2016年01月11日

Coffee Break箴言19 深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。(箴言8章24節〜36節)



 箴言8章を語った時、この著者は(ソロモンとは限らないと思います。)預言を得たのでしょうか。とつぜん、語り手が、人間の父ではなく「わたし(神ご自身)」になっているのは、何とも言えない神秘です。
 しかし、神ご自身でなければ発しようのない真実が明かされていきます。

 深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、
 わたしはすでに生まれていた。(箴言8章24節)
 山が立てられる前に、丘より先に、
 わたしはすでに生まれていた。(25節)
 神がまだ地も野原も、
 この世の最初のちりも造られなかったときに。(26節)
 神が天を堅く立て、
 深淵の面に円を描かれたとき、
 わたしはそこにいた。(27節)
 神が上のほうに大空を固め、
 深淵の源を堅く定め、(28節)
 海にその境界を置き、
 水がその境を越えないようにし、
 地の基を定められたとき、(29節)
 わたしは神のかたわらで、
 これを組み立てる者であった。
 わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、(30節)
 神の地、この世界で楽しみ、
 人の子らを喜んだ。(31節)

 これは、創世記1章に記述されている天地万物創世の次第ですね。箴言を書いた時代の教養人なら、創世記を読んでいたと思われます。けれども、驚くのは、そこで、わたしを「神のかたわらにいて、神とともに天地を組み立てる者」と形容していることです。
 さらに、「人の子らを喜んだ」というのです。これは、創世記1章31節の言葉どおりです。

 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕べがあり、朝があった。(創世記1章31章)

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 子どもらよ。今、わたしに聞き従え。
 幸いなことよ。わたしの道を守る者は。(32節)

 「子どもらよ」という呼びかけも驚くべきことだと思います。神様である「わたし」が私たちを「子ども」と呼んでくださることは、新約の民にとっては「周知の事実」ですが、この時代の人たちは、これをどう解釈したのでしょう。
 率直に、わたし=知恵と考えたのでしょうか。

 訓戒を聞いて知恵を得よ。
 これを無視してはならない。(33節)
 幸いなことよ。
 日々わたしの戸口のかたわらで見張り、
 わたしの戸口の柱のわきで見守って、
 わたしの言うことを聞く人は。(34節)

 なぜなら、わたしを見いだす者は、
 いのちを見いだし、
 主から恵みをいただくからだ。(35節)
 わたしを見失う者は自分自身をそこない、
 わたしを憎む者はみな、死を愛する。」(36節)

 そうですね。毎日、神様の訓戒を聞いて、知恵を得る者でありたいと思います。
 私にできることは、何でしょう。結局一番勧められている方法ですね。
 日々、聖書を開いてみことばを読み、祈って聖霊の導きをいただくことでしょうか。

 最後に、箴言8章について書かれたすばらしい紹介を、お借りして、写させていただきたいと思います。

  空知太キリスト栄光教会、銘形秀則師
  http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?FrontPage


 ベレーシート
 ##8章は箴言の中で最高峰と言われる箇所です。特に、22〜36節がそのクライマックスですが、今回はそのクライマックスの前の部分(1〜21節)を扱います。「知恵が声を上げて、呼んでいる」のです。すでに、1章でも「知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ・・叫び、・・語りかけて言う」(20〜21節)とありました。にもかかわらず、それを「拒み、顧みず、無視し、受け入れなかった」(24〜25節)とあります。そこでも「知恵」が擬人化されて「わたし」と表現されていますが、8章では本格的に「知恵であるわたし」(原文では「わたしは知恵」)と明言されているのです。
##8章で、「わが」でもなく、「私」でもなく、「わたし」と記述されている箇所は25回にも及びます。ただしこれは新改訳の場合で、新共同訳ではすべて一律に「わたし」として区別されてはいません。新改訳聖書の8章にある25回の「わたし」という人称代名詞の中で、主格(主語)として用いられている独立人称代名詞の「アニー」(אֲנִי)が使われているのはわずか4回(12, 14, 17, 27節)です。今回の範囲では12節、14節、17節の三つがそれです。それらの一つ一つを取り上げて瞑想したいと思います。 









posted by さとうまさこ at 11:17| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする