2016年01月21日

Coffee Break箴言29 正しい者の願い、ただ良いこと。悪者の望み、激しい怒り。(箴言11章23節〜31節)



 正しい者の願い、ただ良いこと。
 悪者の望み、激しい怒り。(箴言11章23節)

 これは、神の御心に叶っている願いとその結果です。正しい者は、神が「良し」(GOOD)として下さることが願いです。悪者の望みには、(神の)激しい怒り(WRATH)が下ります。

 ばらまいても、なお富む人があり、
 正当な支払いを惜しんでも、
 かえって乏しくなる者がある。(24節)

 これはこの通りですね。何十年も生きていると、誰でもがそのような例を見ることがあるのではないでしょうか。

 おおらかな人は肥え、
 人を潤す者は自分も潤される。(25節)
 穀物を売り惜しむ者は民にのろわれる。
 しかしそれを売る者の頭には祝福がある。(26節)

 歴史的に見て、文明国では穀物は国家経済の基幹でした。飢えは国家を揺るがします。聖書を見ても、イスラエルの苦しみにしばしば飢饉が登場します。
 そのうえ、飢饉に乗じてひと儲け」をたくらむ者がいて、穀物を売り惜しみ、また買い占めて、穀物の値段を釣り上げようとする者がいたのです。日本史でも米騒動はしばしば起きており、1918年の「鈴木商店焼き討ち事件」などもその一つの例です。ただし、鈴木商店が「米を買い占めていた」事実はなく、風評被害だったとの評価もあります。
 どちらにしても、穀物を売り惜しむ者が民衆ののろいを受けるのは本当でしょう。

  鈴木商店
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%95%86%E5%BA%97

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 熱心に善を捜し求める者は恵みを見つけるが、
 悪を求める者には悪が来る。(27節)

 これは、23節の言い換えです。やはり、熱心に善を探し求めるのが神の御心に叶うことであり、悪を求める者には悪が返ってくるのです。箴言は訓戒ですから、このような論理は当然ですね。

 自分の富に拠り頼む者は倒れる。
 しかし正しい者は若葉のように芽を出す。(28節)

 富は、よく切れる刃物のようなものです。正しく使えば祝福を産みだすのです。ところが、使い方を間違うとわざわいになり、自分自身がケガをします。

 自分の家族を煩わせる者は風を相続し、
 愚か者は心に知恵のある者のしもべとなる。(29節)

 風は、不幸や空虚な結末を意味しているようです。たしかに、家族は自分の基本ですから家族を苦しめるなら、結果は見えています。

 正しい者の結ぶ実はいのちの木である。
 知恵のある者は人の心をとらえる。(30節)

 これは言うまでもありませんね。アダムとエバは神の命令に背いて、結局いのちの木からも離れることになってしまったのです。

 もし正しい者がこの世で報いを受けるなら、
 悪者や罪人は、なおさら、その報いを受けよう。(31節)

 〈正しい者〉さえも神の前には罪があるので、さばかれてかろうじて救われるなら・・、と言う意味(新実用聖書注解・いのちのことば社P864)悪者や罪びとの、報いがどんなものか、わかるということでしょう。





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2016年01月22日

Coffee Break箴言30 人はその思慮深さによってほめられ、心のねじけた者はさげすまれる。(箴言12章1節〜8節)



 訓戒を愛する人は知識を愛する。
 叱責を憎む者はまぬけ者だ。(箴言12章1節)
 善人は主から恵みをいただき、
 悪をたくらむ者は罰を受ける。(2節)
 人は悪をもって身を堅く立てることはできず、
 正しい人の根はゆるがない。(3節)

 ここまで、何度も繰り返されている訓戒ですが、その原則が、現実の人生でどのように結実するかが語られます。「身を立てる」は、人生を作る上げることでしょう。「悪」の道はかならずつまづいてしまうのです。そもそも、根も茎もしっかりしておらず、葉を繁らせることもできないからです。

 しっかりした妻は夫の冠。
 恥をもたらす妻は、
 夫の骨の中の腐れのようだ。(4節)

 父権社会であっても、妻の存在は大きかったのでしょう。妻によってますます栄達に届く男もいれば、妻によって思わぬ恥をかく男もいたのです。

 正しい人の計画することは公正で、
 悪者の指導には欺きがある。(5節)
 悪者のことばは血に飢えている。
 しかし正しい者の口は彼らを救い出す。(6節)
 悪者はくつがえされて、いなくなる。
 しかし正しい者の家は立ち続ける。(7節)

 正しい人と悪者を対比しています。このたとえは際限なく作れそうですね。
 これはむしろ、誰かを指して「正しい人であるか悪者であるか」を判定するために言われているのではないように思えます。公正でなければ正しいとはいえず、人を指導するのに、欺きがあってはならないと、聞く人が自分に照らして考えるべきなのでしょう。

 6節は、裁判での証言でしょうか。偽りの証言は人を陥れます。陥れられそうな人も、正しい人の正しい証言で救い出されるでしょう。
 一時的に、繁栄や成功を見ても、悪者のそれが永続することはありません。時間が「いつわり」をあぶりだすのです。偽物や悪者は「長い時間」変わらず、りっぱに輝きつづけることはできません。

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 人はその思慮深さによってほめられ、
 心のねじけた者はさげすまれる。(8節)

 参考に、この節の英語訳を見てみました。「思慮深さ」の方は、NAS訳、MEV訳、NIV訳、TEV訳では、それぞれ、his insight,wisdom,prudence、intelligentが使われています。聡明さを表わす単語ですが、ニュアンスとしては、思慮深さと考えてよいように思えます。
 一方、「心のねじけた者」は、NAS訳、MEV訳では、perverse mind,perverse heart,NIV訳、TEV訳では、warped mind, stupid が使われています。いずれも、ねじまがった心、その結果として愚か者の意味でしょう。
 わざわざ英語訳にあたってみたのは、「心のねじけた」と言う言い方は、最近の日本ではあまり使わない気がしたからです。「めんどうな人」「うざい」なんて言いかえられているのではないでしょうか。

 聖書の中での、「ねじけた」は何よりも、神からの言葉を、素直にまっすぐ受け取れないことを意味していると思います。
 たんに人と合わないとか、適応力がないとか、「楽しい雰囲気」を出せないだけで、「ねじ曲がっていたり」「面倒な人」だったりするのではないということです。

 どうも人とうまくやっていけないと思う人も、それだけで悲観することはないでしょう。うまくいかないことを人間の基準であれこれ思い煩い、ときに仕返しをしたくなるような心こそ危険です。
 神を見あげ、そのみこころを慮(おもんばか)って、少なくとも、神さまから「さげすまれる」ことがないように、生きたいものです。








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2016年01月23日

Coffee Break箴言31 身分の低い人で職を持っている者は、高ぶっている人で食に乏しい者にまさる。(箴言12章9節〜14節)



 身分の低い人で職を持っている者は、
 高ぶっている人で食に乏しい者にまさる。(箴言12章9節)


 これはまさに、「そのとおり」ですね。
 貧しい人がほとんどだった時代には、身分の低い家の子どもは「手に職」をつけるため、徒弟(とてい)や丁稚(でっち)になったのです。大工や鍛冶屋、指物師、読み書きそろばんなどで、職人や商人として身を立てたのです。江戸っ子の「宵越しの金は持たねえ」という啖呵も、手に職があり商売がある者の「食いっぱぐれのなさ」が背景になっているのです。

 一方、「士農工商」の中で一番身分の高い武士は、貧しくても「誇り」がありました。実際江戸時代も後期には、経済を握っているのは商人でしたから大名家でも、いつも火の車だったと言われています。まして、下級武士は困窮していたのです。貧しければ貧しいほど、「誇り」だけが頼りにです。「武士は食わねど、高楊枝」などと言うのは、豊かな庶民がやせ我慢の武士を揶揄した言葉ですね。
 職を持って、「手のわざ」で暮らすのが、神様の御心なのです。ぎゃくに「高ぶりの心」を、神様のもっとも嫌われるのです。

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 正しい者は、自分の家畜のいのちに気を配る。
 悪者のあわれみは、残忍である。(10節)
 自分の畑を耕す者は食糧に飽き足り、
 むなしいものを追い求める者は思慮に欠ける。(11節)

 10節も11節も誠実に仕事をする者と、そうでない者を対比しています。
 古代イスラエルでは、基本的な生業は農業でした。しかし、牧畜も大切な仕事でした。乳と蜜の流れる地を楽しむためには、羊の乳が必要ですし、労力は、ろばやらくだに肩代わりしてもらわなければなりません。礼拝に行くときには羊やヤギや雄牛をささげるのです。家畜を大切にするのは、自分の暮らしの質を高めることにもつながります。

 農業は、ある意味で単調な重労働です。その上、天候や害虫などにその収穫を左右されます。その結果、一攫千金など、「むなしいもの」を追い求める者がいたのでしょう。

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 悪者は、悪の網を張るのを好み、
 正しい者の根は、芽を出す。(12節)
 悪人はくちびるでそむきの罪を犯して、
 わなにかかる。
 しかし正しい者は苦しみを免れる。(13節)

 悪者と正しい人との対比は、箴言の論理の基調ですね。これは、世の中には「悪者」と「正しい人」の二種類がいる。「悪者に気をつけなさい」というような警鐘ではないように思います。正しい人も、ここに記されているような間違いを犯して「悪者」になり得ると自覚を促しているのではないでしょうか。
 苦しみを免れるためには、正しい者で居続けなければならないのでしょう。

 人はその口の実によって良いものに満ち足りる。
 人の手の働きはその人に報いを与える。(14節)

 口と手は、私たちが正しく生きるための大きな手段です。ことばを謹んでコントロールし、しっかりと堅実な労働をしているかぎり、良いものに満ちたり、報酬を受けることができるのです。






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2016年01月24日

Coffee Break箴言・32 愚か者は自分の道を正しいと思う。(箴言12章15節〜22節)



 愚か者は自分の道を正しいと思う。
 しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。(箴言12章15節)
 愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。
 利口な者ははずかしめを受けても黙っている。(16節)

 またしても、愚か者と知恵ある者の対比です。じつに、この通りで、私も「耳が痛い」ですね。自分の間違いを指摘されると、つい「でも」と言いそうになります。「こっちの言い分も聞いてよ」「事情を知らないくせに」とか、思うのです。でも、「でも」をちょっと飲み込むだけでも愚か者から、少し遠ざかることができるのでしょうか。
 「怒ないのは利口」「怒ないのはバカ」と聞いたことがあります。たしかに、直ぐにカッとなって怒りを抑えられない人は愚かです。必要な時だけ「怒る」のはなかなか難しいのですが、「はずかしめを受けても(自制して)だまっているなら、それは最善なのだ」と、箴言は言います。

 真実の申し立てをする人は正しいことを告げ、
 偽りの証人は欺き事を告げる。(17節)

 怒りを表わすより、真実を明らかにすることの方が大切ですね。必要な時には、私たちは、犠牲を払っても真実を申し立てなければなりません。たとえば、濡れ衣をきせられたとき、明らかに損害をかけられた時などです。
 また、そのような申し立てのさばきがあった時、証人として呼ばれたら真実を告げることは、神の前に当然です。冤罪事件に巻き込まれた人のために勇気をもって証言して上げることとか、会社や組織の悪を内部告発することは勇気が必要ですが、それは愚か者にならないことです。

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 軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。
 しかし知恵のある人の舌は人をいやす。(18節)
 真実のくちびるはいつまでも堅く立つ。
 偽りの舌はまばたきの間だけ。(19節)

 またしても、口の戒めです。本当に、言葉には気をつけなければいけないと思い知らされます。イエスさまも仰せです。「外側から人に入って、人を汚すことができる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」(マルコの福音書7章15節)
 たしかに、「口がうまい人」は一時的に、うまく世渡りできるかもしれません。ことばを聞いて信用することは多いのです。ところが、長く付き合っていると、いわゆる「化けの皮がはがれる」経験をすることは良くあるのではないでしょうか。それはもちろん、自分についても言えます。「長く付き合っても変わらない」と思わせる人こそ、価値があるのでしょう。

 悪をたくらむ者の心には欺きがあり、
 平和を図る人には喜びがある。(20節)
 正しい者は何の災害にも会わない。
 悪者はわざわいで満たされる。(21節)
 偽りのくちびるは主に忌みきらわれる。
 真実を行なう者は主に喜ばれる。(22節)

 結局のところ、私たちは、目先の利益ではなく、「主に喜ばれる」よう真実を語らなければならないと戒められています。








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2016年01月25日

Coffee Break箴言・33 正しい者はその友を探り出し(箴言12章23節〜28節)



利口な者は知識を隠し、
愚かな者は自分の愚かさを言いふらす。(箴言12章23節)

 「能あるタカは爪を隠す」「静かな流れは底が深い」ということわざがあります。
 ほんとうの知識や人格は、少しの時間ではわかりません。いつも自分をアピールしようとする人がいますが、自分を言葉で飾れば飾るほど、「愚かに見える」と箴言の著者は訓戒しています。

 王であったソロモンのもとにやってくる人たちは、みんな、何とか自分を王に売り込もうとして必死だったことでしょう。言葉巧みに知識を披露し、何とか王の心を掴もうとしたはずです。しかし、超一流の師匠から最高の教育を受けて育ったソロモンから見ると、多弁には、うんざりさせられることが多かったのではないでしょうか。
 
勤勉な者の手は支配する。
無精者は苦役に服する。(24節)

 勤勉を勧め、怠慢を戒めるのも、箴言の基調となる訓戒です。これは、古代イスラエルでなくても、現代でも、世界中で通用する普遍的な生活態度ですね。

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心に不安のある人は沈み、
親切なことばは人を喜ばす。(25節)

 現代は、しばしばうつが問題になりますが、気が沈むのは、古代の人の問題でもあったようです。それに対処する最良の薬は「親切なことば」だと言うのです。たしかに、効果がある「抗鬱剤」や簡単に「気晴らし」させるアルコールで、人は元気になるかもしれませんが、根本的な癒しは、「親切な言葉」を受けることでしょう。愛のある言葉で励まされた時、人は立ち直るのです。落ち込んでいる人に愛のある言葉を掛けることは、神様のみこころでもあるのでしょう。

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正しい者はその友を探り出し、
悪者の道は彼らを迷わせる。(26節)
無精者は獲物を捕えない。
しかし勤勉な人は多くの尊い人を捕える。(27節)

 26節27節は、言葉を変えて大切な訓戒を伝えています。「類は友を呼ぶ」ということわざがありますが、悪者の道には、「真の友」はいないのです。「尊い人」の心をとらえるためには、自分が「正しい人」であるべきなのでしょう。

正義の道にはいのちがある。
その道筋には死がない。(28節)

 正義にしばられない道は、ときに楽に見えたりするのです。しかし、「神の正義の道には、いのちがある」と言うのが、聖書のメッセージの基本です。

 イエスさまも仰せです。

 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。(マタイの福音書7章13節)
 






posted by さとうまさこ at 10:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする