2016年02月01日

Coffee Break箴言・40 真実な証人はまやかしを言わない。偽りの証人はまやかしを吹聴する。(箴言14章5節〜9節)



 真実な証人はまやかしを言わない。
 偽りの証人はまやかしを吹聴する。(5節)

 聖書を綿密に読んでみると、聖書は、硬軟広く存在する「嘘」をすべて戒めているのではないと思います。
 たとえば、アブラハム(アブラム)が妻のサラ(サライ)を妹だと偽ったために、サラがあやうくエジプトの王の寝室に召されそうになるという話があります。(創世記12章14節〜20節)同じ趣向の話はイサクの物語にも出てきます。(創世記26章6節〜12節) もし嘘が戒められているなら、この結果としてアブラハムは、取り返しのつかない人生の失敗を招くはずです。けれども、じつは罰せられたのは、エジプト王の方でした。アブラハムは、真相を知ったエジプト王から咎められましたが、追放を決めた王から多大の手土産をもらってエジプトを去ったのです。その結果、彼は格段に裕福になったのです。

 聖書が、はっきりと嘘を戒めている個所は、十戒の9番目の戒め「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。(出エジプト記20章16節)」です。
 つまり、人を陥れる嘘は戒められているのです。今のように、防犯カメラも録音装置も科学捜査もない時代、 この時代は、判決の決め手は「証言」でした。有罪は「二人または三人の証言」が必要でした。裏を返せば、三人が偽りの証言をしたら「死刑になる」可能性もあったのです。それがどれほど深刻かは、今の常識で考えてもわかるでしょう。
 ひと一人を葬り去りかねない「嘘の証言」は、繰り返し禁じられているのです。

 嘘をつくと、人は嘘を確かなものにするために、嘘の上塗りをするようになるでしょう。たんに「盗む現場を見た」と言う証言から、「日頃から盗み癖があった」「お金に困っていた」なんて尾ひれを付けてまやかしを言い始めるのです。


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 あざける者は知恵を捜しても得られない。
 しかし悟りのある者はたやすく知識を得る。(6節)

 13章1節bの「あざける者は叱責を聞かない」と同じ趣旨でしょう。主をあざける者への警告です。

 愚かな者の前を離れ去れ。
 知識のことばはそこにはない。(7節)

 愚かな者=あざける者=知恵のない者、です。そのような人との交わりを敬遠しなさいと戒めています。
 たしかに、最初は人のうわべをみるわけです。神ならぬ身としては、人の心はなかなかわかりません。知恵や知識がありそうな人だと思って付き合っていて、がっかりさせられる経験は、誰でもあると思います。
 
 利口な者は自分の知恵で自分の道をわきまえ、
 愚かな者は自分の愚かさで自分を欺く。(8節)

 これも「自分の道をわきまえることは、知恵のある事であり、利口な者となり得る」と言いかえられるでしょう。「愚かさとは、自分の愚かな判断で、自分を欺く」こととも言えます。

 神を恐れ、神の基準という地図と、自分の立っている場所をいつも照らし合わせていると自分を弁えることができるでしょう。けれども、最初から神をあざけって、自家製の地図を頼りに旅を始めた者は、迷ってもまた自家製の地図を見るのですから、正しい位置に戻ることができません。

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 罪過のためのいけにえは愚か者をあざけり、
 正しい者の間には恩恵がある。(9節)

 聖書の神は、ご利益信仰の神ではありません。ですから、いけにえは、手早く結果を求めるための「わいろ」ではありません。自分の罪に対する不完全な支払いです――完全に支払って私たちの罪を帳消しにして下さるために、イエス・キリストが十字架にかかられたのです。

 主を恐れない者にとっては、罪のためのささげ物などは、バカらしい支出だったかもしれません。それに対して、正しい者は、その意味を知っているので、ささげ物をすることだけでも、喜びがあります。そして、じっさいにも、お恵みがあり、祝福があるのです。






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2016年02月02日

Coffee Break箴言・41 心の堕落している者は自分の道に甘んじる。善良な人は彼から離れる。(箴言14章10節〜21節)



 心がその人自身の苦しみを知っている。
 その喜びにもほかの者はあずからない。(箴言14章10節)
 悪者の家は滅ぼされ、
 正しい者の天幕は栄える。(11節)
 人の目にはまっすぐに見える道がある。
 その道の終わりは死の道である。(12節)

 どれも、その通りですね。軽妙な警句ともいうべき言葉が続きます。

 笑うときにも心は痛み、
 終わりには喜びが悲しみとなる。(13節)

 人間はつい笑いに満ちた楽しい人生に憧れます。しかし、笑っている時、それが神の祝福に裏付けられていなければ、やがては悲しみに変わります。たとえば、酒に酔って盛り上がった後のむなしさを思い浮かべてみて下さい。

 心の堕落している者は自分の道に甘んじる。
 善良な人は彼から離れる。(14節)

 一度しかない人生,どうせ死ぬのだから楽しくやろうという人がいます。そのような誘惑は私たちの回りに満ちていて、「楽しければいい」と甘んじさせるのです。
 続いて、そのような幼稚さを戒める言葉が続きます。

 わきまえのない者は何でも言われたことを信じ、
 利口な者は自分の歩みをわきまえる。(15節)
 知恵のある者は用心深くて悪を避け、
 愚かな者は怒りやすくて自信が強い。(16節)

 愚かさは連鎖反応を起こすようです。咎められることが多いわけですが、愚かな人は自分のしていることを咎められると、カッとなって怒るのです。つまり、短気になります。短気さは、それ自体愚かな行いを招きます。

 短気な者は愚かなことをする。
 悪をたくらむ者は憎まれる。(17節)

 そうして、愚かさは、それを受け継ぐ愚か者に伝染するのです。

 わきまえのない者は愚かさを受け継ぎ、
 利口な者は知識の冠をかぶる。(18節)

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 悪人はよい人の前で、
 悪者は正しい人の門のところで身をかがめる。(19節)

 正しい者、正しいことが最後には勝利するということでしょう。勧善懲悪は、このような信念なしに、貫くことは難しいのではないでしょうか。

 貧しい者はその隣人にさえ憎まれるが、
 富む者を愛する人は多い。(20節)
 自分の隣人をさげすむ人は罪人。
 貧しい者をあわれむ人は幸いだ。(21節)

 もともと、人は貧しさを蔑むのです。飢えや困窮はだれにとっても恐ろしいことだからです。豊かな人からは、ノウハウを学んだり、仕事をもらったり、おこぼれにあずかることができそうな気がします。しかし、貧しい者は、施しの対象であり、自分の見る光景を悲しい世界に変えてしまいます。ですから、ホームレスなどは、出来れば、身近にいて欲しくないのです。

 聖書は、一貫して貧しい人をあわれむように勧めています。
 聖書で「隣人」とは、同じユダヤ教の人々、イスラエルの人同士のことです。同じ神を戴いている同じ民族であってさえ、貧富の差があると、人は差別をしたり、貧しい人を苦しめたりしたのでしょう。
 モーセの律法は、貧しい者のための法をたくさん定めています(出エジプト記22章22節〜27節、23章11節、申命記15章1節〜11節、24章10節〜22節)
 ここで「幸い」と言われている行いとは。律法をさらに押し広げた同胞愛でしょう。ひとかたまりのパンを与えるにしても、さげすみではなく、あわれみの心で行ないなさいと、戒められている気がします。






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2016年02月03日

Coffee Break箴言・42 穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。(箴言14章22節〜30節)




 悪をたくらむ者は迷い出るではないか。
 善を計る者には恵みとまことがある。(箴言14章22節)

 悪を行なうことに対する戒めも何度も出てきましたが、悪の結果「迷い出る」ことは非常に深刻ですね。何から迷い出るかと言えば、「神の教え」からです。神から迷い出たら、恵みは期待できません。なぜなら、恵みとは神が下さる物であって、人が人に与えることができないからです。それは、神との信頼関係(信仰)の中で体験することなのです。

 すべての勤労には利益がある。
 おしゃべりは欠損を招くだけだ。(23節)

 勤労の反対概念としておしゃべりが使われているのに注目です。勤労の反対なのですから、これは、「愚にもつかないおしゃべり」のことでしょう。愚痴、批判、悪口、ホラ、空想的な計画などのおしゃべりは、たしかに小さな勤労にも値しない空疎なものです。

 知恵のある者の冠はその知恵。
 愚かな者のかぶり物はその愚かさ。(24節)

 「おっしゃる通りです。」と言うしかありません。

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 誠実な証人は人のいのちを救い出す。
 欺く者はまやかしを吹聴する。(25節)

 またしても、「証言」です。誠実な証人であり続けることも、たしかに難しいと自覚させられるのです。

 力強い信頼は主を恐れることにあり、
 子たちの避け所となる。(26節)
 主を恐れることはいのちの泉、
 死のわなからのがれさせる。(27節)

 箴言の根底は、箴言1章7節の「主を恐れることは知識の始めである」に尽きます。
 主を恐れることで、災難からの避け所にもなり、新しいいのちを汲みだすこともでき、死のわなからのがれることさえ出来るのです。感謝です。

 民の多いことは王の栄え。
 民がなくなれば君主は滅びる。(28節)

 君主への戒めですね。君主はいわば、民が担ぐ神輿(みこし)に乗っているのです。神輿を担ぐ民がいなくなれば、君主の立場はなくなってしまいます。大きな民を支配していることに奢らず、民を慈しまなければならないのです。

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 怒りをおそくする者は英知を増し、
 気の短い者は愚かさを増す。(29節)
 穏やかな心は、からだのいのち。
 激しい思いは骨をむしばむ。(30節)

 今の時代は、かつてないほどの健康志向が関心事です。衣食住のすべてにわたって、いかに健康維持と関連しているかが問われています。高齢になっても、栄養豊かな食物を摂り、心身の少しの不調にも対処することが勧められています。
 脳の状態を維持向上させるためのプログラムも開発されています。
 前向きで穏やかな心を持つようにも、勧められています。でも、一番大切なことが、抜け落ちていないでしょうか。
 それは、「穏やかな心」は、神から来るという認識です。








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2016年02月04日

Coffee Break箴言・43 寄るべのない者をしいたげる者は自分の造り主をそしり、(箴言14章31節〜35節)



 寄るべのない者をしいたげる者は
 自分の造り主をそしり、
 貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う。(箴言14章31節)

 寄るべのない者とは、たのみとする所がない者のこと(広辞苑)です。古代イスラエルは大家族のきずなが強い族長社会です。孤児ややもめも親戚内で養われたことでしょう。それでも、寿命が短い時代ですから、疫病や戦争があると家族がいなくなり、孤児ややもめになる者もいたのです。また、何かのきっかけで流浪し、イスラエルの民の群れに入ってくる者が「在留異国人」です。
 家族や国家のきずなから離されてしまったこのような人たちは、当時も今も弱者です。

 聖書では、弱者に対する保護が律法として定められています。(出エジプト記22章21節〜27節、23章11節、申命記15章1節〜11節、24章10節〜22節)それでも、人間の常として、弱者は虐げられていたのでしょう。箴言を語る父親は、改めて、弱者を虐げるのを戒めているのです。
 それは、なによりも、造り主(神)に背く行為なのです。ここで、わざわざ、主(主)や神のことを「造り主」と明確にしているのは注目に値します。自分は、造られた者に過ぎないという自覚を促し、同時に、「寄る辺ない者たち」も同じ主から造られたと、自覚させています。

 今日でも、ある人は豊かである人は飢餓ぎりぎりで暮らしています。豊かな日本にいると、貧しいといっても飢餓状態の国々の人々よりはるかに裕福です。根源的な問題は、どこに生まれるかは生まれつき決まっていることです。紛争地帯に生まれるか、先進国に生を受けるかはだれも選べません。障害を持って生まれるとか、貧しい家に生まれるとか、虐待するような親の元に生まれるとかも選べないのです。はっきりしているのは、等しく、人は神によって造られたことです。
 貧しい地域に置かれた人たちも、神が御造りになったのです。何故かわからないけれど、彼らは困難の中に置かれているのです。でも、神を見あげると、私たちは同じ同胞であり、助け合わなければならない「被造物」であることがわかるのではないでしょうか。

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 悪者は自分の悪によって打ち倒され、
 正しい者は、自分の死の中にものがれ場がある。(32節)
 知恵は悟りのある者の心にいこう。
 愚かな者の間でもそれは知られている。(33節)
 正義は国を高め、
 罪は国民をはずかしめる。(34節)
 思慮深いしもべは王の好意を受け、
 恥知らずの者は王の激しい怒りに会う。(35節)

 悪者=愚かな者=恥知らずの者=罪を行う者。正しい者=知恵と悟りのある者=正義で国を治める者=思慮深いしもべ、と、色分けされています。

 ここでいう「国」は、もちろん、国家なのですが、同時に神が治めておられる「神の国」をも意味していると思います。王は目に見える「支配者」であるでしょうが、同時に、神ご自身のことでもあるのではないでしょうか。






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2016年02月05日

Coffee Break箴言・44 柔らかな答えは憤りを静める。(箴言15章1節〜6節)



 柔らかな答えは憤りを静める。
 しかし激しいことばは怒りを引き起こす。(箴言15章1節)

 唇や舌についての戒めが何度も出てきます。それというのも、舌で失敗する人が多いからではないでしょうか。激しい言い争いでも、始まりがあります。発端は小さくてもどこかで種火に油を注がれたように業火になるのです。また、最初から油をぶっかけて火を付けるように、怒鳴り込んでくる人がいるかもしれません。しかし、言い争いの火事を鎮めるのは、「穏やかな答え」であるのは事実でしょう。

 知恵のある者の舌は知識をよく用い、
 愚かな者の口は愚かさを吐き出す。(2節)

 柔らかな答えができるかどうかが「知恵」なのです。神の知識を用いれば、しぜんに穏やかな答えになるはずです。ふだん、どれほど繕っていても、怒鳴り声を出してこぶしを振り上げたとたん、彼(彼女)が愚か者であることがわかるのです。
 
 主の御目はどこにでもあり、
 悪人と善人とを見張っている。(3節)
 穏やかな舌はいのちの木。
 偽りの舌はたましいの破滅。(4節)

 「ボロが出る」ということばがありますが、それは結局、その人が神の前にある姿が出ることでしょう。神を信じてもいない人は、その傲慢さが出てくるのです。

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 愚か者は自分の父の訓戒を侮る。
 叱責を大事にする者は利口になる。(5節)
 正しい者の家には多くの富がある。
 悪者の収穫は煩いをもたらす。(6節)

 子どもに対する親の心配事の大きなものは、彼が経済的にきちんと暮らしていけるかどうかがあるでしょう。たしかな仕事を持つこと、倦まずに働くことを教えない親はいません。子どもに学歴を付けるのも、留学をさせるのも、特技や資格を付けてやるのも、子供が「仕事をして自立できるように」との親の願いではないでしょうか。

 親はお金の使い方についても教えます。豊かな収入があるに越したことはありませんが、それを正しく用いる知恵がないと、煩いをもたらすというのです。
 大金があって湯水のように使える人の回りには、蟻が甘いものに群がるように人が集まり、酒を勧めたり、あやしげな占いや、麻薬を勧めたりします。数日来ニュースになっている元プロ野球選手にも、誰かが、覚せい剤を売りつけたに違いないのです。
 しかし、もちろん、彼は誘惑を退ける知恵をもっているべきだったのです。

 誘惑のワナに堕ちない方法は、叱責を大切にする謙虚さ、神が見ておられるという絶対者への恐れです。


       ★聖書の引用は新改訳聖書を使っています。



posted by さとうまさこ at 10:17| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする