2016年01月16日

Coffee Break箴言24 正しい者の口はいのちの泉。悪者の口は暴虐を隠す。2(箴言10章14節〜21節)



 知恵のある者は知識をたくわえ、
 愚か者の口は滅びに近い。(箴言10章14節)

 ほんとうの知恵とは、謙遜に知識を蓄えること。知恵のある者とは、諭しの言葉はもちろんのこと、経験や書物から学べる人のことでしょうか。
 これも、「言うは易し、行うは難し」です。10章全体が、口に対する戒めになっていますが、愚か者は口で災いを招くのでしょう。
 
 富む者の財産はその堅固な城。
 貧民の滅びは彼らの貧困。(15節)

 「その堅固な城」の「その」は、知識を蓄えた心のことでしょう。貧民は、彼らが自ら知恵や知識を蓄えないところにあると言うのです。

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 正しい者の報酬はいのち。
 悪者の収穫は罪。(16節)

 神を求める「正しい人」には、いのちが与えられるというのは、聖書のメッセージそのものです、イエス・キリストが十字架にかかって死んだのは、罪に堕ちた人間、死を宿命づけられていた人間に、ふたたびいのちを与えるためです。対して、神に叛くことが罪であるのは、聖書のメッセージの前提です。

 訓戒を大事にする者はいのちへの道にあり、
 叱責を捨てる者は迷い出る。(17節)

 神のことばは、律法の訓戒として告げられるわけです。父親は子どもが「神の道」を外れないように、訓戒して育てる責任があります。それが、結局は、子供が生きながらえることだからです。
 しかし、叱責を捨てる者はあとを絶ちません。

 憎しみを隠す者は偽りのくちびるを持ち、
 そしりを口に出す者は愚かな者である。(18節)

 このふたつの対句もなかなか鋭いのです。
 神が憎しみをいとわれるからと言って、憎しみを隠して嘘を言うのが良いのではなさそうです。上役やボスに、心にもないお世辞を言うなど決して神がお喜びになることではないのです。
 反対に、思ったままそしったり喧嘩をしたりするのは、「愚か者」なのです。
 人の歓心を買うためのお世辞も、喧嘩のことばもどちらも罪なのです。なぜなら、どちらの場合も、言葉数が多くなります。

 ことば数が多いところには、
 そむきの罪がつきもの。
 自分のくちびるを制する者は思慮がある。(19節)
 正しい者の舌はえり抜きの銀。
 悪者の心は価値がない。(20節)

 「えり抜きの銀」と言われるような舌を持ちたいと思いますが。くちびるを制することがどんなに大変かは、人と会って交わっていると、日々痛感するのです。
 もちろん、舌は「勝手に」動いているのではありません。「主人」の心の命じるまましゃべるのでしょう。問題は、心が曲がっていることです。

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 正しい者のくちびるは多くの人を養い、
 愚か者は思慮がないために死ぬ。(21節)

 世俗的な自己啓発の本などでも、言葉を制することの重要さが説かれています。言葉で、人は気分良くもなり励まされもする。ひいては人間関係が円滑になり、商売なら繁昌し、組織ならみんなが気分よく働けて、やがては利益に結びつく、というわけです。

 このような考えは、箴言の思想から派生したのかなとも思えます。けれども、それが、「口がうまい」「ほめ上手」「そつがない」と言った表面的なものなら、やがては見破られてしまいます。「また言ってるよ」「話半分だよ」となったら、人を養うことなどできません。本当に、人を養う言葉を発するには、思慮が必要です。



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2016年01月17日

Coffee Break箴言25 主の祝福そのものが人を富ませ、(箴言10章22節〜32節)



 主の祝福そのものが人を富ませ、
 人の苦労は何もそれに加えない。(箴言10章22節)


 正しい者のくちびるがテーマとなっていますが、人を養う言葉を発揮できるのは、主の祝福であると言うのですね。苦労や苦心で、何とか人を喜ばせようと思っても、主が祝福して下さらなければ「裏目に出る」なんてことは、だれでも経験があるのではないでしょうか。

 愚かな者には悪事が楽しみ。
 英知のある者には知恵が楽しみ。(23節)
 悪者の恐れていることはその身にふりかかり、
 正しい者の望みはかなえられる。(24節)
 つむじ風が過ぎ去るとき、悪者はいなくなるが、
 正しい者は永遠の礎である。(25節)

 人間はしばしば能力を人間の価値観で測ります。ですが、箴言は、愚か者に、「英知のある者」を対比しています。神様からの知恵をいただいて言葉を発すれば、主が祝福して下さることを、「体験」するのが「英知のある者」です。

 思うような結果が出なかったときに「悪知恵」を働かせるのが、人間の知恵です。
 以前、何かで読んだのですが、アメリカでの話です。だんだん客が少なくなってきた田舎のレストランで、それでも主人はおいしい食事を出そうと工夫して頑張っていました。ある時、都会で良い仕事についている学歴のある息子が父親のレストランを見て、提案しました。
 「世の中はどんどん不況になっているんだ。こんな時代に出血サービスみたいなことをしていたら、競争に勝ち抜けないよ。もっとコストを意識してもうけを確保しなければいけない。材料の質を落として、ウエイトレスの数も減らして、カットできるサービスはカットするべきだ。いまの世の中、悪いほうに向かっているんだから。」
 父親は、優秀な息子の意見を入れて料理を変え、値段もサービスも変えました。案の定、客が減り始めました。どうにもならなくなって店を閉めることになりました。
父親は、頷いて言いました.「やっぱり、息子の言うとおりだ。大不況がやってきた!」

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 使いにやる者にとって、なまけ者は、歯に酢、目に煙のようなものだ。(26節)
 主を恐れることは日をふやし、
 悪者の年は縮められる。(27節)
 正しい者の望みは喜びであり、
 悪者の期待は消えうせる。(28節)
 主の道は、潔白な人にはとりでであり、
 不法を行なう者には滅びである。(29節)
 正しい者はいつまでも動かされない。
 しかし悪者はこの地に住みつくことができない。(30節)

 不況や不運が来たときに、「最短距離でそれを克服したい」のが、人間の知恵です。先の息子の提案のように、儲けがないならコストをカット。というわけです。しかし、主にお伺いを立てたら,もっと違う答えが出てくるかもしれません。
 たとえ、結果は同じ、「閉店」になっても、「正しく行ったのであれば」望みがあるのです。しかし、自分の知恵で、ただ、コストやサービスを切り詰めて、それでもだめだった場合は、その先があるでしょうか。

 同じ「行き止まり」でも、神様に信頼していれば、「その先」に神を見ることができます。
 正しい者は、そこから神の声を聞くことができます。まさに、神の知恵をいただくことができる、とこの訓戒は、語っていると思います。

 正しい者の口は知恵を実らせる。
 しかしねじれた舌は抜かれる。(31節)
 正しい者のくちびるは好意を、
 悪者の口はねじれごとを知っている。(32節)

 







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2016年01月18日

Coffee Break箴言26 正しいおもりは主に喜ばれる。(箴言11章1節〜3節)



 欺きのはかりは主に忌みきらわれる。
 正しいおもりは主に喜ばれる。(箴言11章1節)

 聖書は、何度も、はかりや重りについて、正しい物を使うように戒めています。(レビ記19章35節、36節 申命記25章13節〜16節)

 私個人は、数字で測られたり、数字に還元されたりするのは好きではありません。身長・体重、スリーサイズだけで、美人かどうかは、邪悪かどうか、健康かどうか、だれにもわかりません。精密な血液検査をすれば隠れた病気が発見されるかもしれませんが、「それで、どうなの?」と考えられなくはありません。

 それでも、物を買うときは、数字抜きでは考えられません。値段を見ますし、量を見ます。日付も時間も気にします。社会生活では、「数字」は人と人との間の大きな了解事項です。私たちは何時間働けばいくらの賃金かも考えて行動しています。待ち合わせの時刻は、自分だけの時計ではなく、日本の標準時に従います。はかりや時計が狂っていたら、社会生活は成り立ちません。とくに、はかりは売買するときの信頼のいしずえです。
 
 旧約聖書の時代は、庶民が日常使うのは、桝、棹(さお)ばかり、天秤、測りなわでしょうか。
 棹ばかりと天秤はもともとは原理的には同じで、一方の端に重りを、もう一方に、測る物を乗せたのです。ですから、最初から重りに不正があると、とうぜん売り物の量も違ってきます。そのごまかしは不正な利益です。神は、そのような不正を嫌われるのです。
 
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 高ぶりが来れば、恥もまた来る。
 知恵はへりくだる者とともにある。(2節)

 一度も恥をかかないで、一生を終えることは難しいかもしれません。けれども、恥の中でももっとも恥ずかしいのは、たかぶりが招いた恥ではないでしょうか。「自分は上席にすわって当然」だと考えていたら、自分より身分の上の人が来て立ち退きを迫られると、赤恥をかくことになります。
 自分は物知りだと思って、知識をひけらかしていると、もっと知識のある人が黙って笑っているかもしれません。あるいは、「それは違いますよ」とはっきり正されて、恥かしい思いをするかもしれません。

 神様を見あげていつも神様の完璧さに伺っていれば、少なくとも「へりくだる」知恵がつきます。すると、恥もかかず、神もお喜びになるのです。

 直ぐな人の誠実は、その人を導き、
 裏切り者のよこしまは、その人を破滅させる。(3節)

 結局まっすぐに誠実に生きていれば、良いほうに導かれるのです。目先の利益につられて、人を裏切るような「よこしま」は、最終的には。人を破滅させると,箴言は警告しています。





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2016年01月19日

Coffee Break箴言27 財産は激しい怒りの日には役に立たない。(箴言11章4節〜14節)



財産は激しい怒りの日には役に立たない。(箴言11章4節a)

 箴言10章15節には、「富む者の財産はその堅固な城」とあります。11章4節aは、それと反対の意味のようにも見えます。しかし、ここでの財産は、神の正義に対比されています。一方、10章15節は、財産を単純に貧困に対置させています。確かに、経済的な側面だけをいうなら、財産は貧困をおおうのです。途上国の問題のほとんどは貧困からきていますし、テロ組織に取り込まれる若者のほとんどは、貧しさの中で、差別や社会の矛盾に憤っている人です。
 箴言は一歩踏み込んで言います。

しかし正義は人を死から救い出す。(b)

 社会運動に加わるにも、「正義」がなくてはならないのです。もちろん、神の正義です。
 神の訓戒は、次のように約束しています。

潔白な人の道は、その正しさによって平らにされ、
悪者は、その悪事によって倒れる。(5節)
直ぐな人は、その正しさによって救い出され、
裏切り者は、自分の欲によって捕えられる。(6節)
悪者が死ぬとき、その期待は消えうせ、
邪悪な者たちの望みもまた消えうせる。(7節)
正しい者は苦しみから救い出され、
彼に代わって悪者がそれに陥る。(8節)

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神を敬わない者は
その口によって隣人を滅ぼそうとするが、
正しい者は知識によって彼らを救おうとする。(9節)

 「その口」とは、「人間の考え」と同義ではないでしょうか。神に聞かず、自分の考えで発信する行動のすべてです。陰口やゴシップ、偽りの証言、攻撃的なデマ、いろんな奸計、究極には、銃弾や爆弾で隣人を殺傷する「口」です。
 私たちは、じれったくても、「神の知識」によって、立ち向かわなければならないのでしょう。それが、結局、人を救うことになるというのです。

町は、正しい者が栄えると、こおどりし、
悪者が滅びると、喜びの声をあげる。(10節)
直ぐな人の祝福によって、町は高くあげられ、
悪者の口によって、滅ぼされる。(11節)

 できるなら、神を見あげる者として「正しい者」でありたいと思います。悪者が滅びて喜びの声を上げることができるように、直ぐな人でありたいですね。
 問題は、自分が完全に潔白だとは言いきれないことです。キリスト者である津森、聖書を読んでいるつもりでも、その自分もまた、町を滅ぼす「悪者の口」に加担しないとは言い切れないことです。

 ナチスが起って勢力を増していくときのドイツの民衆のほとんどは、日曜日には教会に行っているような人たちだったでしょう。しかし、彼らがヒットラーを支持し、ヒットラーの尖兵となってユダヤ人を攻撃し、ユダヤ人から奪い、ユダヤ人をガス室に送った歴史を思い出します。

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隣人をさげすむ者は思慮に欠けている。
しかし英知のある者は沈黙を守る。(12節)
歩き回って人を中傷する者は秘密を漏らす。
しかし真実な心の人は事を秘める。(13節)
指導がないことによって民は倒れ、
多くの助言者によって救いを得る。(14節)

 指導とは、「神に聞く方法」についての指導でしょうか。箴言の著者は、民が倒れないために「指導」をしているのです。多くの助言者がこの書物にいて、聞く人に「救いを得させる」のです。







posted by さとうまさこ at 10:52| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月20日

Coffee Break箴言28 義を追い求める者はいのちに至り、悪を追い求める者は死に至る。(箴言11章15節〜22節)



 他国人の保証人となる者は苦しみを受け、
 保証をきらう者は安全だ。(箴言11章15節)


 保証人になることは、被保証人の負債を共同で負うようなものです。お金の貸借や人の雇用関係など、現代の日本でも「保証人」を立てるのは常識になっているのではないでしょうか。とくに資産のある人や収入の多い人は、「しっかりした保証人」として歓迎されます。万一、債務者がお金を返せない時でも、保証人から取り立てることができるからです。
 これは、古代からある人間の知恵なのですね。箴言は6章冒頭でいきなり、保証人になって債務を負ってしまった時の心構えが説かれています。(箴言6章1節〜5節)

 あなたは隣人の手に陥ったのだから、
 行って、伏して隣人にしつこくせがむがよい。
 かもしかが狩人の手からのがれるように、
 鳥が鳥を取る者の手からのがれるように、
 自分を救い出せ。
 
 そして、ここ11章では、そんな苦しみを受けないためにも、「最初から保証人になる」と戒めています。

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 優しい女は誉れをつかみ、
 横暴な者は富をつかむ。(16節)
 真実な者は自分のたましいに報いを得るが、
 残忍な者は自分の身に煩いをもたらす。(17節)

 「優しさ」や「真実」に、「横暴」や「残忍」が対比されています。

 悪者は偽りの報酬を得るが、
 義を蒔く者は確かな賃金を得る。(18節)
 このように、義を追い求める者はいのちに至り、
 悪を追い求める者は死に至る。(19節)

 ここでは、悪者と対極は「義」であることがわかります。義は神が求めておられる正義です。義を求めることは、神を求めることと同じです。結果、「いのちに至り」、かたや悪を追い求める者は死に至るのも当然かと思われます。

 心の曲がった者は主に忌みきらわれる。
 しかしまっすぐに道を歩む者は主に喜ばれる。(20節)
 確かに悪人は罰を免れない。しかし正しい者のすえは救いを得る。(21節)

 「義を求める者」と「悪を求める者」が、別の表現で語られています。「心の曲がった者」「まっすぐに道を歩む者」です。

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 美しいが、たしなみのない女は、
 金の輪が豚の鼻にあるようだ。(22節)

 この表現は辛辣ですね。確かに、女性の美しさはある種の付加価値です。とくに、若い女性の美しさは、夢や想像力をかき立てる宝石や金に匹敵します。「天使のような」「妖精のような」「この世の物とも思われない」美貌と遭遇すると、だれでも、その姿の奥に、生身の肉体があって胃や腸が動いているのを忘れてしまいそうになります。

 でも、表面的な美しさがもたらすまぼろしは、一瞬にして消えてしまうことがあります。それが、「たしなみのなさ」だと、語られます。現代の言葉で言えば、「しらけさせる」「ドン引きされる」態度やふるまいが一瞬にして、女を豚に見せてしまうというのです。
 「うわべを見がちな」人間でもが、やっぱり心を見るのは、やはり。人間は、神に造られたからでしょうか。、Tサムエル記16章7節)
 「若い女性」でなくても、「女性」でなくても、心したい言葉だと思います。







 

posted by さとうまさこ at 10:54| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする