2016年01月06日

Coffee Break箴言14 遊女はひとかたまりのパンで買えるが、人妻は尊いいのちをあさる。(箴言6章20節〜35節、申命記6章5節〜9節、出エジプト記20章12節〜18節)



 わが子よ。あなたの父の命令を守れ。
 あなたの母の教えを捨てるな。(箴言6章20節)

 この言葉は、儒教の倫理に縛られていたに戦前の日本人には共感できる個所だっただったでしょう。明治の黎明期にキリスト者になった多くの人は下級武士だったということです。下級というのは身分が低くて豊かではないということですが、武士ですから論語などの教養はありました。誇るのは倫理的矜持(きょうじ=プライド)だけといってもよかったかもしれません。
 キリスト教は、価値観が混乱して行く明治初期の武士に倫理的な共感を与えたと言われています。

 それをいつも、あなたの心に結び、
 あなたの首の回りに結びつけよ。(21節)
 これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、
 あなたが寝るとき、あなたを見守り、
 あなたが目ざめるとき、あなたに話しかける。(22節)

 この言葉は、申命記6章を思い出させます。

 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。
 心を尽くし,精神を尽くし,力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記6章5節)
 わたしがきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。(6節)
 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。(7節)
 あなたが家にすわっている時も、道を歩くときも、寝る時も起きる時も、これを唱えなさい。(8節)
 これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。(9節)

 大切な戒めを、骨身に沁みさせるためには、ただ口で唱えたり暗記しただけでは不十分なのです。一夜漬けの試験勉強のように、試験が終わったら忘れてしまう「知識」であったはいけないのです。

 命令はともしびであり、おしえは光であり、
 訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。(箴言6章23節)

★★★★★

 これはあなたを悪い女から守り、
 見知らぬ女のなめらかな舌から守る。(24節)
 彼女の美しさを心に慕うな。
 そのまぶたに捕えられるな。(25節)

 女性問題を、再度警告しています。

 遊女はひとかたまりのパンで買えるが、
 人妻は尊いいのちをあさるからだ。(26節)
 人は火をふところにかき込んで、
 その着物が焼けないだろうか。(27節)

 とりわけ、人妻との姦淫を警告しています。
 買春はいいけれど人妻は良くないという警告にも抵抗を覚える方は多いでしょう。パンひとかたまりで、性の売買をする状況は悲しいことです。性的関係はもっと神聖なものだと思っている人は多いのではないでしょうか。お金でかたがつき、あと腐れがない関係が理想でしょうか。

 しかし、世慣れた父親の目から見れば、「あと腐れ」がないことは良いことなのでしょう。どうしても、女性を抱きたくなったら、せめて「遊女にしなさい」。人妻はいけないと繰り返すのです。

 これは聖書が「その時代を生きる人々に対して与えられた書物である」と認識すれば、おのずと理解できる箇所です。神様の御心は違うのです。この言葉を許されるとき、神様は憐れみをもって人の限界に歩み寄って下さったと考えるべきなのです。
 
 また人が、熱い火を踏んで、
 その足が焼けないだろうか。(28節)
 隣の人の妻と姦通する者は、これと同じこと、
 その女に触れた者はだれでも罰を免れない。(29節)

 神はイスラエルに律法をお与えになった時、「姦淫するな」とお命じになりました。これは、対人間関係に対する戒めの三番目(F)に当たります。
 Dあなたの父と母を敬え。E殺してはならない。F姦淫してはならない。G盗んではならない。H隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。Iあなたの隣人の物を欲しがってはならない。(出エジプト記20章12節〜18節)

 盗人が飢え、
 自分の飢えを満たすために盗んだとしたら、
 人々はその者をさげすまないであろうか。(30節)
 もし、つかまえられたなら、彼は七倍を償い、
 自分の家の財産をことごとく
 与えなければならない。(31節)
 女と姦通する者は思慮にかけている。
 これを行なう者は自分自身を滅ぼす。(32節)

 盗人が出てくるのは、姦淫が次の戒めG「盗んではならない」と関係しているからです。旧約聖書時代は(じつは、ほん最近まで)妻は、夫の所有物だと考えられていたのです。ですから、姦淫は同時に盗みにあたります。

 さらに、姦淫は十戒の十番目の戒めI「隣人の物を欲しがってはいけない」にも、抵触します。
 自分が欲しいと思う隣人の持ち物は、当の隣人にとってはさらに執着のあるものです。
 妻を寝取られた夫の怒りを制御するものはありません。たとえ、お金を払っても「かたがついた」とはいかないでしょう。
 他人の持ち物と自分の物とのけじめをきちんと分別するのが、円満な社会生活、平穏な人生を送る秘訣であると、諭されているのです。

 彼は傷と恥辱とを受けて、
 そのそしりを消し去ることができない。(33節)
 嫉妬が、その夫を激しく憤らせて、
 夫が復讐するとき、彼を容赦しないからだ。(34節)
 彼はどんな償い物も受けつけず、
 多くの贈り物をしても、彼は和らがない。(35節)










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2016年01月07日

Coffee Break箴言15 彼はほふり場に引かれる牛のように、愚か者を懲らしめるための足かせのように、ただちに女につき従い、(箴言7章1節〜27節)



 わが子よ。私のことばを守り、
 私の命令をあなたのうちにたくわえよ。(箴言7章1節)
 私の命令を守って、生きよ。
 私のおしえを、あなたのひとみのように守れ。(2節)
 それをあなたの指に結び、
 あなたの心の板に書きしるせ。(3節)
 知恵に向かって、「あなたは私の姉妹だ。」と言い、
 悟りを「身内の者。」と呼べ。(4節)
 それは、あなたを他人の妻から守り、
 ことばのなめらかな見知らぬ女から守るためだ。(5節)

 箴言7章は、全部女性問題への警告です。5章6章にも女性の危険についての警告がありましたが、ここは、人妻との関係を焦点にしています。
 前にも書いたように、不倫、姦淫は律法で禁じられているのです。旧約聖書の中では、相手が独身の女性なら「石打ち」とまではいきません。父親に花嫁料を払って結婚してしまうとか、慰謝料を払って済ませることもできました。(出エジプト記22章16節17節)
 男が不倫を咎められるのは、相手が「人妻」の場合でした。人妻との関係はただ一度であっても「火遊び」だったのです。

 性のタブーがないかのように見える今の時代でも、親は子供の性体験を気にしていないとは言えないでしょう。とくに真面目で純情な男の子の場合、性的関係はその子の理性を狂わせることもありえます。親から見て反対したくなるような相手との結婚を望まれたり、子どもが生まれてしまったりと、「知的な予定」を狂わせるのも男女関係です。不倫は今でも「事件」をはらみます。

★★★★★

 ここで、父親の視線は、うぶで女性経験の浅い息子に、性的に成熟し、男あしらいに慣れ、発情しているような人妻を対置させています。
 この女は、夫が留守である機会に、魅惑的に着飾り、通りに出て若い男に声をかけているのでしょう。

 私が私の家の窓の格子窓から見おろして、(6節)
 わきまえのない者たちを見ていると、
 若者のうちに、
 思慮に欠けたひとりの若い者のいるのを認めた。(7節)
 彼は女の家への曲がりかどに近い通りを過ぎ行き、
 女の家のほうに歩いて行った。(8節)
 それは、たそがれの、日の沈むころ、
 夜がふける、暗やみのころだった。(9節)
 すると、遊女の装いをした
 心にたくらみのある女が彼を迎えた。(10節)
 この女は騒がしくて、御しにくく、
 その足は自分の家にとどまらず、(11節)
 あるときは通りに、あるときは市場にあり、
 あるいは、あちこちの町かどに立って待ち伏せる。(12節)
 この女は彼をつかまえて口づけし、
 臆面もなく彼に言う。(13節)
 「和解のいけにえをささげて、
 きょう、私の誓願を果たしました。(14節)
 それで私はあなたに会いに出て来たのです。
 あなたを捜して、やっとあなたを見つけました。(15節)

 「和解のいけにえをささげてきた」という意味は、ごちそうが家にあるということなのです。全焼のいけにえはささげ物をすべて煙にしてしまいますが、和解のいけにえが、内臓と脂肪を主にささげた後の、肉は食物になります。ささげた人はそれを後で食べるのです。(レビ記3章16節) 女は、和解のいけにえの残り肉があると男を誘っているのです。

 続く誘いの言葉も、魅惑的です。家は情事のために整えられていて、夫がいないので時間はたっぷりあるというのです。

 私は長いすに敷き物を敷き、
 あや織りのエジプトの亜麻布を敷き、(16節)
 没薬、アロエ、肉桂で、
 私の床をにおわせました。(17節)
 さあ、私たちは朝になるまで、
 愛に酔いつぶれ、愛撫し合って楽しみましょう。(18節)
 夫は家にいません。
 遠くへ旅に出ていますから。(19節)
 金の袋を持って出ました。
 満月になるまでは帰って来ません。」と。(20節)
 女はくどき続けて彼を惑わし、
 へつらいのくちびるで彼をいざなう。(21節)

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 昔、同人誌仲間だった女性で、夫がいるのに浮気を重ねていた人がいました。確かにとても美しい人でしたが、それ以上に、舌を巻くような誘惑の手練手管を知っていました。彼女の流し目は、本当に目千両と言えるものでした。そこで、まじめで奥さんの支配下にあるような男性が、誘惑されていくのです。
 そのように、自分の立場も後に続く出来事も忘れて、誘惑に落ちる時、男は次のような状態なのではないでしょうか。
 しかし、その代償は大きかったのです。

 彼はほふり場に引かれる牛のように、
 愚か者を懲らしめるための足かせのように、
 ただちに女につき従い、(22節)
 ついには、矢が肝を射通し、
 鳥がわなに飛び込むように、
 自分のいのちがかかっているのを知らない。(23節)

 いわゆる初心(うぶ)な息子を持つ親の心配が、どれほどのものかは、つぎの言葉の激しさを読めばわかるというものです。

 子どもらよ。今、私に聞き従い、
 私の言うことに心を留めよ。(24節)
 あなたの心は、彼女の道に迷い込んではならない。
 その通り道に迷ってはならない。(25節)
 彼女は多くの者を切り倒した。
 彼女に殺された者は数えきれない。(26節)
 彼女の家はよみへの道、
 死の部屋に下って行く。(27節)







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2016年01月08日

Coffee Break箴言16 銀を受けるよりも、わたしの懲らしめを受けよ。(箴言8章1節〜11節、創世記4章7節〜10節))



 父親は、分別を失いそうな子どもに警告した後、神の知恵について語ります。

 知恵は呼ばわらないだろうか。
 英知はその声をあげないだろうか。(箴言8章1節)
 これは丘の頂、道のかたわら、
 通り道の四つ角に立ち、(2節)
 門のかたわら、町の入口、
 正門の入口で大声で呼ばわって言う。(3節)
 「人々よ。わたしはあなたがたに呼ばわり、
 人の子らに声をかける。(4節)
 わきまえのない者よ。分別をわきまえよ。
 愚かな者よ。思慮をわきまえよ。(5節)

 この箇所は、長い聖書の物語りの、ある個所を想起させます。
 カインがアベルに殺意を抱いた場面・・・!(創世記4章5節)
 知恵はこのように、私たちの行く先々でちゃんと私たちを見ていて、警告を発しているのです。もちろん、カインとアベルの物語と同じく、知恵は神さまの声なのです。
 
 聞け。わたしは高貴なことについて語り、
 わたしのくちびるは正しいことを述べよう。(6節)
 わたしの口は真実を告げ、
 わたしのくちびるは悪を忌みきらうからだ。(7節)
 わたしの言うことはみな正しい。
 そのうちには曲がったことやよこしまはない。(8節)

 ほんとうに仰せのとおり!とひれ伏したいのですが、自分が当事者であって自分が悪に捉えられている時、なかなかそのお声も素直に入ってきません。
 カインは、神の声を聞き入れなかっただけではありません。弟を殺し、殺した後に「あなたの弟はどこにいるのか」と聞かれて、「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか」と開き直ったのです。(創世記4章9節)その結果、神から、判決を受けるのです。
 
 「あなたは、いったい何ということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。
 今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。」(創世記4章10節11節)

 恐ろしい場面です。テレビの「怪談番組」などよりよほど恐ろしいものが見えて来そうです。もちろん、嫉妬に狂って弟を殺したカインもたちまち震え上がって、神様に命乞いをするのです。
 はじめに神が警告された時にその声に従っていれば、すべては違っていたのです。

★★★★★

 これはみな、識別する者には、正直、
 知識を見いだす者には、正しい。(9節)
 銀を受けるよりも、わたしの懲らしめを受けよ。
 えり抜きの黄金よりも知識を。(10節)
 知恵は真珠にまさり、
 どんな喜びも、これには比べられないからだ。(11節)

 神の声(知識と知恵)を聞くことは、銀や黄金、真珠に勝ると仰せなのです。
 嫉妬や怒りなどは、たぶん人間が内蔵しているマッチみたいなものなのでしょう。人の心は暗いので、ちょっとしたきっかけで、私たちは火を点けてみたくなるのです。でも、神がすぐに近づいて声を掛けて下さるのではないでしょうか。
「さあ、その火を消しなさい。わたしを見上げてごらん。」

 ところが、ひとたび燃え上がってマッチの火を私たちは見詰めてしまうのです。戸口で待ち伏せしているサタンが、執拗にささやきます。
「そうだ。あなたは正しい。さあ、私について来なさい。銀を上げよう!」

  

 

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2016年01月09日

Coffee Break箴言17 わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。(箴言8章1節〜11節、創世記4章12節〜17節、新約聖書ヨハネの福音書14章21節、同ヤコブの手紙1章5節)



 知恵であるわたしは分別を住みかとする。
 そこには知識と思慮とがある。(箴言8章12節)


 語り手がいつの間にか(箴言8章からですが)父(教師)ではなく、知恵そのものになっています。新改訳聖書では、「わたし」とひらがな表記されるときは、神の一人称であるとの約束ですから、知恵は神そのものだと読み取れます。
 神の知恵には、分別と知識と知恵があるのです。
 
 主を恐れることは悪を憎むことである。
 わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、
 ねじれたことばを憎む。(13節)

 主を恐れる者は、知恵と分別と知恵があるのです。そのような者はとうぜん悪を憎みます。知恵である「わたし」は、悪についても定義しています。それは、高ぶりとおごり、悪の道と、ねじれたことば、です。

 摂理とすぐれた知性とはわたしのもの。
 わたしは分別であって、わたしには力がある。(14節)

 摂理とは神の助言という意味、〈力〉とは事を行なう能力を指している。知恵はメシヤとしても性格(イザヤ書9;6)と同じ性格〈助言者、力ある神〉を備えていた。(新実用聖書注解・いのちのことば社P858)

 注解書にある通り、箴言8章はキリストの存在を彷彿とさせるものです。
 事実、神ご自身を十字架に架けてささげ物とし、人が決して払いきれない負債をチャラにして下さるなど、神でなければ思いつかない知恵です。

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 わたしによって、王たちは治め、
 君主たちは正義を制定する。(15節)
 わたしによって、支配者たちは支配する。
 高貴な人たちはすべて正義のさばきつかさ。
 (16節)
 わたしを愛する者を、わたしは愛する。
 わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。(17節) 

 新約聖書ヨハネは、イエス様の言葉を記録しています。
 
 「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」(新約聖書ヨハネの福音書14章21節)

 また、ヤコブは書いています。

 あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(新約聖書ヤコブの手紙1章5節)

 これらのことばが、箴言8章17節のことばと同じものであるのは、自明のことです。
 
 箴言8章を読んでいると、救い主があちこちに表現されていて、聖書がまさに精緻に織られた神のメッセージの世界だと思わせられるのです。







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2016年01月10日

Coffee Break箴言18 わたしは正義の道、公正の通り道の真中を歩み、(箴言8章18節〜23節、ヨハネの福音書1章1節〜3節)



 富と誉れとはわたしとともにあり、
 尊い宝物と義もわたしとともにある。(箴言8章18節)

 時代が移り、価値観が変わっても、人の求めるものはさほど変わらないのではないでしょうか。富、誉れ、宝物、義はだれにとっても価値があるのです。貧しさはしばしば人を損ないます。私たちが有限な物質で組み立てられた肉体を持っているからです。
 だれしも、食事を摂らないでは生きていけません。衣服も住居も不可欠です。たとえ、ホームレスになっても難民であっても、いいえ、ノラ犬やのノラ猫やカラスや鳩でも、食べ物と巣を必要としています。

 まして、私たちは人間です。ヨーロッパに押し寄せる大量の難民を、西欧先進国が多大の経費や犠牲を払っても受け入れるのは、どのような人にも衣食住が与えられなければならないと、私たちが諒解しているからでしょう。基本的人権とは、そのような思想から発したものです。
 もし、弱い人、困っている人を助けることができるなら、そこには、「義」があります。「義」のあるところ、誉れがあり、それは宝物です。富とさえ言えるでしょう。そのためにお金を使うかもしれませんが、お金では買うことができない富だとも言えます。

 わたしの実は黄金よりも、純金よりも良く、
 わたしの生み出すものはえり抜きの銀にまさる。(19節)

 「義」は神の御前の正しいことです。神の御前に正しくあることは、黄金よりも純金よりも良い。銀に勝ると、神ご自身が仰せなのです。

 わたしは正義の道、公正の通り道の真中を歩み、(20節)
 わたしを愛する者には財産を受け継がせ、
 彼らの財宝を満たす。(21節)

 もし、神様からの財産を受け継ぐことができるなら、どんなに素晴らしいことでしょう。
 人が自分の才覚で積み上げる財宝は、かならず無くなる時があるのは、古代遺跡の廃墟をみればわかります。どんなに権勢や富を誇った王国や王も滅びます。今では、「カイザルに税金を納めるのは正しいか」と、大真面目に問う人はいないでしょう。ローマ帝国の銀貨に今、価値があるとしたら、聖書にそのたとえが載せられていること、アンティークとして貴重であるためでしょう。カイザルもローマ帝国も滅びて存在しないのです。
 
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 しかし、変わらず存在している方がいるのです。「正義の道、公正の通り道の真中を歩んでおられる方」「わたし」と、ここで語っておられる神です。

 主は、その働きを始める前から、
 そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。(22節)

 すごい言葉が出て来ました。イエスさまを知る私たちは、思わず姿勢を正したくなる箇所です。私たちキリスト者は、イエス・キリストが2千年前においでになったのではなく、はじめから父なる神とともに、宇宙に存在されたと知っています。

 大昔から、初めから、大地の始まりから、
 わたしは立てられた。(23節)

 ヨハネは、この厳粛な事実を、彼の福音書の冒頭に記しています。

 初めに、言葉があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
 この方は、初めに神とともにおられた。
 すべてのものは、この方によって造られた。造られたものでこの方によらずにできたものは一つもない。(ヨハネの福音書1章1節〜3節)









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