いけません」「やめなさい」と一度も言われたことなく育つ子供などいるでしょうか。ロボットでない人間の子どもは、知恵がつき始めると、「いろいろ試し、確かめる」のです。危険や邪悪にさえ、魅了されるのです。
 とうぜん、親は叱って矯正しなければなりません。にもかかわらず、その幼児性、邪悪な本能は、消えていくわけではありません。ただ、分別がついていくだけで、やっぱりちょっと外れたことをする可能性はあるのです。「誘惑する者がいつもささやきかけている」のだから、当然です

 大人になったとき、この「誘惑する者」のワナを警告してくれるのが神さまではないでしょうか。そう! カインに警告して下さったように、神様はいつも呼びかけ、注意をしてくださっていると、箴言は私に「呼びかけ」ます。

 わたしが呼んだのに、あなたがたは拒んだ。
 わたしは手を伸べたが、顧みる者はない。(24節)
 あなたがたはわたしのすべての忠告を無視し、
 わたしの叱責を受け入れなかった。(25節)

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 創世記の時代、弟殺しのカインに対して、それでも、神様は許して下さいました。神様はカインがほかの人に殺されないように額にしるしをつけて下さって、ノデの地に追放されたのです。
 しかし、箴言が書かれた時代の神様は、人に、もっと厳しい警告を与えています。
 たとえ、泣いて詫びを入れて神に叫んでも、「わたしは答えない」と仰せなのです。

 それで、わたしも、
 あなたがたが災難に会うときに笑い、
 あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう。(26節)
 恐怖があらしのようにあなたがたを襲うとき、
 災難がつむじ風のようにあなたがたを襲うとき、
 苦難と苦悩があなたがたの上に下るとき、(27節)
 そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、
 わたしは答えない。
 わたしを捜し求めるが、
 彼らはわたしを見つけることができない。(28節)

 その理由が、つぎに語られます。

 なぜなら、彼らは知識を憎み、
 主を恐れることを選ばず、(29節)
 わたしの忠告を好まず、
 わたしの叱責を、ことごとく侮ったからである。(30節)
 それで、彼らは自分の行ないの実を食らい、
 自分のたくらみに飽きるであろう。(31節)
 わきまえのない者の背信は自分を殺し、
 愚かな者の安心は自分を滅ぼす。(32節)

 滅びは自業自得であると宣告されているような厳しい言葉を、どうとらえるべきでしょうか。
 これは「神の民イスラエル」の若者に対して、その自覚を促すためにも、ここまで厳しくなったのかもしれません。イスラエルはすでに、奴隷から救い出されるという大きな「開放と救い」を体験しているのですから、救い主が生まれる民族としての任務があるのですから、当然だったのでしょうね。

 しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、
 わざわいを恐れることもなく、安らかである。」(33節)









posted by さとうまさこ at 10:38| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする