2016年01月28日

Coffee Break箴言・36 富はその人のいのちの身の代金である。(箴言13章7節〜11節)



貧しいように見せかけ、
多のく財産を持つ者がいる。(箴言13章7節)


 これは、文字通りに解釈しても良いと思われます。自分の外見を飾り、実際以上に裕福に見せようとする者は、どこにでも見ることができます。かつて、ブランド物のバッグなどは、そのような意味でふつうのOLや主婦の憧れだと言われました。他方、見かけは質素で、倹約家で、どうかすると貧しく見える人が、案外お金を持っていたりするのです。
 どちらが良いかは、その人の生き方の問題です。ですが、富に関しては、ぜったいに「心に留めておかなければいけないこと」があるのです。
 
富はその人のいのちの身の代金である。
しかし貧しい者は叱責を聞かない。(8節)

 昔から、「金が物を言う」と、言われています。危機に陥った時、富を身代金として自分を救い出すことができるとだれでも知っています。誘拐された場合の身代金は極端な例ですが、富の性質を言い当てています。必要な贈り物は、壊れそうな関係を修復できますし、病気になった時も、費用を心配せず治療を受けることができます。子女を教育するためにも、忠実な使用人に報いるためにもお金が必要です。親兄弟、貧しい友人などを援助することは、その人の徳を高め、いのちを延ばすでしょう。

 貧しい者が「その叱責を聞かない」とは、「お金がないからできない」と拒絶している状況ではないようです。この場合の貧しさは「気持ちの貧しさ」「想像力や愛のなさ」でしょう。つまり、この箇所は、世俗の富になぞらえて、霊的な富についても語っていると思われます。

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正しい者の光は輝き、
悪者のともしびは消える。(9節)

 ほんとうにこうであってほしいと思うと同時に、エリを正さざるを得ないことばです。自分が、いつでも変わらず「正しい者」であり続けるのは、なかなか難しいことです。この場合も、正しい人と悪者の二種類がいると考えるのではなく、どちらにも傾き得る「弱い人間として」肝に銘じる言葉でしょう。

高ぶりは、ただ争いを生じ、
知恵は勧告を聞く者とともにある。(10節)

 高ぶりが争いのもとになっているのは自明のことです。あらゆる争いを見ていると、争いを起こす人は「高ぶって」います。喧嘩や叱責を吹っかけられて、むくれる人間にも「高ぶり」があります。「カチンときた」「切れた」などと言う言葉は、神からご覧になったら高ぶりなのではないでしょうか。なにしろ、神の基準は高いのです。「右のほうを打たれたら左も向けなさい」(マタイの福音書5章39節)と、言葉は知っていても、なかなかできないのが人間です。
 しかし、私たちは知恵――神のことばを聞いて、争いを避けなければいけないのでしょう。
 
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急に得た財産は減るが、
働いて集める者は、それを増す。(11節)

 急に得た財産とは、いわゆる一攫千金で得た金でしょう。宝くじや危ない投資、ギャンブルなどで思いがけない大きな財産を手にする者は、たしかにいるのですが、それで「成功」した者はいないと言われます。
 地道に働いて自分で手にした富は、お金ではなく、もっと貴い物を手にします。それは、「稼ぐ方法」です。魚を与えるのではなく釣り方を教えなさいと言うことわざ通り、釣り方をみずから学んだ者は、強いのです。

 何もしないお金が入って来ると、お金がなくなった時にどうすればよいのか分かりません。それで、多くの人はギャンブルに戻って行くのです。その先は、蟻地獄です。






posted by さとうまさこ at 09:58| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする